第四章 松虫《まつむし》其ノ弐


油照りといわれる都の夏もどうにか過ぎ去り、そろそろ虫の音も賑やかな秋を迎えた頃、法住寺殿で後白河院が中秋の宴を催されるとの御諚があり、高位の貴族たちが招かれた。

基房も兼実ほか主立った藤原貴族たちとともに院御所に伺候した。観月のため広廂ひろひさしに設けられた席に着き、院と女院のお出ましを待つ。


「…来ておりますな」


囁きかけてくる兼実の視線の先には、平家の現棟梁である重盛、そして宗盛・知盛・重衡ら前太政大臣清盛の子息たちが居並んでいた。

平家と後白河院の蜜月は続いており、彼らに反感を抱く貴族たちの不満と不安を増大させている。その慰撫も兼ねての今回の宴であろうが、これでは逆効果だと基房は苦々しく思う。

院は政に熱心でおいでなのではない、ただ自らの安寧と安楽を望んでおられるだけなのだ。ゆえにご自身の後ろ盾たる平家を認め、共に我をたすけよ、との御思し召しなのだろう。


そうはゆかぬ、と基房は貴族にしては薄い口唇を引き結ぶ。

そも、平家とは何者か。地下人の侍ではないか。武家は朝廷と貴族を警護するために存在を許されるのだ。

それがのりを越え、まるで貴族のような暮らしぶりと、あまつさえ殿上まで勅許せられ、本分を忘れるとは何事か。

まして今の平家に武人としての矜恃と能力を持った者がどれほどいようか。

忌々しいながらその方面では確かに武家の棟梁たるに相応しい重盛はともかくも、あの宗盛とやらいう者を見るがよい。貴族、殿上人に求められる優雅さにはほど遠く、おどおどした様子が見苦しい。さりとて武人たる猛々しさなど欠片もなく、あれで現在の正妻の生んだ長子というのだから、平家の行く末も知れたものだ。

今でこそ若年ゆえに、清盛の長子とはいえ後ろ盾のない前妻の子である重盛が棟梁として一族を率いているが、こうしたことはやがて移りゆくもの、宗盛が次期棟梁として早晩立てられるであろうのに、その正嫡があのような様子では…と皮肉に嗤う。

そもそもそのような者らにこの場への出席をお許しあるなど、院は守るべき範というものを如何にお考えなのか。

例外というものは、特段に秀でた者にこそ与うるべき恩寵だ。院のそれは逸脱でしかない。

これでは帝の御代とそれを輔け、国を支える貴族、そしてその手足となり武をもって仕える武家というこの国を構成するもといが揺らぎ、失われていくばかりではないか。


「兄君」


兼実の窘めるような声に、己の想念に沈み込んでいた基房は我に返った。

自分の左手が扇の先を折れんばかりに握りしめていたことに気づく。品よく箔を施した扇は、軸から外れんばかりに歪んでいた。すっと右袖の中に引き込み、美しい薄の絵が描かれた地紙を整える。


「…お顔に出されぬとは、さすがにあらしゃいますな」


含み笑いする兼実をひと睨みし、何事もなかったかのようにゆったりと袖を捌いて姿勢を正す。

そうだ、私は藤原の氏の長者、摂政殿下と呼ばれる身分である。

荒気ない心うちを外に出すなど許されぬ。氷の宰相と呼ばれ、畏敬を向けられることこそ相応しいはずではないか。

大貴族たるもの、そうあらねばならぬ――平家などとは違って。



(続)

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