♯233 長い夢の終わり



 陽光に揺れる、小さな蕾。


 優しくそよぐ風が頬を掠め、青々と広がる草花の上に大きな波紋を残して通り過ぎていく。


 穏やかな日差しが肌に暖かい。


 しっかりと水気を湛える太い幹の側に寄り添うと、ひんやりとした空気が心地よかった。


 カサカサと控えめな葉ずれの音が落ち、腰かけた膝の上で、浮かぶ木陰を賑わせる。


 穏やかな日常。


 心美しい世界。


 仄かに香る芳香に意識を向ければ、山吹色の花弁が目に留まった。


 指先で花弁に触れると艶やかに跳ね返り、僅かに溜め込んだ朝露がぽつりと一滴、茎を伸ばした地面の葉の上へと雫の跡を残す。


 心地よさに頬を緩ませると、優しげな微笑みが周りから寄せられた。


 年老いた老人。壮年の夫婦。

 瑞々しさの溢れる少女や、青年達。


 ふわりと微笑むたびに笑顔が綻ぶ。

 ただそれだけで、心が満たされていた。


 その中から一人、男の子が前へと進みでる。

 まだ年端もいかないいとけない男の子だった。


 男の子は少し恥ずかしげに躊躇いながら前へ来ると、後ろ手に持っていたものをそっと差し出した。


 シロツメクサで編んだ草冠だった。


 つたないながらも一生懸命に編んだのであろうその草冠は少し不恰好で、だからこそそれが、より一層愛しくも思えた。


 幸せな時間だった。


 いつまでもそれが続くと、そう思っていた。

 いつまでも続くのだとそう、思い込んでいた。


 お礼を言いながらその草冠を受けとると、どこか不安げだった男の子の表情に笑顔が広がった。


 屈託の無い笑顔に、気持ちが華やぐ。


 心から愛しいと思った。

 心からその笑顔を、微笑ましく感じていた。


 その男の子の姿が陰る。


 真っ暗闇の中で滲んで陰る男の子の姿が歪み、引き裂かれた。


 気がつくと戦場にいた。


 朱い槍を握りしめ、それを振るっている。


 肌に感じていた暖かみはひりひりと焼けつく熱に変わり、風に含まれていた草花の芳香は、くすんで焦げ付いた鉄の臭いの中に掻き消されていた。


 自らの名を呼ぶ声がする。


 憎悪と怨嗟を含んで向けられた自分の名が、憤りも顕に叫ばれる。


 向けられる憎悪が、自身を害そうと迫る。

 叫ばれる怨嗟がねっとりと四肢に絡み付く。


 それらに対して朱槍を振り回し、払い除ける。


 本当は怖かった。

 怖くて怖くて仕方なかった。


 竦みそうになる手足を奮い起こし、挫けかけた心根に歯を食い縛る。


 守りたいものがあったから。

 あの穏やかな日常を、壊されたくなかった。


 朱槍を掲げて戦い続ける事は怖かった。


 憎悪や憤怒に向かい合い続ける事は恐ろしかったけれど、それでもただ守りたくて、守りたかったからそれでも、戦い続けた。


 いつしか背に、頼もしさを感じるようになった。

 背にあって守ってくれる者が、いた。


 そして傍らに、ともに戦ってくれる者がいた。


 背中に感じる頼もしさ。

 傍らの安心に心委ねながら、戦い続けた。


 皮膚が裂け、肉が千切れ、骨が砕けていく。

 それでも死ねない身体で尚も朱槍を振り続けた。


 槍を振るうたび、裂けた皮膚が削れていく。


 戦場で力を振るうたび、千切れた肉が弾け、砕けた骨が軋みを上げて崩れていく。


 それでもひたすらに戦い続けた。

 ひたすらに槍を、振り続けた。


 気がつけば一人、世界の外側にいた。


 いつ果てるとも知れぬ戦いは、終わっていた。

 すでに戦いが終わっていた事を世界の外側で一人、知った。


 世界は平穏を取り戻していた。


 越えられぬ壁の向こうに、戦い勝ち得た世界を、触れられぬ世界を感じていた。


 自分に向かって頭を下げる人々。

 目を閉じて祈る人々。


 その中の誰一人として笑顔を向けてはくれない。

 暖かみを与えてくれる人がいない。


 ――違う。そうじゃない。


 頭を下げて欲しいんじゃない。

 目を閉じてなんて欲しくない。


 私はここにいる。

 ここにいる私を、見て欲しかった。


 誰かに笑顔を向けて欲しかった。

 暖かみを、伝えて欲しかった。

 

