♯96 降りやまぬ雨
借りた馬にトルテくんを乗せて、どしゃ降りの中を先導して駆け抜ける。
ずぶ濡れのトルテくんの身体は、完全に冷えきっていた。
……こんなに冷たくなるまで。
「助けて! ダウドにいちゃんが殺されるっ!」
紋章付きの馬車を止めるという事がどういう事か、その意味を知らない訳でもないだろうに。
それすら分からなくなる程に、必死になって。
悲壮な叫びをあげるトルテくんに代わって、聖女様に頭を下げて許しを乞い、一路、トルテくんの言う現場へと急ぐ。
トルテくんの様子から、穏やかでない状況であるのはまず間違いないんだろうけど……。
それよりも、トルテくんの言うダウドさんの症状が気になる。
酷い高熱と、白濁した吐瀉物。
薬の無償配布から5日。
まだ、七夜熱の発症報告は届いていない。
このままなら、あと数日で発生回避と判断される。
……なのに、まさか。
言い知れない不安が胸を過る。
実際にガマ先生に診断してもらわないとはっきりとは言えないが、とても、……とても嫌な予感がしてならない。
……まさか。ここに来て。
大雨で増水した生活排水用の用水路を越える。
この橋から向こうが旧市街だ。
手遅れになる前に、急がないといけない。
焦る気持ちで橋の上を通り過ぎた時、雨音と用水路の濁流音に混じって、何かが聞こえた気がした。
今のは……、何?
気のせい、だろうか。
……違う。
確かに聞こえた。
「どうしたの!? まだ、この先だよ!?」
手綱を引いて馬を止めた私に、トルテくんが焦った声をあげる。……分かってる。分かってるけど。
今のは、……水音だった。
この大雨の中で、何故水音が……。
……。
まさかっ!?
ハッと気づいて、馬首を音の聞こえた方へ向ける。
「レフィアねーちゃん!? どこへ!?」
「ごめんね! でも、多分こっちだと思う!」
確信があった。
普段武器を振るう事があまり無い人達が、もし人を殺めるならどうするか……。
わざわざ刃物で斬りつけて、死体を残すとも思えない。疫病を疑い、殺してまで隠匿しようとしているのだから。
……むしろ、死体をどこかに捨ててしまいたいだろう。
どこに捨てる?
どこに捨てれば面倒が少ない?
相手は瀕死の重病人だ、殺す手間は考える必要もない。
増水して、勢いを増す用水路に沿って駆け抜ける。
この水量と勢いなら……。
大雨の中でも聞こえた水音。
……まず、間違いない。
用水路の淵に立つ、人集りが見えた。
「あの人達!? ……なんでこんな所に?」
トルテくんの身体が強張る。
その反応に、考えの正しさを知る。
……なら、やっぱりさっきの音は。
バッと振り返り、荒れる用水路の水面を見渡す。
すぐに目が止まったのは、麻袋だった。
濁流に飲まれ、大きな麻袋が浮き沈みしながら流れていくのを見つけた。
……あれだっ!?
逡巡してる暇は、無い。
咄嗟に靴と服を脱ぎ捨てて、馬上から飛び降りる。さすがに、ズボンを脱いでるだけの余裕はない。
上半身だけでも下着になり、トルテくんを馬に残して、増水した用水路の中に頭から飛び込んだ。
「なっ!? レフィアねーちゃんっ!?」
「おいっ! 誰かが用水路に落ちたぞ!?」
「あれ! あそこだ!?」
水の上で皆が騒ぎ出してるのが聞こえる。
けど、そんなの気にしてる余裕はない。
雨が流れ込んでいるとはいえ、生活排水用の用水路だ。匂いもキツイし、悪臭が目にしみる。上から見た以上に、実際の流れも早い。
……けど、それでもっ!
濁流の流れに逆らわぬ様に麻袋へと距離を詰めて行く。
息つぎ一つするのにも難儀な状況だけれど、水面で大きく息を吸い込んで、頭から水流の中へと潜り込む。
泥と汚水で濁りきった水面下では視界なんて通らない。
当たりをつけて、ぐっと近づいて手を伸ばす。
……そこっ!
麻袋の端が指先にかすった。
渾身の力をこめて麻袋の端をガシッと握りしめ、身体ごと近くへと引き寄せる。
勢いを増す水流に身体が押し流されるけど、掴んだ手を放す訳にはいかない。
……絶対に、放してなんかやらない!
下半身に濡れたズボンがへばりつく。
ズボンも脱ぐべきだったと後悔しながらも、何とか必死に水面を目指す。
水圧をまともに受けて下半身が重い。
身体の自由が、全然きかない。
「かはっ!」
「あそこだ! いた! 早くロープを!」
「もたもたするなっ! 急げっ!?」
水面から顔を出して、大きく息を吸い込む。
雨粒が顔にあたって上手く息ができない。
荒れ狂う水面が、容赦なく息つぎの邪魔をしくさる。
目の前に張られたロープに、必死で肘をかけて身体を固定する。
……ロープ? いつの間にロープが?
