第二章 篝火《かがりび》 其ノ弐
くだんの桂の女房が法住寺殿の池に落ちたという報が届いたのは、それから数日後のことだった。
仙洞御所の
その場をおさめるべく指図を行い、彼女を引き揚げさせ、院や女御のおわす対ではなく、表の警務所の土間に寝かせた。
ぐっしょりと濡れて絡まった長い黒髪の一房が、驚愕を浮かべたまま息絶えたであろう女の顔に貼り付いている。
「今朝方発見された時には、すでに池の表面は凍っておりましたし、おそらくは昨夜…それも深更に落ちたものかと」
「そのような時間になぜ…」
「さあそれは。見ていた者もおりませんようですし」
警護の者も困惑の面持ちで女を見下ろしている。しかも桂は
普通ならば
だがここでそれを想像したところで、真相が見えてくるわけもない。
「よし、女御様にご報告申し上げてくる」
そう言い残して土間から立ち上がった重盛は、滋子女御の局に向かった。
「では桂は溺れて苦しむ間もなく、心の臓が止まったと…?」
「おそらくはそのようであろうかと拝察いたします。昨夜遅くの冷え込み具合ですと、水の冷たさは尋常ではございますまい」
「…哀れなこと」
そっと目頭を押さえられた女御に、重盛は言葉を継いだ。
「いぶかしいのは桂殿が池に落ちられたことに、どなたもお気づきでなかったことです」
「そうですね…。丑の刻ころとなれば、みな寝静まっていたのでしょうが…」
「どなたか、物音をお耳にされた方は?」
女御の周りに怯え集った女たちに向かって問えば、皆当惑したように一様に首を振る。
「失礼ながら女御様はいかがにおわしますか?」
「わたくしもとんと…。ゆうべはお上も覚性入道親王様を訪ねて
覚性入道親王は後白河院のすぐ下の同母弟君で、仁和寺の門跡を務めておいでになる。
このたび総法務の宣旨をお受け遊ばすることとなり、ご多忙中であると重盛も聞いているが、同じ京にあってもなかなか直接お会いになれないために、昨日から二晩ほど兄君が御室にご滞在になって、ご兄弟水入らずでお過ごしなのだそうだ。
「いずれにせよ、桂殿のことはこのままこちらに置いておくわけにも参りません。お里へお知らせし、引き取って懇ろに葬っていただくよう手配いたします。今しばらくはご身辺も騒がしいことと存じますが、何とぞお心安んじてくださいますよう」
「お頼み申します、三位殿」
鷹揚に頷いた女御に深く伏礼し、重盛は御前を辞した。
その夜、小宰相局の元に忍んでいった重盛は、もやもやとしたものを女の身体にぶつけた。
突き上げるように彼女を苛み、あえかにすすり泣く様を見ても、心は晴れなかった。
「…桂殿のことがお心にかかっておりますか」
長々と慰まれた女はぐったりと伏せながらも、そっと労るような声で問うてきた。
「…すまない。あなたに無体を強いたな」
「いいえ。わたくしはよろしいのです。けれど…」
「ああ、わかっている。どうにもすっきりとしない。なぜ桂殿が真夜中に池に近づいたりなどしたのか、気にかかってならぬ」
その言葉にしばらく無言で考え込んでいた小宰相局は、乱れた黒髪をかき上げながらゆっくりと身を起こし、躊躇いがちに言い出した。
「…先日来、
「何か」
「確かなこととは申せませんし…」
「かまわぬ。何でもよいから言ってみなさい」
それでもまだ逡巡を見せる女を強く促すと、ようやく口を開いた彼女の言葉に虚を突かれた。
「…桂殿は、天寵を賜っていたのではないかという噂がございます」
「…何と」
後白河院が熱心なことが二つある。ひとつは今様、いまひとつは房事であった。
弟たちを仙洞御所に上げるに当たって重盛が懸念していたのもそこで、まだ幼い彼らについてそのような心配をせねばならぬほど、お相手の男女を問わず院はそちらの事にお盛んなのだった。
今のところはまだ四郎丸も五郎丸も思し召しを受けた気配はないが、つまるところ、さすがに十にもならぬ少年たちに手を伸ばされずとも、院のご身辺には華やかな花々が咲き競っているということだ。
桂の女房が院のお情けを受けていたというのも充分にあり得る話だった。
「しかし院のお手がついただけならば、よくあることだろう」
「…ええ。ことさらそれが皆の恨みを買ったとも思えませんし…」
それよりも桂の君は自身の日頃の態度で恨み嫉みを買っていた方が大きかろう。重盛もそう思った。
それが本当だとしてもまだあからさまではなく、局を賜ったわけでも、女御付きから院付きに変わってすらいない。
小宰相局が確証を掴んでもいないということは、桂自身が自慢気に吹聴していたわけでもないということだ。
「そんなわけですから、申し上げかねておりましたのです」
「…そうか…」
ふと思案に沈んだ重盛を不安そうに見つめ、女が言葉を継いだ。
「…やはりお耳に入れるべきではございませんでしたか。お心を惑わせるようなことを…」
「いや、それは言ってくれてよかったのだ。今すぐ思い当たらずとも、今後の思案に関わってくる」