 視界をずらすとそこに、背を預けた者と隣にあって共に戦った者がいた。


 背を預けた者は力を失っていた。隣にあった者はその身体を、大きく損なっていた。


 けれども彼らは世界の内側にいた。


 世界の内側で温もりに囲まれていた。

 溢れる笑顔に囲まれて、穏やかに暮らしている。


 それを一人、世界の外側から眺めていた。

 眺めている事しか、出来なかった。


 心が沈んでいく。


 感情が暗い闇に、染まっていく。


 妬ましさが心を締め付ける。

 生まれる憎悪が、思いを焼き焦がしていく。


 私が戦ったのに。

 戦い抜いたのは私なのに。


 私が救った世界の中に何故私がいないのか。

 何故私は一人で、こんな所で世界を眺め続けなければいけないのか。


 還りたい。


 私の世界へ。

 あの世界へ再び、還りたい。


 暗い闇の中に心が沈んでいく。

 黒い感情が魂に深く、染み込んでいく。


 自分が消える。

 意識が飲まれていく。


 深い暗闇の中へ、長い時間をかけてゆっくりと沈み込み、溶け込んでいく。


 自分が自分じゃなくなっていく。


 そっと、手を引かれたような気がした。


 暗い感情の中に溶け込み、自分という認識があやふやになって混ざりあっていくその途中で誰かに、手を引かれた。


 小さな手だった。

 子供の手だと思った。


 あやふやだった輪郭が形を成して、溶けて消えてしまいそうだった意識を、僅かに取り戻す。


 今まで感じていたもの、見ていたものが全て消え去り、自分という認識を取り戻した私は、長い通路の途中にいた。


 石造りの長い通路だった。


 記憶と自我の曖昧なまま、どこか見覚えのあるその石造りの通路を、導かれながら歩いている。


 目の前に一人の男の子がいて、手を引かれている。


 手を引かれながら、通路を進んでいる。


 記憶と認識がぼやけて、かすむ。

 自分の名前さえも、はっきりと思い出せなかった。


 どこか見覚えのある場所。

 知っているハズの、男の子の背中。


 でも、……誰だったけか。


 記憶の中にあるのは、草冠をくれた男の子。


 私では無い私の中にある、曖昧な記憶。

 その男の子の笑顔が脳裏をよぎり、気付く。


 ……違う。あの子じゃない。


 忘れてはいけない誰か。

 忘れたくない誰かなのに、思い出せない。


 君は、……誰。


 記憶が少しずつ、繋がりはじめる。


 まだ自分の事はよく分からないけれど、目の前の男の子の事が強く、意識をしめていく。


 やがて通路が終わり、男の子の手が離れた。


 振り返った男の子が微笑んだ気がした。

 けれどその顔がよく見えない。


 霞がかって朧気で、顔がよく、分からなかった。


 男の子に通路の先へ進むように促され、前へと踏み出す。


 よく分からないけれどなんだか、そうしないといけないような気がして、通路から先へと進む。


 通路の先は真っ暗闇で、どこへ進んでいいのか分からなかったけれどそれでも、一歩をその暗闇の先へと踏み出した。


「本当にねーちゃんはすぐ迷うんだから」


 明るく楽しげな声が、背中に届いた。


「でもやっぱり、笑ってるのが一番似合うと思う」


「トルテっ!?」


 瞬間的に記憶が甦り、その大切な記憶の中にある名を叫んで、慌てて振り返る。


 そこにはもう通路も、トルテくんの姿もなかった。


 何で思い出せなかったんだろう。

 何で忘れていたんだろうか。


「待ってっ! トルテでしょ? トルテっ!」


 助けられなかった男の子。

 力及ばず、命がこぼれていくのを止められなかった、聖都で出会った男の子。


 追いかけようとしてその名を叫び、踏み出した足元が突然崩れ落ちた。

 

