第三章 菖蒲草《あやめぐさ》其ノ壱


嘉応二年(一一七〇)六月、平朝臣清盛公の子息、四郎丸と五郎丸が仙洞御所に童殿上を始めて三年半が過ぎた。

その間、彼らも元服し、名を知盛・重衡と改め、官位も従五位下を戴いた。平家の公達としてまずは順当な滑り出しと言えた。

そうなるともはや仙洞御所にのみ伺候することはできず、二人は帝のおわす宮中、殿上の間に上がるようになっている。

一方、彼らの長兄重盛は今や権大納言ごんのだいなごんの地位に進み、宮中で顔を合わせることは滅多にないが、なにくれとなく弟たちのことを気に掛けていた。

自我の強くなる年頃になった少年たちのほうも、過保護な兄を幾分は鬱陶しく思うこともあったろうが、もともと家族の絆の強い平家一門のことである。

面映おもはゆいながらも、父や兄に護られ、誉められることが素直に嬉しくもあるようだった。


しかしこの数年、その父と兄は相次いで病の床に就いた。

彼らが童殿上を始めた仁安二年(一一六七)冬には重盛が、翌三年には父清盛がそのため職を辞した。

その後、重盛は一旦復職したものの、父は位人臣を極め太政大臣にまで昇っていながら、出家して摂津福原に隠棲していた。

後を任され京に残った総領重盛は、思うに任せぬ体調を養いつつ、三度みたび就いた権大納言職に精励し、新たな平家の棟梁として一族を統率する日々であった。


(まったく、不甲斐ない――)

その日も軽い発熱で床に就いていた重盛は、苦い思いでいた。

つい数年前まではこうして病臥するのは四弟である四郎丸知盛であったのに。

彼も相変わらずよく熱を出すが、今では自分の方が寝つく日が多い。

なよやかに見えて実は一番丈夫なのは三弟宗盛や五郎丸重衡のようだ。


「おお兄うえ?」


塗籠の板戸をほとほとと叩いて声を掛けたのは、その重衡だった。

そっと扉を開けて顔を覗かせた五弟は、美しい瞳を心配そうに陰らせて長兄の具合を問うてきた。


「おかげんはいかがですか?」

「ああ…だいぶいい。今、何時かな?」

「未の刻をすぎたばかりにございます。さきほど義姉あね上が使いをよこされ、薬湯をおとどけくださいました」


そう言って差し出された盆の上には、結び文と湯気を立てる小椀があった。

妻の経子つねこは七ノ宮憲仁親王の乳母めのとであったが、践祚せんそにより春宮大夫を辞任した夫と異なり、東宮が生い立たれ幼い帝とおなり遊ばされた今も典侍ないしのすけとしてお側に仕えている。

それが気位の高い彼女の拠って立つところのようで、日ごろ夫婦仲はさほど睦まじくはない。

おおかたこの薬湯も経子の名を借りて別な女が寄越したものだろうと推察する。


長い馴染みとなった建春門院滋子付きの女房、小宰相局こざいしょうのつぼね姿子しなこはこうしたことによく気が回る。

おそらく正妻である経子を憚りつつ、愛人重盛の容態を案じたものであろう。

二人は同じ藤原の出で、しかも従姉妹にあたる。おそらく経子も夫と従妹の関係に気づいていると思うが、そのことで重盛を詰ったことはない。

(あれも賢い女だからな…。見苦しい真似はすまいと思ってもいるのだろうが、つまるところそこまで俺に心を置いていないということだな――お互いさまだが)

手の中の文を開きながら重盛は思う。


そうした自分たち夫婦の有り様に今さら失望しているわけでもない。

経子は深層の姫君らしい女で、特に他に恋人を持っているようでもないし、自分も若い頃のようにあちらこちらに通う女を持つような手間をかける気にもなれず、今は姿子一人で充分と感じていた。

艶福家の父のように行く先々で新たな女の世話をする甲斐性など、自分にはとうてい持ち得ぬと思う。

それでも父が現在最も重んじ、頼りにもしているのが義母時子であるというのは、生みの親である亡母に対して申し訳なくはあるものの、父として尊敬できると重盛は思う。

できれば自分も妻となる女とはそうありたかったが…。苦く笑って頭を振る。


「おお兄うえ…?」


怪訝そうにこちらを伺う重衡に何でもないと答えて文を読み下せば、やはり末尾の署名は「しな」となっており、己の推測が当たっていたことにまた内心苦笑する。


「ならば心づくしの薬湯をいただこうか」

「はい。あつうございます。おきをつけて」


気遣いながら渡された椀を受け取り、怪しげな色をした中身を思い切って干してから盆に戻す。

(できれば――)

