番外編
ACT.X-1 -SIDE634-
——生きている。
目が覚めたとき、そう思った。
だけどそれを喜びはしない。むしろ、あの人を失ってもなお生きていける自分の体に、少しだけ腹が立った。
ベッドは壁に沿って直立したままで、扉の外からはいつもの喧噪が聞こえる。どう考えてもこんな状態の私が、無意識の内に朝の点呼を済ませたとは思えなかった。
つまり、通常無視されるべきでないことが無視されている。何かしらの異常事態が起こったらしいことは想像に容易い。
当番の看守は私がいないことを黙認したのではなく、そもそも点呼に来なかったのだろう。来ていたとしたら、点呼に並ばない囚人の部屋の窓くらいは覗く筈だ。立てかけられたベッドと、ドアの前で仰向けに倒れる者を見て、そのまま放置していくというのは考えにくい。
酷い顔してるだろうし、せめて医務室にくらい運んでくれる気がする。体も起こせない有様だから、まだきちんと確認してはいないけど、顔が無事じゃないのは見るまでもなかった。目も開かないし、なんでか呼吸する度に喉が痛いから。手で顔に触れようと思ったけど、肝心の手が上がらなかった。
こてんぱんの満身創痍だ。そう気付くと、私は無理矢理笑って目を閉じた。
どうでもいい。本当に。全部。全部、どうでもいい。
あの人のこと以外、じゃない。あの人だって、自分だって。
そんなことを考えていた気がする。
次に目が覚めた時は、ベッドの上だった。医務室に運び込まれたのかと思ったけど、これは知ってる天井だ。視線を横にずらすと、そこには心配そうな顔をしたナルシスさんが居た。
「なる、しすさん……?」
「ムサシ! 気が付いたか……!」
ナルシスさんの声に反応したように、地べたに寝そべっていたらしいハイドさんが起き上がる。本当に仲がいいな、この二人。
「アンタ、大丈夫なのかよ」
「えぇ。まぁ」
「その傷、誰にやられた」
「……ただの痴話喧嘩です」
「……まさかと思うけど、エドか」
ナルシスさんは苛立った様子でそう言った。
まさかも何も、私が痴話喧嘩する相手なんて、舞以外にいるわけないでしょ。そう言いそうになったのを飲み込んで、枕に頭を付けたまま静かに首肯した。その時に気付いたけど、後頭部も痛い。
「そんなことより、なんでここに居るんですか」
「その様子だと、君は何も知らないらしい。いいか、ムサシ。今朝、所内で放送が行われた」
「ほ、放送?」
「囚人は部屋で待機していろ、ってさ。びっくりだよね。私、この施設にそんな設備あるの初めて知ったよ」
ハイドさんは両手を横に上げて笑った。彼女はいつもと変わらずおどけて見せているが、おそらくはかなり少数派だと思う。こういう非常時にヘラヘラとしていられるのは、ある種の才能だ。
前に誰かが言ってたように、器だけで言うのなら、最もボスに相応しい人のように思える。まぁ、その適正を補って余りあるくらいの適当さを合わせ持つのがこの人なんだけど。
「驚かないの? 放送があったって」
「驚いてますよ。ただ納得してたんです」
「何が?」
「本当に行っちゃったんだって。そして少しだけほっとしてます」
「……ムサシ、もしかして、何か事情知ってるんじゃない?」
むしろこの二人はどうして私のところに来たんだ。事情を知ってると思ったからわざわざ私なんかのところに来たんじゃないのか。順を追って訪れてくれない展開に翻弄されながらも、私はB-4の面子が脱走計画を企てていたことを話した。
ハイドさんは目を丸くして、瞬きを繰り返している。いつも眠たそうにしているたれ目がここまで開かれ、動いているところを初めて見た。一方で、ナルシスさんは腕を組んで、口元だけが強張ったように笑っている。
「つまり、だ。B-4の連中は、脱獄に成功している可能性がある、と?」
「まぁ、そういうことになりますね」
ナルシスさんが確認するように私を見る。特に言うべきことはない。否定するようなことも。
「一応言っとくけど、私達がムサシを訪ねたのは、なんとなくイヤな予感がしたからだよ。所内をぶらついても姿は見当たらないし、ゴトー達も居なかったから」
ハイドさん達が私の何を疑って姿を探していたのか、よく理解できた。つまりは、復讐を完結させようと動いた結果、このような事態になっているのでは、と思ったようだ。
