♯154 ただ一つの望みの為に
「けれどこうして、出会う事が出来た」
恍惚とした表情が私へと向けられる。
蕩けるような甘い微笑みの奥にある、虚ろな狂気に吐き気を催す。
だんだんと分かって来たような気がする。
見るだに美しく可憐な女神を前にしていると言うのに、ただひたすらに感じる恐怖。
何故こんなにも私は怯えているのか。
瞳の奥に暖かみのようなものを欠片も感じられず、憎悪や怨恨をさえも飲み込んだ虚な深い闇を、そこに感じるからだ。
……それは、おぞましさ。
「アリシアを失ってから1200年。どれだけこの時を待ち焦がれたかしら。もう半ば諦めかけていたけれど、こうして、見つける事が出来た」
うっとりと酔いしれるように、頬を上気させて喜んでいるように見える。けどその実、この女神は何も見てなどいない。……自分以外、他の何者をさえ見てないのだと分かる。
唯一感情的になるのは、イワナガ様に反応を返す時だけ。その時でさえも決して、イワナガ様を頑なに視界に入れようともしない。
拒絶。疎外。……否定。
それを何と呼べば良いのか分からない。
分かるのはただ自分の思うまま、他の一切を認めようとしない、無邪気な傲慢さがそこにあるというだけ。
そこに、得体の知れないおぞましさを覚える。
「ふふっ。私の身体。私のレフィア。……もう二度と、貴女を失ったりはしないわ。もう誰にも、邪魔なんかさせない」
空虚な闇が、見せかけの微笑みを貼り付けて再び近づいてくる。
「ここに来るまでに、本当につまらない邪魔ばかり。わざわざ聖女の椅子を開けてまで準備したというのに」
……。
……。
……はい?
わざわざ……、
思わず後退りしそうだった足が止まる。
光の女神の言葉に反応を示した私に、より楽しそうな、凄惨な微笑みが向けられる。
「大変だったのよ? その大切な身体が汚れてしまわないように加護も与えたわ。でも、それだけじゃ純潔は守れないもの。その身体に他の誰かが触れるなんて許せない。その為にも、聖女の椅子は貴女にこそ相応しかった。だからこそ用意したというのに。……結局、それは叶わなかったけれど」
……頭が、理解を拒む。
椅子を開けた?
「どういう……、事……」
まさかという思いが込み上げて、動悸が高まる。
光の女神は何も答えず、狼狽を深める私をただ、満足げに見つめている。
それだけでもう、……全てを肯定している。
沸き上がる疑念を、全て。
「……嘘でしょ。そんな、……事で」
脳裏に浮かぶのは、聖女マリエル様の面差し。
勇者様の姿や、過去を語ってくれたオルオレーナさんの横顔。
その話の中に出てきた、リディア教皇と、先代の勇者ファシアス様と……、聖女ソフィア様。
「ふふっ。手のかかる事」
まるで悪戯が成功した子供のように無邪気に言う光の女神の、その正気を疑う。
まさか、私を聖女にしたいが為だけに……。
それだけの為に、スンラが攻めてきた時にあんな神託を?
……。
……。
……嘘だ。
「丁度良い
流し目で様子を伺いながら、クスクスッと忍び笑いさえも聞こえてきそうな程、光の女神は楽しげに語る。
獲物を狙う狼のように距離を保ったまま、ゆっくりと弧を描いて進むその姿を凝視しながら、語られる言葉の意味に不安なものが過る。
……手駒。
光の女神の、……手駒?
「でも、その甲斐もあって、聖女の椅子を開けただけでなく、鬱陶しかった魔族の数も随分と減らす事が出来たわ。特にあの、忌々しいアスラの血を残す者どもを一掃出来たのは、何よりも胸がすく思いだったわね」
一瞬にして、頭からサーっと血の気がひくのが分かった。目の前が真っ白になる。冷たい感覚が全身をかけぬけ、手足が強張り、どうしようもなく小刻みに震えだした。
「……待って。何、それ」
「ふふっ。全部、貴女の為なのよ?」
「待って……。そんな、ありえない……」
震えの止まらない手首をかたく握りしめる。
気付けば奥歯も上手く噛み合っていない。
そんな私を、光の女神は楽しげに見つめてくる。
……嘘だ。ありえない。
そんなの……。
光の女神の手駒。
……誰が。……何でそんな。
……スンラ。
光の女神は間違いなくスンラの事を言っている。
先代魔王スンラ。
暴虐の魔王。
「だってそんな。なんでスンラが光の女神の指示なんかに……。だって先代魔王なのに。スンラだって、魔族なんじゃないの? 何で魔族が光の女神に……」
「……スンラは魔族ではない」
絞りだすような呟きに、それまでずっと黙っていたイワナガ様が厳かに返した。
強張る身体を必死に押さえて振り返ると、イワナガ様は身体を逸らすようにしながら、そっと答えを返す。
「スンラは、……人族だ」
「……嘘。そんな。……何で」
スンラが人間。
スンラが……、光の女神の手駒だった?
