Final ACT

 サングラスをかけた女が二人、通路の端を歩く。

 一人は携帯端末を持ち、ディスプレイを覗き込んでいた。当然ながら、その足取りは覚束ない。もう一方の女は盲人を導くが如く、その女の手を掴み、空いた手でキャリーバッグを引いている。手を繋いでいるとはいえ、その光景は同性カップルというよりも、大きな子供と母のようであった。

 二人が歩いているのは、とある駅の連絡通路だ。空港からの乗り継ぎによく利用される駅で、都内の駅の中でも人通りが多い。まともに前を向いて歩こうとしない長身の女は、ある動画を繰り返し再生していた。

 まさに釘付けといった様子で、一瞬たりとも視線を離そうとしない。常人には考えられない集中力だと褒めることもできるかもしれないが、彼女の手を引く女は、ふらふらと斜めに進んでは、すれ違おうとする通行人に気を遣わせる女にうんざりしていた。


「前から聞きたかったんやけど、もうちょっと都心寄りに部屋取った方が良かったんと違う?」

「私一人ならそうしたけど、美優がいるし」

「はぁ? 私がいるならなおさらやろ。私に不便な思いさせて楽しいん?」

「あの辺は治安悪いじゃん、何かあったら困るからだよ」


 長身の女、ラッキーは尤もそうな理由を述べながら、再び動画を始めから再生させる。そんな彼女を見て、サタンは小さく呟いた。


「なんかあっても気付かんくせに、よぉ言うわ」

「え、なんか言った?」


 問いかけながらも視線は移動しない。ラッキーは手中の端末を眺めたまま、サタンへと言葉を投げかけた。サタンはその問いかけを無視する。しばらく歩くと、振り返るように斜め後ろを向いた。


「翼、せっかく戻ってきたんやし。……ちょお」


 そして空港に着いた時と全く同じように、食い入るように端末に視線を落とす女を視界に入れると、もう我慢はできなかった。


 ラッキーは任務に失敗して家に戻ってきてから、ずっとこの調子である。つまり、この状態は本日、先ほどから始まったものではない。

 彼女が繰り返し観ているのは、己が失態を犯した様子を収めた動画である。普段から大きな仕事の際には小型カメラを搭載した眼鏡をかけ、後から見直すことがあったが、これほど一つの動画を何度も再生したことは一度もなかった。

 既に何百回再生されたか分からない。そして、これからも携帯の充電が切れるまで、もしくは切れそうになれば、充電をしながらでも再生され続けるかもしれない映像だ。

 サタンはラッキーが人ごみではぐれないよう、その手を引いて乗り換えの連絡通路を歩いていく。


「ここまでの作業はいいでしょ? 警報を直で遮断すると別の警報が作動するのは想定していた。だから怪しいコードを先に切断した。もちろん、そのコードにセキュリティがあることも想定してた」

「ちょっと」

「あっ……!」


 サタンの声が耳に入っていないらしい。何かに気付いた様子で動画を巻き戻すと、またぶつぶつと呟き始めた。サタンは頭に手を当てて盛大にため息をつく。当然ラッキーの耳には入っていないのだが。


「やっぱり……そうか……警報とセキュリティをワンセットとして、さらにそれが二組、いや、映像に映ってないだけで三組あった可能性も……!」


 サタンは遂にラッキーに話し掛けることを辞めた。彼女を道の端に立たせると、小さなドラッグストアへと入っていく。目当ての飲み物を買って戻って来ても、変人はまだ動画と一方通行な会話を繰り広げていた。


「そうそう、これ。この瞬間。シリンダー回ってるでしょ。いや……そうか、シリンダーが空回りしてるのか……なるほど……この手の鍵穴には使われないピッキング対策だったから、盲点だった……そっか……っひゃあ!」

