第四章 松虫《まつむし》其ノ肆


ふと気づくといつの間にか夜も更けて、宴は終焉に掛かっていたらしい。

とうに女院らを初めとする女性にょしょう方は座を去り、では今宵はそろそろ…という声が執事別当の藤原隆季から上がって、今度こそ基房は締めの挨拶をと居住まいを改めた。

うやうやしく伏礼し、本日の招待の礼を言上し始めたその時。


「院及び女院におかれましては…」

「おおそうじゃ。宴の終わりに知盛と重衡に舞うてもらおうかの。どうじゃ?」


いきなり遮った院のお声に、座が凍り付く。

これで二度目だ、と誰もが思った。ただいまの摂政、藤氏長者たる基房を、いかに院とはいえ二度も無視なさるとは、あまりに礼を失したなさりようだった。

これは単なる偶然か、それとも意図的なものかと扇の陰で秘かに取り沙汰する声など知らぬげ気に、当の院は御機嫌で平家の人々をご覧遊ばす。

場の冷たさに当然気づいているだろうが、そうと言われてお断りできるものでもなく、権大納言重盛は弟たちを促して立たせる。


「では、率爾ながら臣が笛を奏させていただきまする」


そう頭を垂れた長兄に、もの問いた気な目を向ける宗盛を視線で制し、重盛は笛を取った。


月夜にひょうと横笛の調べが流れ、舞人の袖が翻る。

陵王乱序りょうおうらんじょ。名曲「蘭陵王らんりょうおう」の導入部である。

ぴたりと揃う指し手、あざやかに残像を結ぶ若竹と水藍の袖に、きりりと引き絞るような笛の音が絡んでは流れてゆく。

本来は一人舞のこの曲を、凛々しい少年二人が堂に入った姿で踊る。勇壮さとあでやかさの相和す見事なものだった。


「これは…なんとうるわしいこと」

「お二方ともまだお若いが、なんの、堂々たるものではあらしゃいませぬか」

「さすが院ご秘蔵の若君たちよ」


院のご寵愛がいまだ揺るぎなく平家の上にあることを嗅ぎ取った貴族たちは、すかさず褒めちぎってみせる。

機を見るに敏と言おうか、風向き次第でたなびく先を易々と変える煙の如き者たち。

しかもそれは他家に限ったことではなく、あろうことかその中に藤原の者すらいることに基房は気づいていた。

さすがに本家に近い者たちは忌々しげに眉をしかめているが、末端の者らは容易く平家に靡く、そのさまを目に刻みつける。

あの者らは一族として守るに値せず。藤原を名乗るも烏滸がましい限りだ。こうした者がいるから、院が勝手をなさる。

だがあのような下司どもなどいくら集まろうと所詮烏合の衆。それを頼みにしているようでは、院も平家も存外口ほどにもない…と、秘かに嗤ううち、舞は終わっていた。


満座の拍手を受けて座に下がった知盛と重衡に院からお誉めの言葉があり、そのままご退席になって、自然宴はお開きとなった。

口々に少年たちの舞を褒めちぎって席を立っていく貴族たちは、高位の者から退室するという最低限の礼儀さえ最早守る気がないようだった。

あまりの仕打ちに憤然とする本家の親族たちや、涼しい顔で座したままの兼実には目もくれず、基房はただひたすら、一人の男を睨み付けていた。

身分も弁えず、藤氏長者たる自分を超えていこうとする男を。

なぜかその男は立とうとせず、じっと座ったまま、こちらを見つめていた。視線がぶつかり合って、その場を支配する。

――否、支配者はこの我だ。平家は地下者。筆頭名門たる我と同席することさえ叶わぬ身でありながら、真正面から睨み据えるとは何事か。

一向に動こうとしない基房に、恐る恐る辞去の言葉をかけて先に立った年長の親族たちにおざなりな返事を返す間にも、彼らはただ睨み合っていた。



やがて場に残ったのが自分と弟兼実、そして平家の兄弟たちだけになったことをさりげなく確認した基房は、ゆっくりと口を開いた。

「なにゆえ退座せぬ、権大納言殿」

すると重盛は何を思うか、僅かに微笑んだ。

――馬鹿にするか、下賤の者が。

「なにがおかしいか」

「…いえ、有難くも摂政殿下御直々おじきじきにお声を掛けていただくのは、今が初めてかと」

そういえばそうかもしれない。掛けずに済むものなら永久に掛けずにおきたかった。

そう思い起こすのも忌々しいと基房が思っているのを知ってか知らずか、重盛は端然と座ったまま、動かぬ理由を告げた。


「摂政殿下がお立ち遊ばすのをお見送りする所存にて、お待ち申し上げております」


それは用の済んだ者は早々に表舞台から消えよ、という意味か。

しかし穏やかに微笑んだ重盛の表情は変わらぬ。

それへ基房も穏やかに返す。


「今をときめく平家の棟梁殿にお見送りいただくなど大変な誉れなれど、その気遣いはご無用。我も礼儀を心得るゆえ」


一見穏やかな遣り取りではある。だがその言葉の奥にどれほどの毒が込められているか、この場に残った者には明白だった。



(続)

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