第三章 菖蒲草《あやめぐさ》其ノ参


やしきの門をくぐったところで馬から飛び降り、東の対に上がるや足音も高く弟たちの室に向かった重盛は、以前もこのようなことがなかったかと思い出す。

あれは彼らが仙洞御所へ童殿上を始めたばかりの頃、近衛家ゆかりの女房に知盛がしたたかに打たれた折のことだった。

今は建春門院と仰せられる後白河院の女御滋子のもとへ基房が送り込んだ女で、平家に対する藤原家の恨みを子供たちにぶつけてきたが、ある日突然、謎の死を遂げた。

以来弟たちに対する苛めは止んだので安心していたのだが、事はそう単純ではなかったらしい。

(そしてあの時、俺は四郎五郎の房室へやの扉を開けてみて驚いたのだったな…そう、こんなふうに)

そう思い返したのは、あの日と同じようにしとねに横たわった子供と、それに寄り添うように座る子供、二人の弟の姿が記憶とぴたりと重なったからだった。

――ただし、子供の立場は逆転していたが。


「…大兄上」


青醒めた顔でこちらを振り仰いだのは以前は横たわっていた知盛で、あの時心配そうに兄を覗き込んでいた重衡が今度は横になっている。


「委細は聞いた。五郎はいかがした」


そう問うと、知盛がいきなり深々と頭を下げ、震える声で詫びた。


「…もうしわけございません…」

「どうしたのだ四郎。五郎は…」


まさかと最悪の状況を想像した重盛が五弟の褥の脇に座り顔を覗き込むと、血の気が失せているものの、微かに震える唇が呼吸していることを伝えた。

額に巻かれたさらしが痛々しい。そっと指を伸ばしてそれを撫でる。


「…殿下のやっこどもがおれたちを蹴りつけました」


悔しそうな声で告げた知盛は、唇を噛んだ。


「その時、五郎が俺をかばい、転がされて頭を打ちました」

「…なんということか」


平家の子息が、いかに摂政の配下とはいえ、従者ごときに足蹴にされたというのか。宮中では耐え抜いた分、怒りが倍加して重盛の体内を駆けめぐる。

しかし俯いた知盛の腕にも晒が巻かれ、小さな手がぶるぶると震えて、袴の裾を握りしめているのを見ると、これ以上問うのは酷な気がして、重衡の横で脈を診ていた薬師に目をやる。


「薬師殿、五郎の具合はいかがか」

「大事ございませぬ。おつむりに傷を負われましたが、幸い出血も少なく、早々にお目覚めになられましょう」

「後々動きに不自由したり言葉がつたなくなったりすることはなかろうか」

「その恐れはあるまいかと存じます。日頃の丸さまのお元気なれば、すぐにご快復になりましょう」

「さようか」


ようやく心から安堵して、眠る重衡を見つめることができた。

毎日練り薬を塗り、晒を取り替えて滋養のあるものを食べさせるようにと側仕えに言い置く薬師に礼を言って下がらせ、知盛の腕を取って傷を確かめる。


「そなたの傷はどうじゃ。痛むか」

「…いいえ。おれの傷などたいしたことはありません」

「無理をするな。五郎はほどなく快復すると薬師殿が言われたであろう」

「……大兄上」


唇を噛んで涙を堪えているかのような表情かおで重衡を見つめていた知盛は、呟くように言った。


「…おれが……おれのほうが蹴られていればよかったのに」

「四郎」

「こんな…こんな五郎を見るくらいなら、おれが…!」


日頃激した様子を見せぬ四弟の血を吐くような慟哭に驚くが、同時に納得もする。

知盛がこのような激情を見せるのは、家族に関することだけなのだ。

中でも年近く双子のように育った重衡に対しては、他のことには恬淡としているこの弟が、深い執着を見せる。

それは重衡の方も同じで、彼らは互いが他者によって傷つけられる時、身を挺してでも互いを護ろうとする。くだんの仙洞御所の女房に痛めつけられた時もそうだった。

魂を分け合った者同士というのはこうしたものか…と重盛は幾度目か彼らの結びつきの強さに感嘆の思いを抱いたが、同時にその危うさにも気づいていた。

互いを大切に思う余り、彼らは己が身を顧みず、また他者を排除しかねない。

共依存――もし重盛が後の世の言葉を知っていたら、そう表現したことだろう。その危惧を抱きつつ、傷ついた心を持て余す幼い弟を抱き寄せて口を開く。


「そなたが傷つけられていれば、五郎もその同じようにそうして嘆いたであろう。せんにそなたが女院さまの女房に打たれた折もそうであった。四郎、あの折そなたはなにゆえ五郎を庇った?」

「…それは…」

「今こそあの時五郎がどのような心持ちであったかがわかるであろう。そして次は自分が強くあろうとしたことも。そなたがあの時五郎を守れて満足だったように、五郎もそなたを守りたかったのだ。その気持ちを大切にしてやるがよい」


懇切に説き聞かせると、見上げてくる潤んだ瞳に納得の光が浮かぶ。

本当に重衡を大事に思うならば、その意思も大事にせよ、という兄の説諭が知盛の心に届いたようだ。


「大兄上…」

「なに、こやつのことだ。目が覚めればけろりとして腹が減ったと言い立てるに決まっておるわ」


人の悪い兄のおどけた言葉に噴き出した知盛は、漸く重盛に笑顔を見せた。


「では今のうちに粥などととのえさせてまいります」


そう言って立ち上がった彼は、しかし扉の前まで歩み寄るとふと立ち止まる。

もう一度振り返って眠る弟の姿をじっと見つめ、そっと房室へやを出ていった。



遣戸やりどを静かに閉じた知盛は、すぐにはその前を立ち去らず、

弟の眠りを護るかのように扉の合わせ目に掌を当て、ぽつりと呟いた。


「…でも大兄上。おれはこのまま黙ってはいません」


黒曜石の瞳に火が灯る。


「松殿基房…五郎のこうむった痛みを必ずやおまえにも返す。待っているがいい」


握りしめた拳を激する心のままに扉に叩きつけることはしないのはただ、昏々と眠る、大切な大切な弟の眠りを妨げぬため。

その代わりに知盛は、静かに決意の焔を燃え上がらせて、復讐を誓った。




郭公ほととぎす鳴くや五月のあやめ草

             あやめも知らぬ恋もするかな

                   (古今集 巻十一 恋一 詠み人知らず)





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