「ええ加減にせぇよ」

「酷くない!? 冷たいじゃん!?」

「どっちも私の台詞や。せっかく日本に帰ってきたっていうのに、翼はずっとスマホと睨めっこでぶつぶつキモいし」

「き、きもくないもん!」

「三十路手前の女が「もん」はないわ」


 ラッキーが動画を観続けるのは、職に対して責任感があるから、ではない。好奇心だけが彼女を突き動かしていた。日本に帰ってきたばかりだと言うのに、ラッキーは次の渡米の機会を心待ちにしていたのだ。


「オーリンズだって、翼を見捨てた訳じゃないんやろ」

「……うん」

「あくまで、見つかるとヤバいからって、一時的に避難するように言われたんやろ」

「そうだよ。でも」


 ラッキーは反論しようと声を発したが、サタンに遮られてしまう。そしてそれは彼女の素直な要求でもあった。


「じゃあ他のことでも考えや。キモいオタクと歩く趣味はないで」

「私は顔がいいだけで元々わりとキモめのオタクだよ……って、あれ? エラーは?」

「はぁ? ほんまええ加減にせぇよ?」


 エラーとは空港に着いてから、そのままロビーで別れている。


 信じられない。自分だってまたねって言っていたくせに。サタンの頭の中では、そんな言葉がぐるぐると巡っていた。それでもラッキーは不思議そうに続ける。


「どこ行ったの?」

「それは聞いとらん。けど、分かるやろ」

「……あ、そっか。空回りは有り得ないか……? あのときはテンションを深めに挿してたから……ってことは、まさか、鍵穴自体が最初からダミーだった可能性も」

「翼」

「……あ、ごめ」


 サタンは舌打ちを響かせると、再びラッキーの手を取って歩き出した。舌打ちは彼女が表す怒りの表現で最上級のものだ。およそ二年の生活で、ラッキーはそれを身を以て学んでいた。今更取り繕うように笑って、携帯をポケットにしまって見せる。

 そうして二人は再び歩き出した。自動改札機を通ると、交通系ICカードと入れ替わりに、ラッキーは再び端末を手にしている。流れるような作業で、エスカレーターに乗りながら動画を再生させる。サタンは後ろからその光景を見届けると、ある決心を胸にした。


 ——本当に、こいつとはもう二度と一緒に酒盛りをしない


 サタンは酒に弱くても、記憶が消える性質たちではないのだ。泥酔した自分がしでかした夜のことを思い出すと居ても立ってもいられなくなり、目の前の女のふくらはぎを蹴り飛ばす事で発散させる他なかった。



 ****



 札幌のとある喫茶店では、女二人が向かい合うように座っていた。

 窓際の席に通された二人は、ガラス越しに射し込む日差しを浴びている。出入り口側に座る女の自慢の黒髪は、陽の光を吸い込み、体を少し動かす度にその艶を反射させている。少し前まで囚人をやっていたなどと、誰が思えるだろうか。女は、ストローから口を離して笑った。

 居心地が悪そうにその笑みを見つめるのは、職場から直接この場所に向かったエドであった。こちらもファントムにいた頃より髪は少し伸びていたが、同棲している女や、目の前の彼女と比べるとかなり短い。肩より伸ばすとどうにも邪魔に感じてしまうことから、現在のエドのヘアスタイルは、彼女の中で最大限伸ばした結果だったりする。


「舞、なんか全然違うね」

「そりゃてめぇで選んだ服着てんだ、あそこにいた頃とは違うだろ。お前は変わんねぇけどな」


 エドはそう言って歯を見せる。ムサシはテーブルの下でエドの脛を軽く蹴ると、頬を膨らませた。


「いってぇ……冗談だっつの。お前、大人っぽくなったな」

「まぁ元々大人だったけどね。色々あったよ、あれから」


 ムサシは遠い目をして、過去あったことを思い返すように言った。言い含められた何かを察することができず、二人の間に横たわる時間がどれほど長かったのかを、エドは思い知る。