 真っ暗な闇の中で足場を失い、身体が落ちていく。


 その手を再び、引いてくれる誰かの手があった。


 闇の底へと落ちかけた身体を、誰かが引っ張り上げてくれている。目の前にいるのはトルテくんとは違う、他の誰か。


 背の高い、すらりとした誰かだ。

 

 けど、顔がよく見えない。

 知ってるハズの誰かなのに、誰だかが分からない。


「大丈夫。今度は決して落としたりはしないから」


 確かに覚えのある声だった。

 確かに覚えのある、どこか芝居じみた口調。


「本当にごめん。ただそれだけを、伝えたくて」


 力強く引っ張り上げられ、足が地面につく。


 再び周りから気配が消え、ただの暗闇へと戻る。

 記憶がつながっていく。


「……オルオレーナ、さん」


 繋がった記憶の中にあるその名を、手に残る感触を確かめながらそっと呟いた。


 不意に、背中に誰かの手が押し当てられた。


「振り向かないで。まっすぐ前を向いて」


 驚いて振り返ろうとした所を、鈴の音を転がすような澄んだ、落ち着いた声に止められる。


 それは、いつも傍にあった声だった。


 いつも近くで助けていてくれた声。

 力を貸してくれた、支えてくれていた声。


「あんたにはとても感謝してるんだ。本当に。おかげであの子達の力にもなれたしね」


 背中を押す手の平から、暖かな思いが伝わる。


「ここはあんたのいるべき所じゃない。こんな所にいつまでもいたら駄目だよ。……ほら、まっすぐ前を向いて、進みな」


 背中を押されて身体が、前へ進む。


「……でも、進むって、……どこへ」


 真っ暗闇の中を歩きだすけれど、どこへいったら良いのかなんて全く分からなかった。


 前へ進めと言われてもどちらが前だか分からない。


 肩越しに伸ばされた細い腕が、前方を指差した。

 指差された暗闇の先に、光が差し込む。


「本当にありがとう。迷わずに行くんだよ」


 背中を押す手の感触が消え、記憶がまた一つ繋がる。


「リンフィレットさん」


「そのまま、まっすぐこっちへ」


 光の向こうからまた、声が聞こえた。


 見れば光の向こうに長い黒髪の女性がいた。


 それが誰かはやっぱり分からないけど。

 声に導かれるままに、進む。


 トルテくん。

 オルオレーナさん。

 リンフィレットさん。


 記憶が繋がっていく。

 大切な記憶が一つ一つ、甦っていく。


 その中でまだ、自分の名だけは思い出せないけれど。

 自分の名だけは分からないままだけど、繋がる記憶に、伝わる思いに心強さを感じて、前へと踏み出す。


 光が、すぐ傍に迫る。


 光の中に進んだ瞬間、黒髪の女の人の顔が一瞬だけ見えた。


 力強く、優しく微笑むその姿には見覚えがあった。


「……アリシっ」


 最後までその名を言い切れず、光に包まれる。


 暗闇が晴れ、光の中へと意識が進む。


 その向こう側で戦っている人達がいた。


 虹色に輝く黄金の毛並みが翻る。

 初めてみる姿だけれど、それがクスハさんだと分かった。


 セルアザムさんが影の刃を両手に持って迫り、ル・ゴーシュさんは相変わらず肉体を誇示していた。


 そこにベルアドネがいて、マリエル様がいた。

 変な体勢で不可思議な動きをしている勇者様もいる。


 リーンシェイドが白く輝く鬼神へと変わり、青い炎を纏った剣聖さんがそれを庇うように立ち塞がっていた。


 シキさんがいて、アスタスがいて。


 みんなが必死にそこで、戦っていた。


 手にした朱槍が振るわれるたび、刃がみんなへと向けられるたびに、記憶が繋がり意識が目覚める。


 大切な人達。

 大切な仲間。


 目の前で戦い続ける大切な者達を朱槍が傷つけようとするたび、壊そうとするたびに意識が、より鮮明になって繋がっていく。


 その人達を傷つけては駄目だという思いが、心の奥底から強い熱を持って沸き上がる。


 その中に、マオリがいた。


 間違いなくマオリだと分かった。


 優しい色を含んだ眼差しが胸を打つ。

 憂いを含んだ黒い瞳に、熱を持った感情が高鳴る。


 それでもまだ、自分の事だけが分からなかった。

 自分の事だけがまだ、思い出せない。


 空虚に満たされた破壊の衝動が、駆け抜ける。


 もう一人の自分が、目の前の全てを壊そうとしているのが分かった。全てに諦め、全てを壊そうとしている。


 駄目だ。


 そんなの、何もならない。

 そんな事をしたら駄目だ。


 自らの絶望に周りを引き込んでは駄目。


 止めないといけない。

 どうにかして止めさせないと駄目だ。


 でも、何をどうやって。


 ……私は誰?


