♯177 聖錠門の戦い2(法主の後悔4)
騎兵部隊の壊滅。
秋空に霞む黒い煙が、非情な結果を示す。
黒煙は騎兵部隊の壊滅を確認した時の合図。
射ち放った乾坤一擲の一矢が、巨獣の喉元に届く事なく、……潰えてしまった事を伝える。
開戦直前、戦に不慣れなのを気遣って声をかけに来てくれたその背中が、鮮明な記憶となって脳裏に浮かぶ。
バゼラット騎士団長っ……。
眉根に力を込め、意識を強く保つ。
今はまだ、哀惜の念に沈んでよい状況では無い。陰に落ち込みそうになる自身の心根を押さえ付け、冷徹な理でもって現実を受け入れる。
作戦の第二段階は失敗に終わった。
その事実を認めなくてはいけない。
目と鼻の先にたなびく王旗を見据える。
大軍の総司令官が何故、こんな最前線近くまで出てきているのかは分からない。兵数に隔たりが大きければ大きい程、寡兵側は相手の大将首を直接狙うのが定石だというのにも関わらず、……何故。
例えそこにどんな思惑が混在していたとしても、騎兵部隊の槍はガハックにまで届かなかった。それがただ一つの、純然たる結果。
相手の動向を読み間違えた。
それが故の、痛恨の失態。
口の中に苦いものが広がっていく。
奥歯を、強く噛み締める。
「聖錠門へ緑煙の合図をっ!」
全身が強く強張るのを自覚しながらも、腹の底に弱気を押し込み、伝令兵に指示を伝える。
即座につがえられた煙矢が後方へ向けて射ち放たれると、土埃でけぶる戦場の上を、鮮やかな緑煙が貫いていく。
「全軍っ撤退っ! 最右翼より順に、聖錠門の中まで後退せよっ! これより籠城戦に移るっ!」
聖錠門からも同じ、緑煙の返答が放たれた。
緑煙は戦線からの離脱、聖錠門内への退却を意味する。
空気を震わせて響く鏑矢の甲高い矢音が、横に長く広がった戦線の至る所より緑煙をともない、それぞれに高く射ち放たれた。退却の号令への各所からの応答をそこに確認する。
「歩兵、魔法兵より順に全力で撤退っ! 騎乗する者は殿に着き、同胞の退却を支えよっ!」
後方で聖錠門の格子門を吊り下げていた鎖が巻き取られ、ゆっくりと半ばまで上げられる。
嘆いていてもはじまらない。
結果がどうあれ、作戦通りに進めるだけの事。
出来れば相手側の混乱の収まらぬ内に。
延々と続く地鳴りのこちら側、立ち込める土埃の霞むその先で軍影が大きく蠢く。自軍最右翼の方から順に聖錠門へと向かっての撤退が、滞りなく開始された。
自軍の士気は今も高いままだ。
願わくばこのまま、撤退を終えたい。
混乱を見せる事もなく、兵達が整然と聖錠門の中へと走り込んでいくのを確認しながら強く、心の中で祈る。
「狙いは二の次でよいっ! 弓射の密度を上げよっ! 手持ちの矢を射ち尽くせーっ!」
騎乗する者達を集めて殿部隊を即席で編成しつつ、退却する為の順番待ちをしている兵達を鼓舞する。
撤退は順調に進んでいる。
想定よりも手早い撤退に同胞の統率の高さを改めて認識もするが、それでも二万の兵を全て聖錠門内へ撤退させるのは容易ではない。……焦れる思いが胸中を締め付ける。
おおよそ全体の4分の3程の撤退が完了した時、ついに敵軍が大きく動いた。
両軍の間。落とし穴を仕掛けてある一帯に、膨大な量の魔力が集中的に集められているのを感じとる。
……ここが限界か。
手綱を握る拳に力が籠る。
集められていく魔力の構築式は簡単に読み取れる種別のものであった。いや、これに限ってはわざわざ魔力を読み取る必要も無く分かるだろう。
大規模魔法が発動する。
低い地響きを伴って地面が小刻みに振動したかと思った次の瞬間、ドォオオンと一際大きな爆音と共に足元が大きく縦に跳ね上がった。
『
土地の起伏を一時的に平らにならす為の魔法。本来であれば大規模な灌漑や、山間部での土木作業等の足場作りの為に用いられる生活魔法の一つ。