 再会しないという選択肢があったことを思い出しながら、エドはムサシを見つめていた。


 エドにムサシの出所を知らせたのはエラーである。セノからミカ、ミカからラッキーという伝言ゲームのように、エラーはその事実を伝え聞いたのだ。空気の読めない、というより元より読むつもりすらないラッキーが、何の迷いもなくエドに伝えてしまうのは時間の問題であったが、立て込んだ仕事が防波堤として作用する。すっかり忘れていたそれを、エラーの前でふと思い出すと、ラッキーは「あ」と声をあげたのだ。

 伝え忘れていたと頭を掻くラッキーに、言っとくよ、と気を利かせたような口ぶりでほくそ笑むエラー。そうして彼女は「ラッキーから聞いてるかもしれないけど」などと、白々しい切り出し方でメッセージを送ったのだ。ちなみに、二人が連絡を取り合うのは、脱獄後初めてだった。

 五人の脱走劇から、セノとミカには僅かながら交友があった。なんだかんだ五人の、特にエラーの様子を気にかけるセノと、ラッキーの後釜を見つけた暁には再びファントムでテストをさせたいと考えていたミカが、しち面倒くさい処理や手続きの最中、互いの利害が一致することに気付くのに、時間はかからなかった。


 そういった経緯があり、エドは既に出所していたササイを介して、ムサシの連絡先を聞き出し、こうして再会へとこぎつけたのである。迷う気持ちはあったが、娑婆で会いたいという気持ちに嘘をつくことはできなかった。

 断られればそれまで。二度とコンタクトは取らない。そう決めて掛けた電話で、二つ返事で約束を取り付けることに成功したエドは、少し拍子抜けしたような気持ちになった訳だが。


「そう、か。ナルシスさん達は元気か?」

「うん。相変わらず。今頃、躍起になって次のボス探してるんじゃないかな。もしかすると、ハイドさんがまた返り咲いてるかも。本人は嫌だろうけど」

「……あ?」


 犬歯をちらつかせて顔をあげる。お世辞にも行儀がいいとは言えない所作であったが、今更エドにそのようなものを求める知人はいない。恫喝するような表情に面食らいつつも、ムサシはストローでコーヒーをかき混ぜながら言った。


「え、何?」

「お前……もしかして、ボスやってたのか?」

「あぁ、そこからか。そうだよね。うん、エラーさんがいなくなってから、私がボスになったの。ハイドさん達がどうしてもって言うから」


 ムサシの言葉に、今度はエドが面食らう。あの優等生がボスを務めるファントム。想像が付かなかった。もう済んだことだというのに、混乱したエドは慌てて止めに入ろうとする。動揺するエドを見て、ムサシは無邪気に笑った。


「そんなほいほい引き受けていいことじゃ」

「舞がいなくなって、私なりにヤケ起こしたんだよ」


 なるほど、色々あったというのは大袈裟ではなく、むしろ控えめに濁した表現だったらしい。それを理解すると、エドは口を噤み、汗のかいたグラスに手を伸ばす。ストローにがじがじと八つ当たりしていると、ムサシはゆっくりと口を開いた。


「いま、クレさんと暮らしてるんでしょ」

「……懐かしいな、その呼び名」


 つくづくふざけたあだ名だと、エドは小さく笑った。ムサシは何か納得したような表情で呟く。


「……名前で呼んでるんだ」

「当たり前だろ」

「なんていうの?」

「は、はぁ……? 別にいいだろ」


 半分ほどになり、味の薄まったココアを啜りながらエドは言葉を詰まらせる。その様子を見て、ムサシは呆れ返った。


「警戒し過ぎ。本名を伝えることに抵抗あるって、普通じゃないよ」


 エドに言わせれば、ファントム出身者特有の素性を晒したがらない悪癖と、ムサシにクレの名前を教えたくない気持ちは全く別のものであった。当然、それを悟られるわけにはいかない。ムサシの指摘が的外れではないことをアピールするため、会話を続けるしかなかった。


