♯153 悪魔王の大罪
顔を上げた視線の先で再び、パキンっと乾いた音を立て、空間の亀裂が深まる。
この狭くてうす暗い場所に、光と闇の女神が二人。その存在の強さに耐えきれず、空間が上げた悲鳴のようにも聞こえる。
女神が二人。
……多分、そういう事なんだと思う。
薄々とそうじゃないかなぁとは思ってはいたけど、ここまで来たらもう、疑うべくも無い。
そうだと分かると色々と、納得する事もある。
無言になった二人に、緊迫したものを感じる。
光の女神、コノハナサクヤ。
闇の女神、……イワナガ。
この二人が、光と闇の、姉妹神。
光の女神が逸らしていた視線を戻して、その視界の中に私を捉えた。いつの間にか歪んだ微笑みは消え失せて、感情の抜け落ちたような表情で見つめてくる。
やがてゆっくりと目を閉じると、静かに呟いた。
「……貴女も知っておくといいわ。教えてあげる」
その声音は、どこか優しさを含んだもののように聞こえた。優しい憂いを含んだ、どこか深い憎しみをたたえた声。
「遥か以前。この世界を創造した神々は戯れに、人を創った。自らの姿に似せて、けれども儚き命を持った存在として。そしてヤツラは、その命をただ悪戯に弄んだの。……犯し、殺し、気紛れに壊しては、それを嘲笑っていた」
神話だ。
この世界を創造した古き神々の神話。
村にいた頃から何度も聞いた事があったし、魔王城に来てからは、廊下に堀込まれたレリーフをよく眺めていた。
遥かなる過去。神話の時代の話。
「私は同じ神々の一人としてそれが許せなかった。人の儚き命は、ヤツラの為にあるものじゃない。死に逝き、紡がれる人の命の美しさを、あんなヤツラの戯れに汚される事が我慢ならなかった。だから私は、ヤツラを追い出したの。ヤツラを追い出して、この世界を私のものにしたのよ」
何かに酔いしれるように、微笑みを浮かべる。
どこか凄惨なのに、つい魅入ってしまう。
古き神々と光と闇の姉妹神の戦い。
この世界の存亡を掛けた、神々の攻防。
「戦いは激しいものだった。異形の神、戦神アスラが味方した事もあって戦いには勝利したわ。でも、その戦いの中で私は身体を失い、ソイツは力を失った」
身体を……?
一瞬その意味を計りかねたけど、自分が今どこにいるのかを思い出す。
……間の空間。
肉体はその意味を失い、魂が仮初めの形を持つ場所。
この場にいる、二人の女神の様子を改める。
肉体を失った仮初めの姿。
魂だけの存在……。
不意に、すとんと納得するものがあった。
何故こんな空間の中に居続けるのか。何故いつもこの空間の中に現れるのか。
……この空間が、必要なのだからだと。
この二人はここでしか、その姿を保てないのだと。
「皮肉なものよね。美しさを讃えられ続けてきた私はその身体を失い、醜い異形のソイツには、そのあさましい身体だけが残ったのだから」
異形……。
言われて小さくイワナガ様に振り返る。
最初に会った時からずっと、その黒いフードを被り続けている。さっきの力の余波でさえもまくられる事なく。
どこまで鉄壁のフードなんだとも思うけど、一度だけ窺えたそのシルエットは、人のそれではなかった。
神話の中に描かれる闇の女神は常に、醜悪な容貌がその特徴として、最初に語られる。
異形。……光の女神の言う異形って。
「古き神々がこの世界を去った後、世界は人族と魔族が入り乱れる、混沌とした時代がしばらく続いたの。ソイツはその世界の中でその混沌を放置し、私はただ一人、それを見ている事しかできなかった。……そして自らの力に溺れた魔族達は、そのあさましい本性を次第に剥き出しにし、人族を虐げはじめた」
……神話に無い部分だ。
「いい様よね。……結果、自らの力に傲り高ぶった魔族は人族にやぶれた。魔族の増長を放置し続けたソイツは、人族の恨みの的となり、せっかく残ったその身体をも失ったのよ。世界は人族の管理支配するものとなった。当然よね。命を紡いでいく人族と違って、魔族は常に他者を虐げてばかりなんですもの。立場が入れ替わり、魔族は虐げられる側へと堕ちていったの」
どこかで聞いたような状況だと思った。
光の女神は瞳に嘲笑の色を深め、見下したような微笑みを浮かべている。……けど、その語るものに似た状況に、確かに思い当たるものがある。
自らの過ちが故に虐げられていた者達。
その命は、驚く程軽く扱われていた。
確かに自業自得と言えばそれまで何だけど。それでも、それは決して健全な状態であるようには見えなかった。
……だからこそ、あの紺色の毛並みを持つファーラットは、瘴気にどっぷりと冒されるまでに、絶望に染まったのだから。
絶望に染まり、亡者を溢れさせた。
「それで世界はようやく安寧を保った。それで上手くいっていたというのに。その安定した世界がしばらく続いた後、アレが現れた。その世界を壊すべく、一人の魔族が現れたの」
聞いていて疑問に思う。
それは本当に安定していた世界だったのかと。
神話は語る。
古き神々を追い出した世界は光の女神の導きの下、平和な世界を迎えたのだと。
魔族と人族が入り交じって暮らしていた事も、魔族が人族よりも優位にあった事、その後にその立場が逆転した事には一切触れていない。
疑問はすぐに確信に変わる。
都合が悪いから、敢えて伝えなかったのだと。
その後に起きた出来事を、一人の魔族の罪とする為に。
古き神々を追い出した後の世界は、安定した、平和な世界でなければならなかったのだろう。そうでなければ、都合が悪かったのだ。
「セルアザムとかいうその魔族は悪魔王を名乗り、人族を殺して回った。目につく限り、手の届く限りの人族を殺し尽くしたの。……ソイツの加護を受けてね」
悪魔王は平和な世界に突如として現れ、世界を恐怖と殺戮の闇へと染め上げたと、神話の中で語られていた。
悪魔王の大罪。
悪魔王が牙を剥いた世界は、平和で安定した世界でなければならかった。それであるからこそ、人が善で魔族が悪であると定義付ける事が出来るから。
その為に、都合の悪い事は歴史から消されたのだ。
それは、誰にとって都合の悪い事だったのか。
「力に溺れた悪魔王は止まる事を知らなかった。人々は絶望し、その暴力的な殺戮に怯えていたわ。彼らは祈ったの、その悪魔王を倒す存在を求めて。彼らは願ったのよ。悪夢を終わらせられる力を」
ファーラット達には力が無かった。
力が無かったからこそ、亡者を溢れさせようとしたんだ。
もしそれが、力のある者だったとしたら?