そんなこと有り得ないって、二人だって分かってるくせに。ここで誰が死んで誰が殺されようが、それまで存在を知られてすらいなかったスピーカーの出番が来るとは思えない。それならばもっと早くにハイドさん達に存在を知られていないと、色々と矛盾する。
多分、第六感ってヤツなんだと思う。胸騒ぎがした、だから駆けつけた。これが本当の理由。いまハイドさんが言ったのは、きっとただのきっかけに過ぎない。
「そんなことしませんよ」
ため息混じりに、念のため疑惑を否定しておく。彼女達は私のことをなんだと思っているのだろうという気持ちは拭えないけど、私がキレて棒状の何かで人を殴る危険人物であることは確かだし。
私の救えないところは、もうしないようにしよう、と思えないことだ。今だって自分のしたことは正しいと思ってるし、同じようなことがあれば迷わずその凶器を振り下ろす覚悟がある。
ただ、様々な理由から、ササイさんの敵討ちについては、あれで手打ちにするつもりなだけだ。
あの五人は脱走したらしいということを伝えてしばらく、私はやっとこの状況がおかしいことに気付いた。もしかすると、喧嘩の後遺症でぼーっとしてるのかもしれない。
「待って下さいよ、おかしくないですか? 囚人は外に出るなって言われて、なんで二人はここにいるんですか。っていうか他のみんなも。普通に出歩いてるっぽいですけど」
「あぁ、うん。そだね」
「それってつまり警戒状態が解除されたってことで、もしかしたらB-4のみなさんは連れ戻されたり」
「いいや、ムサシ。よく考えてくれ。ここの連中が何時間も刑務官の言うことを聞き続けられるわけがないだろう。勝手にその辺をうろついてるだけだ。協調性のない奴らだ」
「ナルシスさん、頭にすごい大きなブーメラン刺さってますけど、大丈夫ですか?」
ドヤ顔で自分を攻撃する彼女に恐れを抱きながら、私は恐る恐る指摘する。てっきり痛いところをつかれたという表情を見せるかと思いきや、彼女は愉快そうに笑った。あぁ大丈夫だ、と言いながら。
「私は協調性あるぞ。ちゃんと周囲のことを考えている。例えば次のボスのこととか、な」
「あー。ナルシスも同じこと考えたんだ」
ハイドさんはくつくつと笑って、ちらりとドアを見る。小窓の向こうを覗いて、誰も近くにいないことを確認してから、囁くように言った。
「ムサシ、次のボスやんなよ」
「……はぁ?」
今日は何月何日なんだろう。でも、四月一日じゃないことだけは確かだ。だと言うのに、目の前の先輩二人は大真面目な顔で、私にとんでもないことを言ってくる。私がそんなこと、引き受けるワケがないのに。
「誰かがやらなきゃいけない。だけど、私じゃだめだ。適当だし」
「そうだな、しかし私でも駄目だ。自分で言うのもなんだが、ここで務めるなら補佐役の方が適任だ」
「私なんかよりも責任感があって」
「私なんかよりも思い切った行動が取れる者」
二人はそういう遊びをしているような調子で、淀みなく交互に言葉を紡いでいく。内容に耳を傾けてみると、自分が任命された理由については理解できた。
「いま、エラーが居ないからさ。暫定的に私らが取り持ってるんだよ」
「エラー達が脱走したことは、すぐにここの囚人の知るところとなるだろう」
「ムサシ。私らがアンタの狛犬になったげるよ。今のアンタにできることは何かわかる?」
ハイドさんは私にぐっと近付いて、鼻同士がぶつかるくらいの距離になる。意味深な目で見られて、少しドキドキした。
彼女の問いについては正しく答えられると思う。それくらいしか思いつかないってだけだけど。
「エラーさん達が脱走したと発表されたら、すぐに私が次のボスだって告知しなければならない。つまり、私はそれまでに、人前に出られるような顔になるよう安静にすべき、ということですか」
「……やっぱ分かってんじゃん。しょーらいゆーぼー。ね」
「我々が見込んだ女だ、当然だろう」
これからよろしくな。
そう言って不敵に微笑む二人の顔は、よく似ていた。
こうして私はB棟のボスを務めることになった。絶対に自分には関係がないと思っていたポスト。エラーさんがどんな気持ちでボスをやっていたのかは、ついぞ知ることがなかったけど。もしかしたら私みたいに、考えたくないことから逃げるようにその責務を負うことを決めたのかなって、ちょっと思った。
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