「……はぁ、悠だよ」

「へぇ。ちょっと意外かも。漢字は?」

「ゆーきゅーのゆうだと。あたしには意味がわからねぇ」


 エドがふてくされたようにそう言うと、ムサシはコロコロと笑った。この人は全然変わっていない、そう安心しながら。

 そして切り出す。ずっと聞きたかったことを。


「……ねぇ舞」

「なんだよ」

「いま、幸せ?」

「……さぁな」


 歯切れの悪い返事をしてみせたエドであるが、彼女には色々と思うところがあったのだ。クレの被虐趣味は相変わらずで、付き合わされる自分は何度繰り返してもその行為に意味を見出せない。しかし、その相手として自分を選んでくれている現状を最悪だとも言いきれない。気持ちは通じ合わず、かといって明確な不満があるかと問われれば、そうでもない。ムサシの問いは、今のエドにとって最も答えにくい質問の一つであった。

 かと言って、その解にムサシが満足できるかと問われれば、答えは否であろう。エドの瞳に映るムサシは明らかに憤慨していた。


「なんでうんって言ってくれないの?」

「あ? だって、わかんねぇよ、そんなもん」

「どうして? 舞はさ、辛い環境で育ったんでしょ。そうしてあそこに来たんでしょ。それと今の暮らしを比べて、分かんないの?」

「なんで怒ってんだよ」


 エドはその表情に懐かしさを感じていた。ファントムに居た頃、こうやって無意識の内に彼女を怒らせたことがあったと思い出していたのだ。

 そして、その思い出と共に、当時の感情がぶり返して、息が止まりそうになる。コップの中で小さくなっていた氷をスプーンに乗せて、何かを誤魔化すように噛み砕く。


「怒るよ。私、諦めたのに」

「……あたしは、今の暮らしに満足してる」

「じゃあ、笑って、幸せだって、言ってよ」

「うっせ」


 悪態をつくエドの手に、クレの首を絞めた感触が蘇る。苦しそうな表情が、それでいて恍惚とした表情が。艶めいた声が頭の中で響いて、感情がミキサーにかけられてぐちゃぐちゃになるような感覚に見舞われる。

 今のところ、要求がエスカレートすることはないが、それでも彼女の要求を一つ飲む度に大切な何かを踏みにじっている気がした。それがクレのものなのか、はたまた自分のものなのか、エドには区別がつかないが、出来ることなら大切にしたい何かであることは確かだ。


 誰かに縋りたい気持ちが無いと言えば嘘になる。それでもムサシにクレのことを告げる気にはなれなかった。愚痴をこぼして受け入れられれば、歯止めが効かなくなると本能的に察知したのである。

 今日だけだ。こいつが実家に帰るまで、気を引き締めればいい。エドは自身の甘えたくなる気持ちをそう宥め賺して雑談に興じた。


 そうして、二人は喫茶店を出る。携帯のディスプレイを表示させて、エドは一言、半端な時間だと呟いた。


「雅」

「なに?」

「今日、会えて良かった。お前、関東の出身だろ? あっちにはいつ戻るんだ?」

「戻らないよ」

「……は?」


 ムサシの何気ない返答を耳して、エドはくらくらした。そんな彼女に気付かず、ムサシはつらつらと述べる。その横顔はどこか諦めたような表情を湛えていた。


「戻れる訳ないじゃん、どの面下げて戻るの。親は戻ってこいって言ってくれたけど、無理だよ。少しお金を工面してもらったから、いつかそれを返せる日が来たら、一度顔は出すつもり」


 無意識の内に自身の願望を押し付けていたエドは、己を恥じてムサシの独白に耳を傾け続けた。何もかもが、彼女の言う通りだった。


「それに、私が庇ったあの子だって、私を見かけたらきっと辛くなる」

「じゃあ……まさか、ここにいるのか?」

「今はマンスリーマンションにいるけど。琴似にいい物件があったから、明後日からそこで暮らすよ。部屋はもう借りてあるけど、マンスリーの契約が切れるのが明後日だから」

「そっか……にしてもあたしの家と近ぇな」

「そうなんだ」


 家が近い、そう聞いたムサシは安堵していた。出所したばかりで、さらに知り合いがいない土地で始める新生活である。顔見知りの存在は心強い。

 しかし、その一方で彼女は自分の中で広がる、黒い感情にも気付いていた。久方ぶりに沸き起こるそれは歯止めが効かない。エドのシャツの袖を引っ張ると、もう止まれなかった。