めっちゃくちゃありがたい。
「レフィアさん! 今引き上げます! ロープにしっかりとしがみついていて下さい! いいわ! 引き上げて!」
「はぁはぁ、聖女……、様? 何で聖女様まで」
ロープを張ってくれたのは、どうやら護衛騎士の人達のようだった。聖女様も馬車を降り、どしゃ降りの雨の中てずぶ濡れになりながら激を飛ばしている。
水圧に流されそうになりながらも、必死で麻袋を抱き抱え、ロープにしがみつく。
「がはっ、うぇっほ。げほっ、えほっ」
護衛騎士数人で引っ張り上げられ、程なくして水の上に這い上がる事が出来た。
飲み込んでしまった汚水で、盛大に咳き込む。
「レフィアさん!? しっかり!」
聖女様が側に駆け寄って来てくれた。
脱ぎ捨てた服を上からかけて、肌を隠してくれる。
自分だって頭からびしょ濡れになってるのに。
「げほっ。ありがとうございます。それよりっ」
一緒に引き上げられた麻袋を探す。
護衛騎士の人がすでに紐を解いてくれていたようで、中に押し込められていたその人が、地面に横たえられていた。
……やっぱり。
生きたまま袋に詰め、用水路に落としたんだ。
大勢で病人を、よってたかって。
腹の奥底から、どす黒い感情が沸き上がる。
……それがっ、人のやる事かっ!
立ち上がり、横たえられたダウドさんに近寄ろうとした所を、護衛騎士の一人に押し止められた。
強引に前へ進もうとすると、さらにぐっと押さえつけられる。
……何? 何で、邪魔をするの。
「……すでに、息をしていません」
「だったらなおさらっ! すぐに手当てを!」
「疫病の疑いがあります。近付いてはいけません」
麻袋から解放されたダウドさんは、ぐったりと力なく地面に横たえられている。
横たえられたまま、……誰も、何も手出しをしない。
……。
……。
ふざけんな。
何さ、それ……。
「どいて……」
「なりません」
押さえつけられても構わず進もうとして、護衛騎士の人に身体ごと阻まれる。
こんな事、してる場合じゃないのに。
一秒でも遅れれば取り返しがつかないのに!
「どいて!」
「なりません!」
どす黒い感情が、……広がる。
「いいからっどいてっ! っ邪魔をするな!」
腹の底からの怒りにまかせて怒鳴りつける。
護衛騎士の人が一瞬怯む。その隙をついて力一杯突き飛ばし、ダウドさんの元へと走り寄った。
身体の上から覆い被さるようにして、その状態を確認する。
脈が無い。呼吸も止まっている。
口元には嘔吐したのか、白い吐瀉物が見える。
なのに、身体だけは高熱を発したまま、熱い。
……まだ呼吸が止まってから、幾何も無いハズ。
戸惑っているだけの時間なんて無い。
口の中に指を突っ込み、口腔内に残留した吐瀉物が無い事を確認して、身体を仰向けにひっくり返す。
雨で口が塞がらないように顔を横にむけ、シャツの胸元を開いて胸部をあらわにした。
「レフィアねーちゃん、何を!?」
両手を重ね、全体重をかけて心臓を押し込む。
セルおじさんは、肋骨を砕く位のつもりでやれと教えてくれた。だから、それに従う。
ぐっ、ぐっ、ぐっと30回ほど心臓を、肋骨の上から押し込む。
……お願い。お願いだからっ!
頭の横に移動して、ダウドさんの顔を上にむける。
呼吸は、……まだ戻ってこない。
鼻をつまみ、顎をあげる。
大きく息を吸い込んで、ダウドさんの口の中へ直接空気を吹き込む。
「……なっ!? 何をっ!?」
周りから一斉にどよめく気配がする。
けど、知らない。関係ない。
こっちも必死なんだ。邪魔はするな。
2回ほど息を吹き込むと、ダウドさんの胸が上下に大きく膨らむのが確認できた。
気道内が異物で詰まってるって事は無いらしい。
再び全体重をかけて、心臓を押し込む。
こんな事で死んじゃ駄目だ。
こんな所で死ぬんじゃないっ!
そんなの、許さない。
絶対に、許さない!
心臓マッサージと人口呼吸を繰り返す。
「アリシアさんと結ばれるんでしょ! トルテと三人で新しく生活を始めるんでしょーが!」
「レフィア、……ねーちゃん」
「これから好きな子を幸せにしようって人がっ! 勝手に一人で死んでどうするのっ! 男でしょ! 根性出して戻ってこいっ!」
人に期待させておいて。
……求婚しておいて、勝手に死ぬな!
「げほっ!?」
「ダウドにいちゃん!?」
何度目か心臓を押し込んだ拍子に、ダウドさんが盛大に汚水を吐き出して咳き込んだ。
肺に入った汚水を咳き込み、身体をよじる。
……よしっ。
……よしっ! よっしゃあ!
何とか、何とか間に合った!
「……そんな、完全に心臓が止まってたのに」
「聖女様! この人をすぐにガマ先生の所へ!」
「え、ええ。……そ、そうね。驚いてる場合ではありませんでした。その方を馬車の中へ! 一人は神殿へ向かい前触れを! 残りはここに残り、経緯を調べるように!」
呆けていた聖女様が指示を飛ばす。
聖女様の一喝で、護衛騎士の人達がそれぞれに動きだす。
「トルテ! アリシアさんは今どこに?」
「……分かんない。昨日から、勇者様のお仕事の手伝いをしてていないんだ! 今どこにいるのかも!」
「分かった。ダウドさんは神殿に運ぶから、トルテも一緒に。アリシアさんには後から連絡がつくかどうか考えてみるから、今は急いで!」
トルテくんを馬に乗せて、ダウドさんと一緒に中央神殿へと急ぐ。
高熱に、白濁した吐瀉物。
七夜熱の、高熱期に見られる症状に似てる。
何とか一命は取りとめたけど……。
まだ、助かった気がしない。
降りやまぬ雨の中、胸を抉られるような不安と、言い知れないドス黒い感情が沸き上がってくる。
もし……、もしこれが七夜熱だとしたら。
一体、何故……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます