第三章 菖蒲草《あやめぐさ》其ノ弐


それからひと月ほどが穏やかに過ぎていった。重盛の体調も快復し、漸く出仕も適うようになった。

逆に知盛が長雨のせいかまたもや体調を崩したが、これも三日ほどで起き上がり、梅雨が明ける頃から重衡と仲良く牛車くるまに乗って参内するようになっていた。

そうなるとじっとしていられないのが知盛という少年である。

出仕のない日は馬で野山を駆け回るような元気であるから、病の間中、床に就いてじっとしているのは余程鬱屈が溜まるのだろう。

出仕再開後すぐの休みに早速重衡と鷹狩りに行きたいと、長兄に許しを得に、夜半に二人揃って重盛の房室へやにやって来た。


「ほう、鷹狩りか。かまわぬが、充分に気をつけよ」

「わかっております」

「そうかな?そなたらは夢中になると後先考えなくなるからな。特に四郎、そなたは病み上がりの身ゆえ、余り長い時間を馬上で過ごすと、後で辛くなるぞ」

「だいじょうぶです、おお兄うえ。わたしが、四郎兄うえがむちゃをなさらぬよう、ちゃんと見はっておきまする」


にやにや笑いながら保証する重衡に、呆れた目を向ける。


「五郎、そなたもじゃ。いつぞやのように美しい蝶を追って迷子になどならぬようにな」

「…あのときは、お前のおかげでおれまで母上にしかられたのだぞ」


まだ馬にも乗れぬ幼い頃、母や女房たちと野遊びに出た折、日がとっぷりと暮れるまで皆で重衡を探し回った時のことを思い出したか、知盛が渋面を作る。

実際あの時は大騒ぎだったのだ。それなのにひょっこりと幕屋に戻ってきた当の重衡は、皆の安堵や小言を余所に「ははうえに、おはなをつんでまいりました」とにこにこ笑いながら、色とりどりの野の花を差し出した。

なぜお一人で御拾おひろいになられましたか、お寂しくはありませんでしたかと乳母に尋ねられた重衡――五郎丸は、「きれいなちょうちょがいたの。さびしくなかった」とあどけない声で答えたものだ。

よちよち歩きを脱したばかりの息子が見つかるまでの間、心痛で真っ青になっていた母時子は、皆の労苦と心配を思えと子供たちを厳しく叱ったが、一日じゅう五郎丸が握っていたために萎れてしまった花を小さな桶に入れ、大切そうに持ち帰っていた。


それを見ていた四郎丸――知盛は、自分がいつも寝込むことでも母にどれほど心配をかけていることか、と幼いながらに気づいたのだった。

以来彼は具合が悪くなっても周囲に悟らせまいとするようになってしまったが、その分己を律し、身体を鍛えるようになった。

対して五郎丸――重衡は、兄が心配を掛ける分、自分は元気でにこやかに、と心掛けているらしく、いつも人当たりよく、大人たちの懐に甘え込むのが以前にも増して巧くなった。

…心のままに蝶や花を追いかけるような無鉄砲さは一向に改まらなかったが。

しかしそれでも兄の身体が彼にとっては最優先で、知盛が寝込んでいるような時は常に傍らにあって、甲斐甲斐しく看病する一方、母や乳母が言うような小言も兄の枕元で降らせるのだった。

この二人ならば子供たちだけで鷹狩りに行かせても大事なかろうと判断した重盛だが、念のため自分の従者の貞光を供につけ、北山の狩り場に送り出した。



翌夕、宮中での務めを終えて帰邸しようとしていた重盛の元に急報がもたらされたのは、申の刻近くだった。


「知盛様重衡様ご一行、北山よりの帰途に襲われ、お二方様ともに下馬なされた由にございます!」

「何と…して二人は無事か」

「は、貞光殿ら少数のお供に護られ、お徒歩かちにてようようお邸に戻られたとのこと」


注進の者が庭先で報告するのへ、広廂に立った重盛は一応安堵の息を吐いた。

しかし昼日中平家の子息を襲うとは肝の太い野盗どももいるものよと改めて問い質せば、弟たちを襲ったのは無頼の者などではないという。


「それが…お二方様を襲いしは摂政殿下の従者どもとか」

「…何…」

「ご参内途中の殿下のお牛車くるまとすれ違う際、お二方様が下馬の礼を取らなかったことに、近衛家の従者たちがいきり立ったとかでして」

「…またしてもあの御仁か」


苦々しい思いで、先年来平家とのあらゆるいざこざに絡んでくる松殿基房の、白く冷たい横顔を思い出す。

大貴族らしい優雅な挙措と秀麗な面立ち、冷淡で傲慢な表情をした基房は、宮中では重盛を見もしない。下賤の者と蔑み、目の穢れと視界に入れようともしない態度は、いっそ天晴れだと思う。

その分こちらは彼のことを観察できると、重盛は密かに彼の動向を注意深く見守っているが、まさか幼い弟たちに直接手を下すとは思ってもみなかった。

しかもこのような下らない事柄で。

堅く拳を握りしめ、怒りを露わにしないよう耐える。何といってもここはまだ宮中だ。その理性が感情の爆発を辛うじて押しとどめる。

重盛は低く押し殺した声を発した。


「…わかった。すぐに邸へ戻る。馬引けい!」


そのまま庭先へ降り立った主に、供の者たちは慌てて馬の用意に走った。

常ならば穏やかでゆったりと動く平家の棟梁が、厳しい表情で内裏の外へと歩み去るのを、すれ違う貴族たちが呆然と見送る。

これだから伊勢平氏の如き成り上がり者は、と陰口を叩かれているのを黙殺しながら馬上の人となった重盛は、そのまま従者たちを置き去りに、六波羅へと駆け出していった。



(続)

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