「舞、お願いがあるんだけど」

「なんだよ」

「最近、毎日必要なものを買っては新居に運んでるの。今日もそのつもりだったんだけど、空いてるなら手伝ってよ」


 言葉を額面通りに受け取っていいものか。エドは逡巡したが、ムサシの立場を考えると無碍にはできなかった。とりあえず、手助けくらいはしてやりたい。気付いてしまったもう一つの理由を見なかったことにして、彼女は言った。


「……まぁ、いいけど」



 ***



 ——舞は今日、帰ってくるんだろうか。


 クレは駅前の喫茶店の中で、腕を組んで人を待ちながらそんなことを考えていた。帰ってこなかったとして、自分はどう感じるのだろう。悲しむことができれば、前進したことになるのではないだろうか。そうまでしなければ、自身の気持ちを確かめられない現状に、難儀なものだと呆れ返っていると、待ち侘びた声が彼女の名を呼んだ。


「久しぶり。すごいね、座ってても目立つって」

「その前に言うことがあんだろ」

「なんだろ? 教えてよ」

「マジでぶっ殺すぞ」


 クレが凄むと、待ち合わせに一時間近く遅れてきたエラーは目を丸くする。そうしてへらへらと笑いながら、向かいの椅子を引いて腰を下ろす。


「ごめんって。ちょっと駅前辺り? 混んでてさ。あとこのお店分かりにくいよ」

「ふざけんな、めちゃくちゃ分かりやすいだろうが。っつか道ってなんだよ、電車で来たんだろ?」


 確かめるようにクレは呟いたが、エラーは店員にアイスコーヒーと告げると、さらりととんでもないことを言ってのけた。


「ううん、タクシー。いやー、千歳と札幌ってあんな離れてるんだね。びっくりしちゃった」

「はぁ?! タクシー!? お前、いくら掛かったんだよ!」

「あーと、2万くらいかな。どうでもいいから忘れちゃったや、翼のカードで払ったし」


 大きな声を出してしまったことを恥じるように、クレは周囲を見回す。エラーの口から聞くのは久々だったその名前の人物の顔を思い浮かべてから、自身を無理矢理納得させることしかできなかった。


「おま……まぁ、翼のならいいか」

「そうそう」

「で、お前いつまでこっちにいるんだ?」

「二週間くらい? 決めてないけど。私は二人の少し利口なペットみたいなもんだし、適当だよ」


 受け取ったアイスコーヒーにストローを挿して、エラーは笑う。その表情がクレにファントムに居た頃の記憶を呼び覚まさせたが、エラーは彼女が昔を思い返していることになど気付かない。


「正直、あんな妙な翼見たの初めてでさ」

「あいつはいつも妙だろ」

「そうだよ、そんな奴が仕事で失敗してピリピリするなんて、普通過ぎて妙でしょ」

「あぁ……」


 エラーの言い分に、クレは妙に納得してしまったらしい。確かに、そう呟きながら、本当に三人で暮らしているらしい事実を今更実感して、少し笑った。


「美優も私がいない方が翼と話しやすいみたいだし、あんまり関わりたくないのと気遣うのとで、しばらくはこっちにいるよ」

「まぁ、翼がいいんならいいけど。旅費的な意味で。この辺ならビジネスホテルもあるしな」


 彼女の言う通り、観光地であり県庁所在地でもある札幌は、宿には事欠かない。金に糸目をつけなければ、大概は問題ないだろう。雪祭りやよさこい祭りといったイベントもないタイミングの帰国は、エラーにとって有難いものであったかもしれないと考えながら、クレは相槌を打った。


