第四章 松虫《まつむし》其ノ壱


大内裏の周囲に巡らされた築地塀を宮城垣きゅうじょうがきという。

その宮門からほど近い場所に、貴族の一、と称される藤原宗家の本邸がある。

その奥深い一室で、一人の男が文机の前に端然と座し、何やらさらさらと書き記していた。

己が邸内にあってなお、髪に一筋の乱れもなく、襟元すら寛げず、凛然とした佇まいを崩さないこの人物こそ、平重盛の天敵、松殿こと藤原基房である。

痩身色白で眉目秀麗、長い藤原氏の歴史の中でも際立って秀でた政治手腕と識見を持つこの大貴族の青年の切れ者ぶりはつとに有名で、近年飛ぶ鳥落とす勢いの平家棟梁重盛と並び称されているのだが、当の本人はそのことを汚らわしいとさえ思っている。

うっかり宴席で重盛を誉めたとある堂上とうしょうが「今すぐ立って権大納言ごんのだいなごん殿に忠義を尽くされるがよろしかろう」と基房に痛罵され、その場から叩き出されたこともある。

その貴族は二度と藤原家の酒宴に招かれなかったどころか、都中の堂上貴族たちから爪弾きにされたという。娘の縁談も断られたその中年貴族は今、お情けで与えられた平家の所領の片隅で細々と暮らしているらしい。

重盛としてもそれ以上に遇してわざわざ火中の栗を拾う気にはなれなかったろうし、第一そうした場で無用心に敵方の首魁を褒めちぎるような口の軽い者を重用できる筈もない。


さて基房である。遅くまで灯明を灯して書き物を続ける彼の元に、弟の兼実が訪れたとの知らせが入った。しばし考えてからここへ通すようにと伝えると、程なく異母弟が顔を見せた。


「珍しいこともあるものやな。そなたがこのような刻限にならしゃるとは」


言外に遅くの来訪を咎めると、色白でふっくらとした貴族らしい顔を伏せる。


「無作法をお許しくだしゃりませ、兄君。至急お知らせ申しょうと思いたち、このような夜半にまかり越しました」

「…よい。そなたがそこまで言うからには、よほどのことやろ。言うておみ」


は、と頭を上げた弟の続く報告に、常には滅多なことで動じない基房が顔色を変えた。


「…なんやて、六波羅から?」

「多数の家人どもが出て、こちらの邸の周囲を取り巻いておるそうやにおじゃります」

「しかし争うような物音は聞こえておらぬし、報告も受けてはおらへんが」

「松明こそ明々と灯しているものの、秘やかに動いておるのやそうで。具足もつけず、平生のままの姿ですが、身のこなしが間違いなく武家の者やと」

「なんとそのようなことが」


青褪めた頬の基房は、呆然と異母弟を見つめた。


「こちらを攻撃するでなく、ただじっと立っておるのやそうです。蹴散らそうにも、ただ立ち話をしているだけやの、歩き疲れて休憩しておるやのと、言を左右にしてどかんので、警護の者らも困惑しておるようで」

「何が目的や…」


細いおとがいに手を当てて考え込んだ基房は二十五歳の若さで氏の長者として藤原家を率いる立場であるが、数年前に左大臣を辞し、摂政として帝の輔弼に当たっている。

彼と平家の確執は、清盛の娘盛子が亡兄の妻となり、藤原家の所領の殆どを火事場泥棒的に相続したことに始まり、もはや修復不可能なものとなっていることは周知の通りである。

しかし彼は同時に、現在の平家の棟梁である重盛のことも嫌うがゆえによくわかっていて、このようなこれ見よがしな示威行動を取るとも思えないのであった。


「私にもしかとはわかりませぬが…」

「なんや。心当たりでもおわしゃるんか」

「先頃、兄君がご参内の折、下馬せんかった平家の一行を咎め立てあそばしたと伺いましたが」

「…ああ…私は牛車くるまの内におったよってようは知らんが、供回りの者らが何やら騒いでおったげな」

「その時、うちの者らが手を出したんは、清盛入道の下のお子らやったそうで」

「…なんと」


そのような事態になっていたとはつゆ知らぬ基房にしてみれば、青天の霹靂である。原因はどうあれ先に手を出したのがこちらで、その相手がさきの太政大臣の子息とあれば、いかに平家を嫌いぬいている基房とて、余計なことをと己の配下に対して舌打ちしたい思いであった。


「それで清盛入道がえろうお怒りで、報復すると言うて息巻いておるとか」


兄の憤怒と焦りを知る知らず、淡々と報告を続ける兼実の無表情が、基房により一層事態の不気味さを感じさせる。

周りから自分がどのように思われているも自覚する基房であるが、自らを厳しく律し、筆頭名門、摂関家として帝の、ひいては禁中の御用を賜り、国体を護持する役目をもって任じている。

しかしその基房にして、我が弟ながら兼実が何を考えているのかよくわからない。少しくらい慌てたり焦ったりするふうを見せれば可愛気もあるものを、と己を棚上げしていれば忌々しいことにぴくりとも表情を崩さない兼実が追い打ちを掛けるように尋ねてくる。


「それで、いかがあそばされますか?」

「…いかがと言わしゃっても、あちらが当家の門内へ入り込んできたわけでない以上、どないもこないもいたしようがあるまい」


苦々しい思いで手にした蝙蝠かわほりをひとつ打つ。

すると兼実は兄の癇性な仕草を眼に留めつつ、さらりと言葉を継いだ。


「……あちらから暴発させる手も、ないではありましゃらんが」


そのひやりとした声音に、今度こそ基房は愕然として彼を見つめた。何を言い出したのか、この弟は。


容易たやすいことです。平家の者らが黙って立っていられんようにすればええ。犬の死骸を投げつけてやるもよし、目の前で端女はしためを歩かせて、襲われたと悲鳴を上げさせてもよろし」

「何を馬鹿な。平家の者とてここであえて騒ぎを起こさんよう、言い含められておるであろ。そないな挑発に簡単に乗るわけが…」

「ほんまに乗ってこんでもよいのです。『そういうことがあった』とこちらが主張して、検非違使別当の耳にでも入れば、それで目的は達せましょ」

「…おことは…怖い男やな…」


呟いた基房の心中は揺れていた。確かにその方法を採れば、こちらとしては何ら傷を負うことなく相手を退かせることが出来る。

だが平家の思惑が奈辺にあるか知れぬ以上、下手な手出しは藪をつついて蛇を出しかねない。躊躇いつつも、基房としてはこう答えるしかなかった。


「いや…今はよい。こちらの警護の者には一切無視せよときつく言うておきやれ」


あるいはその態度は惰弱と映ったやもしれぬ。だが兼実は数拍の間をおいて兄に頭を下げた。


「…ではそのように」


兄の考えを否定するとも、己の考えを押し通すでもない。そうした柳のような兼実の態度に焦れるのは、いつも自分の方だ。

素っ気ないとも言える一言のあと、早速立って退室しようとする弟の後ろ姿を見ながら、今回も言わずもがなの言葉を掛けずにはおれなかった。


「兼実。かまえて今は仕掛けるでない。…今はな」


弟は黙礼しただけで出ていった。しかしその考えが甘かったことを、基房はほどなく痛感させられる羽目になる。



(続)

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