ふたたび己の想念を追う。できればこの弟たちにはそのような味気ない思いはさせたくない。

知盛も重衡もまだ幼く、妻女を娶るには早すぎるが、九つで嫁いだ妹盛子のこともある。

平家も都の貴族社会に食い込んで生きていく以上、どのような婚姻が降って湧くかはわからぬ。


「そういえば四郎はいかがしておる?」


ふと知盛のことを問えば、重衡は吐息をついた。


「四郎兄うえは朝からとお乗りに出られたようで、いまだおもどりではありません」

「そうか、そなた置いてゆかれたな」

「いつものことだとおっしゃりたいのでしょう?ひどいです、おお兄うえ」


桜色の口唇を尖らせて拗ねてみせる五弟は十になったばかりだ。幼い仕草に思わず笑うと、赤くなった重衡がぷいと横を向く。


「これ、そなたももう元服して数年になるのだぞ。公達でもとびきり早い者は妻を得ようという年なのに、そのように子供っぽい」

「おお兄うえがこどもあつかいなさるからではありませんか。わたしはもうおとなです」

「ほう、では嫁をもらうか?」

「いりません」

「なぜだ?愛らしい姫君を迎え、兄のように子をもうけて、早く一人前の大人になりたいとは思わぬか?」

「妻と子ができればいちにん前になれるわけではないでしょう?…わたしは……」


拗ねてそっぽを向いていた重衡が、急に言葉を切って俯く。


「…わたしはもっと父うえやおお兄うえ、四郎兄うえのおそばにいとうございます」


いつも朗らかで笑ってばかりいる弟が急に心細げにするのを見て、重盛は驚く。


「おいおい、そなたが嫁にゆくわけではないのだぞ。結婚しても我らが共にあることに変わりあるまい」

「ともに…そうですね…」


明るく保証してやったが、しかし重衡の表情は晴れない。重盛には彼の屈託が判るような気がした。

男兄弟はよい。養子に出る者もないではないが、長じても兄弟の関係は保っていられるし、一族の結束に揺るぎはない。しかし女兄弟たちはそうはいかない。

政略結婚が婚家との関係を繋ぐ誓詞代わりである以上、実家と一旦敵対すれば即座に婚家においては人質となり、それまで奥方様として傅かれていた立場から転落する。

悪くすれば囚人めしゅうどとして監禁、あるいはみずから命を絶つことを余儀なくされる可能性すらあるのだ。

一族の娘の多くを貴族に嫁がせている平家ではさまでのことはあるまいが、武家同士ならば充分にあり得る。


「そなたが懸念しているのは盛子がことか」

「はい…。いまごろきっと、つらい思いを…」

「そうだな」


重盛は思い溜息を吐く。

夫の近衛基実に先立たれた盛子は、父清盛の策謀で近衛家――藤原氏本流の資産のほとんどを相続したが、それゆえに基実の親族から深く恨まれているらしい。

その急先鋒が基実の弟であり、藤原氏の長者を継いだ摂政、松殿基房である。

彼は当初盛子を妻の一人に迎えて藤原氏の所領を継承しようとしたが、清盛に阻まれ、盛子とその背後の平家を蛇蝎のように嫌っていた。

ことに重盛は同世代ゆえか、殊更恨みを向けられている気がする。

彼が後白河院に重んじられ、妻ともども高倉帝の乳父母の地位を賜ったのも気に入らないらしい。

古来より続く名家である藤原氏、その主流である近衛家の出である誇りから、平家はもともと地下人の分際で天子の御養育を任されるとは何事か、と公言して憚らない。

対抗措置として当時まだ十代半ばの異母弟兼実を東宮傅とうぐうのふに送り込んでくるなど、先年来ことある毎に争う姿勢を見せられ、藤原宗家と平家は一触即発の状態に置かれている。


「盛子は哀れだが、武家も堂上も政に携わる以上、そうした痛みを逃れることは出来ぬ。なればこそ、一日も早う藤原宗家とのことに結着を付け、あれを心穏やかにしてやらねばな」

「…はい」


深く頷く重衡に微笑みかけながら、そんな時に己の身体こそが自由の利かぬ状態であることに、焦燥を深める重盛であった。



(続)

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