人体に対する攻撃性はほとんど無いが、生活魔法である為に比較的容易に組め、多人数同時構築による規模の拡大もしやすい。
特に戦場においては即席で組め、落とし穴などのトラップを一時的に無効化するには最も適している。
揺れはすぐに収まり、濛々と立ち込める土煙の向こう側に大群の気勢が迫る。
「友軍の撤退を助けよーっ!」
すでに敵は、混乱の中には無い。
短過ぎる時間制限は切れてしまった。
迫る大軍と撤退中の自軍との間を隔てていた落とし穴も、すでに無い。
……来る。
指揮杖を高く掲げ、味方の騎馬隊を鼓舞する。
地鳴りと怒声の籠る振動が大きく、周囲をぐるりと囲い込むかのように近づいていくる。見えない大きな壁に包み込まれるかの戦慄を肌で感じながらもじっと、奥歯を噛み締めて土煙の向こう側を睨み付ける。
騎影がたなびく。
「おおおおおぉぉぉーっ!」
鬨の声を高く上げ、まずは敵の騎兵群が速度を増しながら、土煙を振り切ってその姿を見せた。
個々にバラバラではあってもその数は見る間に増え続け、大きな畝りとなって眼前に迫る。
「怯むなぁーっ!」
騎馬同士が激しくぶつかり合う。
個々の士気は負けてはいない。
重量同士がぶつかり合う衝突音と鈍い金属音が、あちこちで響き渡る。
その最中、突出してきた一体の騎馬が味方の騎馬の壁を貫き、まっすぐに突っ込んできた。
馬上槍の先端がすぐ間際に迫る。
「でぃあぁぁあああああーっ!」
敵騎兵の突進に合わせ、『
派手な音を響かせて、見えない壁に突撃をかけた敵騎兵が跳ね飛ばされ、落馬していく。
指揮杖を強く握り締め、震えを押し殺す。
戦場の経験など、……無い。
神聖魔法にはそれなりの心得はあっても、剥き出しの殺意をこれほどまでに強くぶつけられた経験は、初めてだった。身体の芯を得も言えぬ恐怖が侵食していく。強張る手足が、速まる動悸が、まるで自分の身体とは思えない程に遠く感じる。
……だが。
手の皮が千切れる程に強く、強く指揮杖を握り込む。
私は法主なのだ。
私が、この国の、アリステアの法主なのだ。
ここで私が恐怖に身を竦める訳にはいかない。
死地に身を投じる事を怖れてどうする。
人を救う。人を守る。
人を導く。
その困難な事は経験で知っている。
なればこの身一つ危険に晒せず、何を守れるというのか。
「うぉぉおおおおおーっ!」
自身に気合いを込め、悴む手足を奮い立たせる。
『
魔法を構築して指揮杖を振るうたび、敵騎兵が落馬していく。
数少ない味方と敵兵の大群が入り雑じる。
後方にはまだ撤退中の味方がいる。
ここを通す訳には、……行かぬっ!
次々と落馬していく者達には脇目も降らず、敵騎兵はその数と圧力を増しながら威勢を高めていく。
度重なる突撃に対して『神聖防壁』がついに砕け散った。すかさず構築を重ねるが、張った先から強度を削られていく。
気付けば瞬きの間にも、その数を減らしていく味方の騎馬隊達。
「……くっ」
敵騎兵の攻撃が集中する。
攻撃に転ずる間もないままに、数の圧力が引く事を知らない嵐の波のように押し寄せてくる。
「ぐはっ!?」
幾度目かの『神聖防壁』が砕かれた時、勢いに
直ぐ様立ち上がろうとするが、強かに地面に打ち付けられた身体が、激痛に強張る。
霞む視界に、迫る騎兵の馬上槍が見えた。
「うぉぉぉぉおおおおおおおおーっ!」
……逃げ場もなく差し貫かれる。
そう覚悟をした瞬間、勢いをつけて突進してきた味方騎兵に、目の前の敵騎兵が大きく弾き飛ばされた。
「法主を守れーっ!」
その騎士はもはや残骸としか呼べぬような状態の甲冑に身を包み、全身ボロボロになりながらも、
その声を聞き、自分の耳を疑う。
馬上に凛々しいその背中が、自分を庇うかのように向けられ、戦場の敵騎兵を威圧する。
「……バゼラット、騎士団長」
「敵軍勢の圧力に負け、届きませんでした。申し訳ありません」