 それすらも思い出せない私に、何が出来るのか。

 何をどうすればいいのか。


 分からない。

 それだけがどうしても分からなかった。


 誰かに教えて欲しかった。

 誰かに名を呼んで欲しかった。


 私はここにいる。


 視界の先で、マオリがこちらを見ていた。


 崩壊の始まった世界の中でこっちをじっと見つめるマオリが、そこにいた。


 見つめ合う視線と視線が、重なる。

 思いが激しく、内側から熱を持って沸き上がる。


 私を呼んで。

 私の名をそこから、呼んで欲しい。


 ……私を。


 私の名を、その口で、その声で。


 お願いマオリ。


 私の、名を……っ!


「戻ってこいっ! レフィアーっ!」


 瞬間。意識がはっきりと目覚めた。


 マオリの呼ぶ声に、呼ばれた名に、輪郭があやふやになっていた意識が、はっきりとした明確な意思を取り戻す。


 自我が目覚める。

 記憶の全てが、繋がりを見せた。


 音と光が感情が、現実のものとして甦る。


「この世界ごと何もかも、……消え去りなさい」


 世界を虚無で満たし、壊そうとするコノハナサクヤの空虚な意識が伝わってきた。


 世界の外側。


 あの何も無い空間へと繋がり、穿たれた穴から世界が、虚無に飲まれて壊れようとしている。


 全てを壊そうとしている。


「そんな事、……させない」


 抗う意思が、コノハナサクヤの虚脱に染まった意識を上回る。


 穿たれた穴は肉体の外には無い。


 コノハナサクヤの女神としての精神体を通じて穿たれた穴は、その存在を通じて世界の外側へと繋がっている。


 この穴を塞がなければ、世界が飲み込まれてしまう。


「……お前っ、何故っ!?」


 一つの肉体の中で、目覚めた私の意識とコノハナサクヤの意識が拮抗を見せる。


 自身の存在の中に穿ち開けられた穴を、塞ごうとする意思とさせまいとする意識がぶつかりあう。


 ……丁度いい。だったらそれでいってやる。


 どうやって塞いだら良いかなんて知ったこっちゃないし、元々その穴をどうやって開けたかさえ知らないんだ。


 精神体に穿った穴で世界を壊すとか。


 全く理解の範疇を超えてるし、意味が分からない。


「くっ、……何をっ!?」


 でもそれで実際に世界が壊れようとしているのだから、そこはそれなりに、流石女神だとでもいう所なのだろうと思う。……思いっきり気にくわないけど。


 馬鹿みたいにでかい存在なのは間違いない。

 だったらそれで塞いでやる。


 穴を塞ぐのに、でか過ぎて困るという事も無い。


 意識の中で、大きく穿たれた穴を感じとる。


 それは初めて魔力を認識した時、自らの魔力の根源へと意識を沈み込ませた時の感覚とよく似ていた。


 意識だけを肉体から切り離す。

 思えば今まで散々それを繰り返してきたようにも思う。


 穿たれた穴の中へと飛び込んでいく。

 もちろん、一人じゃない。


 穴を塞ぐんだから塞ぐ為のものをしっかりと、抱え込んで引きずり込む。


「嫌だっ! やめなさいっ! やめろっ!」


「往生際の悪いっ! 道連れに決まってんでしょーがっ!」


 コノハナサクヤの精神体を力任せに抱え込む。

 暴れようが何だろうが関係ない。

 意地の張り合いで引ける訳もない。


 精神体の奥に穿たれた穴へ。


 その向こう側へと吸い込まれるように、勢いをつけて飛び込んでいく。


 そして意識が、乖離した。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る