もしあの紺色のファーラットに、他者を圧倒する程の力があったら?
……その答えが、歴史の中にある。
かつて同じ事が繰り返されていたのだと知る。
虐げ、虐げられていた者達が入れ替り、その怨嗟の鎖は時を変え場所を変えて、連綿と繰り返されているのだと。
「その中の一人が、アリシアだった」
それまでの侮蔑の表情の中に途端、恍惚としたものが宿る。うっとりと懐かしむように、とろりと蕩けるような表情で、光の女神は言葉を紡ぐ。
久遠の彼方の想い人を慕うかのように。
「その存在を知った時、本当に信じられなかった。まさか人族の中に、あれほど大きな魂の器を持つものが生まれていただなんて。人族の魂の器は私の祝福を受けて、他の種族よりも大きくしてあったとは言え、それは信じられない誤算だった」
パキリっとひび割れる音が響く。
すでに空間の亀裂はクモの巣のように、あちこちへとその枝葉を伸ばしている。
今にも崩壊しそうな空間の中で、光の女神はゆっくりと振り向き、凛とした姿勢を保っている。
そのアンバランスさが、何かを象徴しているようにも思えた。
「儚き命の代償に、紡ぐ命の輝きを漏らさぬよう大きくしてあった魂の器はいつしか、女神である私を受け入れる事が出来るまでに、大きく成長していたの」
セルアザムさんはそこで、何を思っていたのだろうか。
何を見続け、何を憂いたのか。
その胸中に思いを馳せる。
「アリシアは力を求め、私はその魂の器ごと身体を求めた。互いの求めは重なり、私はその時、失ったはずの身体を再び、手に入れる事が叶ったの。現世に肉体を得て降臨した私にとって、悪魔王など取るに足らぬ相手。すぐさま打ち倒し、息の根を止める事など容易い事だった。……だと言うのに。その悪魔王にとどめを差す直前、突然、アリシアの魂の器が壊れてしまった。私を受け入れる事の出来るハズの器が、壊れてしまったの。……ありえない事だった」
同胞を憂い、同胞を救う為に奔走していたアスタスは瘴気に冒され、世界を恨んだ。
自分達を虐げていた世界を見限り、深い絶望の中へと溺れていったのだ。
「そしてそのまま、アリシアは塩の塊となって崩れ落ち、手に入れたと思った身体を再び、……失ってしまったの。悪魔王にとどめを差せぬまま」
光の女神の言葉に、再び怨嗟がこもる。
私はそれを、冷ややかに受け取った。
酷く主観に偏った語り口調に、冷静でいられた自分に少し驚きを感じる。
魔王城に来る前の私だったらきっと、光の女神に同情的になる事もあったかもしれない。もしかしたら、魔族に対して良くない感情を抱く事も、あったのかもしれない。
でも、今は違う。
言葉は時として、主観に歪められるのだという事を知った今なら、それをそのまま受け止める事はしない。例えそこに嘘が含まれていなかったとしても、事実はその、言い方次第でいくらでも歪んで聞こえてしまうものなのだから。
大事なのは行動と結果なのだと。
魔王城で、禁忌の森で、聖都で学んで来たのだから。
語られている間イワナガ様はずっと、黙って聞いていた。反論や否定の声を上げる事もなくただ黙って。
そういう事だったのかと一つ、納得する。
歴史は時として、同じ過ちを繰り返す。
それは、確かに罪なのだと思う。
どれだけ絶望に心を苛まされていたとしても、それで他者を巻き込んで、傷つけてよい理由にはならない。
けれどもアスタスは、許された。
他の誰でも無い、魔王様が彼を許したのだ。
私はそれを目の前で確かに見ていた。
そして思う。
魔王様がアスタスを許したように、同じ過ちに踏み込んでしまったセルアザムさんを、許した人がいたのだと。
それが……、初代聖女、アリシア様なのだと。
初代聖女様は、セルアザムさんを助けたんだ。
憤怒の力に暴走するセルアザムさんを、身体を張って止め、その命を代償にして、許したのだと。
……きっと、そういう事なのだと思う。
初代聖女様は悪魔王の大罪を、代わりに背負ったのだ。そしてセルアザムさんは千年経った今も、その贖罪の為に戦い続けている。
「……セルアザムさん」
頬を暖かいものが一滴、流れ落ちる。
知らず、熱い思いがこみ上げてくる。
初代聖女様の優しさに対して、私は自然と、感謝と尊敬の気持ちを祈り捧げていた。
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