「ならばようございました」
ほっとしたように微笑む愛人の肩を抱き寄せながら、重盛は一瞬心に浮かんだ泡沫のような疑念を打ち消した。
朋輩の恨みではなく、院のご寵愛を受けたことが原因なのだとすれば、むしろ女房たちよりも疑わしい御方がいらっしゃる。
(よもやあの御方が…まさかな)
平家の行く末を託すお子もお生まれになり、ご自身の身辺も盤石、我が世の春を謳歌しておいでの女御が、たかだがお手つき女房に妬心を起こされるわけもない。
その意味では朋輩女房たちと同様、院の浮気心に今更お悩みになる要もない。
第一、いかになんでもそのようなことを自分の立場で軽々に口に出すわけにも行かず、重盛はほのかな懸念を己の胸に仕舞い込み、まだ柔らかく溶けたままの女の身体を組み敷いて、再び夜の熱情に溶け込んでいった。
それから数日して、四郎丸は再び出仕できるまでに回復し、五郎丸と法住寺殿へ通う日々に戻った。
「だいじょうぶですか、あにうえ。もう、いたくありませんか?」
車に揺られながら心配そうに兄を労る五郎丸に、病み上がりの兄は素っ気なく返した。
「もう何ともない。なんどいえばわかる」
「でもあにうえ、きのうだって、中丸がおみあしにじゃれかかったら、かおをしかめておいででした」
自分が痛いかのように口をへの字に歪めて泣き出しそうな顔をする五郎丸である。
飼い猫が甘えて飛びついてきた時のことを思い出して、四郎丸は眉間に皺を寄せた。
「…あれは中丸のつめが身にくいこんだのだ」
よりによって一番痛みが残っている脹ら脛にじゃれつかずともいいものを、中丸の馬鹿者め。しかもしっかり五郎に見られていたとは。不覚だ――とむくれながら軒の揺れに身を任せる四郎丸だった。
二人揃って院と女御の元へそれぞれ出向き、四郎の本復と出仕再開を報告した後、兄と別れた五郎丸は、再び女御の元へとひとりとって返した。
四郎丸は黙ってそれを見送り、控えの間へと下がっていった。
いつものように甘えた口調で女御に人払いを願い、若い義叔母と二人きりになった五郎丸は、急にすっと身を引き、女御の正面に離れて座した。
「どうなさったの、五郎殿?」
「このたびは、兄四郎丸がご心配をおかけし、もうしわけありませんでした」
畏まって神妙に頭を下げる甥に、女御は微笑んだ。
「…それは先程も伺ってよ。気になさらず、四郎殿ももうしばらく出仕を控えてもよろしいのに。義姉上もそなたたちと離れて淋しい思いをしておいででしょうし」
思いやり深く時子のことに触れ、四郎丸の身体を気遣う様子を見せる女御を、五郎丸はついさきほどまでの甘えた様子が嘘のように、冷ややかに見やった。
「…そしてこんどは、五郎を院のおそばからとおざけますか?」
そういわれた時の女御の、慄然とした表情こそ見ものだった、とのちに五郎丸は兄に語ったものだ。
「四郎あにうえが院のおきにいりになるのが、そんなにこわいですか?でも、もうやめてくださいね」
「な…なんですって…?」
「あにうえはあなたにとってかわろうとなどとは、思っておいでではありません。これいじょう、四郎あにうえに手をだすなら」
そこで一旦言葉を切って、呆然とこちらを見つめる女御を見据える。
「あなたがなにをなさったか、重盛あにうえに…いえ、院におはなししますよ」
ひやりとした言葉は、とうてい幼子の発するものとは思えなかった。対する美しい義叔母の顔は瞬時に蒼白になり、半開きの唇はわなわなと震え、言い返すことはおろか、言葉を紡ぐことさえできないようだった。
自分たちに与えられた控えの間に戻った五郎丸は、そこでだらしなく寝ころんだ兄を見つけた。
自分を待っていてくれたのだ、そう思うと、元気になった兄のことが嬉しくて、駆け寄ってすぐ側に座り込んだ。
「あにうえもご承知だったのですね」
自分を見上げてくる同じ色の瞳に、この寡黙な兄が、自分が何をしたか全て判っているのだと知る。
しかし五郎丸は、この兄にだけは何も隠すつもりはなかった。兄のために何をしたのか判って、それでもこうして待っていてくれることが嬉しかった。
「女御さまは、院が四郎あにうえをお気に入りなのがお気にめさなかったんです。だからあのとき花生けをこわしてしまったのはわたしだったのに、桂どのはあにうえにすぐお怒りをむけられたでしょう?」
「女御さまがおれを折檻するように前もって桂におっしゃっていたというのか」
「…たぶん。だからあにうえにいじわるする機会を、桂どのは待っておいでだったんですよ」
ふん…と面白くもなさそうに四郎丸は鼻を鳴らした。
「…五郎。おまえ、なぜ女御さまの差しがねとわかった?」
「だって四郎あにうえ。あの方、とてもこわいひとだと思いませんか?はじめてお目にかかったときから、五郎はいやなかんじがしましたもの」
「おまえは女御さまに見とれていたんじゃなかったのか?」
「おきれいなのはほんとでしょう?お心はちがうのだろうなとは思いましたけど」