見れば500騎ほどの味方騎兵が、周りに集まっていた。
その数を大きく減らしながらも敵陣を貫き、味方の殿にまで辿り着いてくれた、勇猛無比な味方騎士達。
その誰もがボロボロだった。
ひしゃげた鎧に砕けた盾、すでに馬上槍を持つ者はおらず、刃の欠けた剣を手にする騎兵達。
けれど誰一人として、闘志を欠片も欠かさぬまま。ここまで戻ってきてくれていた。
柄にも無く熱いモノが胸に迫る。
「味方の退却を援護する」
土にまみれ、痛む全身を起こしながらかけた言葉に、背中を見せたままの騎士団長が大きく頷いた。
刃こぼれのした長剣が天高く掲げられる。
「勇者の剣にしてっ聖都を守りし盾っ! 我ら聖剣騎士団っ! 折れぬ剣の有り様を今こそここに示せーっ!」
バゼラット騎士団長に呼応して、生き残った騎士団員達が勇ましき雄叫びを返した。
迫る大軍を前にしても、揺るがぬまま。
最後まで諦めずに食らいつく。
アリステアの心意気を、魂に刻んだ男達。
「今更門へとは言いません。最後まで、ご一緒いたします」
「よろしく、頼む」
振り返らずに言う騎士団長に対して、頷きを返す。
見据える先は、見渡す限りの敵兵の壁。
なればこそ、最後の一時まで殿を守る。
その一時の間に撤退する、同胞が為に。
一人でも多くの同胞を未来へ残す為。
未来へと繋ぐ、命の為に。
芽は吹いたのだ。
我らはこの芽を、摘まれる訳にいかない。
魔族と人との未来の為に。
アリステアの同胞は、守らねばならない。
「うぉぉおおおおおーっ!」
雄叫びを上げ、自身の臆病な部分を拭いさる。
怖い。
死ぬのは怖い。
だが、やらねばならぬのだ。
それでも我らは繋げねばならない。
かかる軍勢に対して覚悟を決める。
理性を忘れ滾る興奮に身を委ねる。
そして雷鳴が、轟いた。
響く怒号と絶え間無く続いていた地鳴りを掻き消すかのような轟音が、晴天を貫いて響き渡る。
眩いばかりの閃光が煌めき、どよめく大気を打ち据えた一筋の稲妻が、戦場へと突き刺さった。
「ぐぉおおおっ!?」
あまりに突然の、その勢いの凄まじさに思わずたじろぎ、必死で身体を大地の上に繋ぎ止める。
秋空はどこまでも深く晴れ渡り、雨雲一つなかった。雷鳴が晴天に轟くなどありえない。
……ありえないハズの雷鳴。
だがそれは、過去にも経験があった。
晴天を轟雷が貫く時、それは……。
「相変わらず殿にいるのだな。よほどの物好きなのか、それともただの命知らずなのか」
突然の落雷に思考が混乱を見せる中、次いで痺れの残る鼓膜に優しげな声が届く。どこかではっきりと聞き覚えのあるその若々しい声音に、更に混乱の度合いが深まる。
その声は、……まさか。
……。
……。
いや、ありえない。
こんな所にいるハズがない。
だが、しかし……。
閃光にやられた視界が段々と輪郭を取り戻す。
薄ぼんやりとしたその姿を、目の前にする。
我が目を疑った。
「遅れてすまなかったな」
優しげな眼差しが胸を打つ。
漆黒の鎧に身を包んだ凛々しい若者が、その端正な相貌を和らげて、目の前に立っていた。
若者だけでは無い。
気付けばいつの間にか、若者を取り囲むようにして、戦場には似つかわしくない様相をした者達が付き従っている。
上背のある筋骨逞しそうな老人と、豊かな金髪を風になびかせる女性。小柄な童女と、紳士然とした老人の、四人。その中の二人にははっきりと、見覚えがあった。
どれも戦場にあって不似合いな光景であるにも関わらず、その畏怖堂々とした立ち姿に目を奪われる。
唖然としたまま、言葉を失っている所に一つ不敵な微笑みを残し、若者は大きく振り返り背中を見せた。
その背中に、込み上げる思いが重なる。
「あとは、……任せろ」
知らぬ間に鼓動が大きく、高鳴っていた。
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