「最悪ラブホでもいいし」

「お前はそれでいいかもな。でも一人で入れんのか? 自殺とか面倒起こす奴のせいで一人は断られるって聞いたことあるぞ」

「大丈夫でしょ。そんなに言うなら悠が一緒に来てよ」

「ばっ!」


 動揺した自分が情けなくて酷く醜い。際どい冗談を言ったのはエラーの方だというのに、クレは自身の汚さを恥じて俯いた。


「いや、声大きいし」

「……冗談でも言うんじゃねぇよ、そんなこと」


 テーブルに肘をついて、手に額を預けてみせると、クレは自分を落ち着かせるように大きく息を吐く。その様子を見て、ろくでなしが悦ばないわけがない。エラーは目の前の美女をからかうように言った。


「あ、いいこと考えた。泊めてよ」

「……は?」

「舞と二人で住んでるんでしょ? 三人なら妙なことにもならないだろうし」

「それはダメだろ。普通に考えて」


 既にクレの目は笑っていなかった。自分に言い聞かせているかのような必死さを感じさせる言い方に、エラーはにやつきながら、ようやく手を引くことにした。


「冗談だって。でも舞に会いたいのはホント。行っていい? びっくりさせようよ」

「……そういうことなら、まぁいいか」


 行き先が決まった二人は喫茶店を出ると、大通りへと向かった。地下道を利用することもできたが、これはクレの小さな思いやりのようなものである。


「ほら、一応見とけよ」

「? 何、この建物」

「時計台だよ。知ってんだろ」

「あぁ、これが。思ったより小さいんだね」

「私も初めて見た時、同じこと言った」


 そうして二人はその前を素通りして歩き去る。クレが顔を上げて立ち止まると、エラーはその視線を追う。


「あぁこれは知ってる。テレビで観た。なんだっけ、札幌タワーじゃなくて」

「そんなもんねぇよ。テレビ塔だ」

「あぁそれだそれ。あれがどうかしたの?」

「いや、どうかしたって……お前、北海道の人間じゃないだろ」

「うん。……あぁ、もしかして観光のつもりで?」

「観光っつーかなんつーか、ただのついでだよ」


 そうしてエラーはへぇだのふぅんだの、関心なさげに周囲を見渡す。顔の整った中性的な女がきょろきょろとしている様子は、クレが想像していた以上に目立つ。奇抜な格好をしている訳でもないというのに、隣に立っているだけで、人目を引いているのが分かった。遠くにいる若い男達と目が合った気がしたクレは、エラーの手を取って、地下道へと続く階段を下っていった。


「何、急に」

「面倒なのに声かけられそうだったから」

「あぁ。悠、そういうのにモテそうだもんね」

「てめぇもな」

「悠ほどじゃないよ」


 二人は軽口を叩き合いながら、地下鉄の乗り場へと足を向ける。クレに言われるがまま切符を購入し、エラーは上に掲げられている路線図を見やった。


「どこまで行くの?」

「安心しろ、そこまで遠くねぇよ。黙ってついてこい」


 改札を通ると、エラーは無造作に切符をポケットにしまった。ホームで駅を待つ間に、同じポケットからガムを取り出す。食べる? と問うものの、いらないと返され、そのうち一枚を戻した。


「お前、外で会ったのは初めてだけど、なんつーか」

「何?」

「見るからにロクでなしって感じだな」

「え? ひどくない?」

「事実だろうが」


 地下鉄がホームに滑り込むと、風が止むのを待って、二人は車内に乗り込む。座席が一人分しか空いていなかったこともあるが、二人は自然とドアの近くに凭れるように立った。


「今から行くのって、二人の家でしょ?」

「おう。お前が行きたいところなんてないなんて言うからこうなったんだぞ」

「だってないんだもん。なんなら二人で動物園でも行く? 旭山動物園とかは? 北海道でしょ?」

「ありゃ旭川だ、バカ。動物園行っても女ばっかり見てそうだな、お前」

「女だって動物でしょ」

「檻の中を見ろよ」

「檻の中に居た女に無茶言わないでよ」


 クレはエラーの冗句を鼻で笑うと、腕を組んで代わり映えのしない窓の外、トンネルの壁を眺めた。ただそれだけの所作がやけに様になっている。エラーは、舞も気が気じゃないだろうと心中を察すると、戯れに口を開いた。