「きれい?あの女がか?」
思わず強く言い返した四郎丸は、弟に窘められた。
「お声がおおきいです、あにうえ」
五郎丸はにやりと笑って兄の手を引っ張り、塗籠の中へと誘った。さすがに院御所の内で大声で主の批判をするわけにはいかない。四郎丸も大人しくついていき、扉を閉めるとさらに声を落としてこそこそと言いつのった。
「桂どのを殺したのはあの女じゃないか」
「ええ、そうですけど」
怖いことを口にするまだ幼い子供たちには、女御への敬意も義叔母に対する親愛もまったくない。
「…あっさり肯定するな。だいだい、あの女をたきつけて桂を池に突き落とさせたのはおまえだろう」
「だってあにうえをあんな目にあわせたのは桂どのですもの。だからお返しです。女御さまはなぜかわたしをお気に入りだから、すぐお信じになられましたよ」
気のないように肩をすくめて五郎丸は言い捨てた。
四郎丸が院のお気に入りになったのが面白くなかった女御が桂に命じたのは、すこしばかり懲らしめてやる程度のことだったのだろう。
そもそも平家を疎ましく思っていた桂が大人しく女御の命に従ったのは、小生意気な子供たちを罰して、自分の力を誇示したかっただけかもしれない。
つまりあの女たちは似たもの同士だったというわけだな…と四郎丸は嗤った。
そして身体を壊した四郎丸が邸に籠もっていたあいだも出仕を続けていた五郎丸は、
桂どのは、女御さまよりもお上となかよしなのですか?と。
顔色を変えた女御が問い質すと、小首を傾げて「みこができたら、とうぐうに」と二人が籠もる御簾の内から聞こえてきたと不思議そうに答えてみせた。
そんなことを聞かされて、我が子憲仁親王の立太子がなったばかりの女御が平静でいられるわけもない。
多情な夫である院と自分の女房が
しかし自分の子の跡は、自分の孫に継がせたいと思うのが人情である。このままいけば、憲仁親王が東宮位を廃され、桂の子が至尊の位に登るかもしれない。
その後、こっそりと院の御座所に忍んでいった女御は、昼日中から御簾の中で院と女が戯れる声を漏れ聞き、それが桂だと思いこんだ。
――実はそれが、五郎丸が女物の袿を被っておどけてみせ、院を笑わせていたのだとも知らずに。
院への愛情と言うよりも、己が一度手にした権力を、我が子の将来を奪いかねない事態が女御の冷静さを根こそぎ奪い取った。
数日後、院がお出かけの隙を狙って、御用を装って言葉巧みに桂を誘い出し、真夜中の池に突き落とすことなど、女御ならば簡単にできたのだ。
そして衝動的に桂を突き落とした後で、己が何をしてしまったかに気づいた女御は、四郎丸や五郎丸、そしてその背後にいる重盛や己の後ろ盾であるはずの平家に怯え、逆らえずに生きていくことになったというわけだ。
「…おまえ、たいした軍師だな。女をだますのは造作もないか」
「あにうえこそ、あのとき、女御さまにおっしゃっていたではありませんか」
「…おれが、なんだって?」
「女御さまのかがやくばかりのお美しさに、十六も年上の母うえがかなうわけもない、だなんて」
「あれは…ちがう」
「わかっております。あれはつまり、女御さまがお美しいのは今だけ、っていうことでしょう?」
「………」
「ふふ、あにうえ、お口がおわるいです。あんなことをおっしゃるから、女御さまはよけいにあにうえをおきらいになるんですよ」
「……おまえに言われたくはない」
憮然とする四郎丸は、兄弟二人しかいないのをいいことに、平然と胡座をかいて片肘を着いた。
「あの女が我をうしなって桂を殺すのを、最初からねらっていたな」
「これで女御さまはもう、あにうえにいじわるなさいませんよ。ごあんしんください、四郎あにうえ」
にっこりと笑う五郎丸のこの笑顔がくせものだと、彼らの長兄がうすうす気づいていることを四郎丸は知っている。
あまりあの実直で苦労性の兄に、弟の歪んだところを見せたくはないな、と思い、このことは黙っていようと四郎丸は決めた。
「…楽しそうだな、おまえ。百戦百勝は善の善なるものにあらざるなり、だぞ」
「戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり、でもあるでしょ?わたしはちょっとだけ、よけいなことを言ってしまっただけです」
けろりと言い放った五郎丸は、今度は真面目な顔をして兄に告げた。
「…これからも、あにうえを害そうとするものは、ぜんぶ五郎がこらしめてさしあげます。だって四郎あにうえは、わたしのだいじなあにうえですから」
そういって微笑む弟をうろんな目でみやり、再びごろりと横になった四郎丸を嬉しそうに見つめている五郎丸だった。
君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも
(万葉集 巻十五 狭野茅上娘子)
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