スンラは光の女神の意思で動いていた。
……嘘だ。
嘘だっ! 嘘だっ! 嘘だっ!
それじゃあまるで、光の女神が私を求めた所為で……。私の所為で……。
そんなの、……そんなのっ!
「嫌だっ! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ!」
思わず口元を手で押さえ、首を大きく左右に振ってしまう。手足が力み、まるで震えが止まらない。
「ふふふっ。ほんの気まぐれだったのに。まさか、あそこまで使える子になるとは思わなかった。本当に、よく働いてくれたわ。あの悪魔王はね、何の理由だかは知らないけれど、『魔王』になった者には一切手出しをしないのよ? 一番煩わしいアイツが邪魔をして来ないなら、それだけでもスンラを魔王にさせておく理由には十分」
ぐっと力を込めて、身体の震えを押さえ込む。
目を閉じて落ち着こうとする私に、光の女神はさらに語り掛けてくる。
「だからその為にも、色々手を貸してあげたわ。特に厄介だったのは、夜叉族とかいう所の女だった。折角魔王にしたスンラをあんなのに壊されでもしたら大変だもの。……勘の良い女だったわ。あの女を殺すのに、一番苦労させられたかしら。……ふふっ」
夜叉族の、……女。
……リーンシェイドの、お母さん?
剣聖さんの話を思い出す。
剣聖さんは言っていた。
リーンシェイドのお母さんは、スンラに狙われていたと。……魔の国から逃げ出した後も、執拗に追われていたと。
最後にリーンシェイド達を捕まえたリンド王国の近衛隊長は、誰かからリーンシェイド達の事を聞いたような節があったと……。
……何で、そんな事を。
問いかけは声にならず、ゆっくりとしか振り向けない私に、光の女神は優しく笑みを返す。
「貴女の為よ」
嘘だ……。
「全部、貴女を手に入れる為」
止めて……。
言うな。
それ以上言うのを止めろっ。
「私の望みはただ一つ。再び肉体を取り戻して、私が勝ち取った世界へと降り立つ事。私の美しさを讃え、私の為だけにある私の世界へと再び、肉体を持って戻る事」
一瞬、目を見開いた私の顔の前へと、光の女神が飛び込んできた。
視界の端に、薄紅色の花びらが舞う。
虚をつかれ、触れ合う程に近付けられたおぞましい美貌から、胸のやけるような甘ったるい香りが広がる。
「貴女はその為の『器』。大事な大事な私の『器』なのよ? 全ては貴女の為。貴女を手に入れるただ、それだけの為でしかないわ」
ただ、それだけの為に……。
ただそれだけの為にっ!?
コイツは、この光の女神は、ただそれだけの為に、どれ程の人達を犠牲にしてここまで来たのかっ。
スンラの所為でどれだけの人達が悲しんだのか。
アスタスは何故あんなに。ばるるんは、オルオレーナさんは、リディア教皇は何の為に苦しんでいるのか。
剣聖さんは、リーンシェイドとアドルファスは。
リーンシェイドのお母さんやお父さん。
そして……。
……。
……。
アスラ神族の最後の一人となった魔王様は。
込み上げる怒りが限界を超え、恐怖を上回る。
力一杯握りしめた拳を思わず、光の女神の顔面に振り下ろした。
「ぐっ! このっ!」
「乱暴なのは、良くないわよ?」
沸き上がる感情のままに振り下ろした拳はけれど、光の女神に届く前に、その華奢な手に掴まれてしまった。
今にも折れてしまいそうな白く細い指先が、信じられない程の握力で押し込んでくる。
「っはぐ、うぐっふ!?」
途端、薄紅色の花びらが乱れ舞い、ハンマーで叩かれたような圧力をもって、大きく身体を吹き飛ばされた。
勢い良く飛ばされた手足が、圧力に痺れる。
受け身を取るのが間に合わず、後ろの岩壁に叩きつけられるのだと覚悟を決めた時、全身がふわっとした何かに包まれた。
それは優しく身体を包み込み、吹き飛ばされた勢いを殺すと、地面へと無事に下ろされる。
イワナガ様の力だった。
イワナガ様が吹き飛ばされた私を、助けてくれた。
地面に立ちはしたものの、堪えきれずに片膝をつく。
圧力に吹き飛ばされた。ただそれだけの事でしかないのに、手足からごっそりと力が抜けて立っている事さえ出来ない。
歯を食い縛って立ち上がろうとする私を、光の女神が更に笑みを深めて見下ろす。
存在する力そのものもが違う。
すぐ目の前にいるように見えるのに、まるで別の世界にいるような、まるっきり異質な存在。
……化け物。
「愚かな子にはおしおきが必要なのかしら」
何よりも美しい姿をした化け物は、愉悦に頬を歪めていた。
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