「あの日、舞に言ったんだよ」

「あの日?」

「私達が外に出た日だよ。ヘリから下りて、また会おうねって約束してそのあと」

「お前ら、会話なんてしてたのか」

「うん。”たまにはクレ貸してよ”って」

「……舞はなんて?」

「ぶっ殺すぞって」


 そう言ってエラーは笑った。クレも気分ではなかったが、なんとか笑顔を取り繕う。胸の中でぐわんぐわんと広がる罪悪感に吐きそうになりながら。


「……悠、私に借りられてくれないの?」

「物みたいに言うな、駄目に決まってんだろ」

「まんざらじゃないんだ」


 エラーはクレとの言葉遊びに終始にやにやとしており、ポケットに手を突っ込みながら、正面に立つ美女を品定めするように見つめていた。


「頭大丈夫か? お前」

「本当にその気がないなら、駄目じゃなくてイヤって言わない? この場合」


 核心を突かれてしまったような気がして、反論する言葉がすぐに出てこない。クレは息を詰まらせて、ただエラーを見た。視線の先の女は、駆け引きを楽しむように、ただ笑っていた。


「なんか言いなよ」


 催促されても尚、何も言えない。そんな自分が情けなくなって、クレは開き直るようにくつくつと声を上げた。


「ねぇ、私とのそれ、どうだった?」

「てめぇの元カノいんだろ」

「あぁ」

「私も似たようなもんだ」

「……あそう」


 懐かしい顔が、いや、顔なんてほとんど思い出せない。もう二度と嗅げない筈の懐かしい匂いが、エラーの鼻腔をくすぐった気がした。


「舞のやつがムサシと会ってるって言ったろ」

「言ってたね。よく黙って行かせたなって思った」

「別に」


 自分には何かを言う権利がないと思っただけだ。クレは吐き捨てるようにそう言って足元を見る。車両が音を立ててホームへと滑り込み、ドアが開く。数名が出入りし、二人の間を流れていく。

 そうして再び車両が動き出してから、クレは静かに呟いた。もしかすると聞こえないかもしれない、それならそれでいいと思いながら。


「……このまま部屋行って……もし、舞から、今日は帰れなくなったって連絡きたら、どうする?」

「……悠、ホントずるいよね」


 エラーはこれほど狡猾な女が存在することに驚いていた。その女はエラーの断罪とも言える言葉をそうだなと肯定して自嘲する。

 下らない問いに下らないと吐き捨てる者が相手であれば、クレの発言はただの戯言で終わっていた。しかし、彼女が質問をぶつけたその女は、そんな愚か者が嫌いではない。むしろ好きだ。エラーは鼻で笑ってみせてから、話を続けた。


「いいよ。じゃあ舞が戻らなかったら、ね?」


 この言葉を引き出したのは他でもない自分だ。クレは自責の念に駆られながらも、心の何処かではこれから起こるかもしれないことに期待を膨らませ、そんな自分にまた嫌悪した。


「私にここまで言わせて、浮気のきっかけを舞に押し付けたんだから。返事くらいしなよ」

「……おう」

「……舞、戻ってくるといいね」


 心にもない言葉を吐きながら、エラーはクレの顔を覗き込んで、まるでラッキーのように飄々と言った。


「あ、もしかして戻ってきて欲しくないとか?」

「……分かんねぇ」

「最低だね」

「知ってる」


 二人を乗せた電車は目的の駅へと到着する。

 無言で地下鉄を降り、無くしかけた切符を何とかポケットから探し出して改札を抜けた後。地上に出たエラーは、雲一つ無く晴れ渡る空を見上げて、「傘、持ってくれば良かったかも」と呟いた。


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