ACT.89 SIDE-556-
朝、意識が覚醒する。行ってくると声を掛けられて、ろくに目も開けられないまま声のした方へ腕を伸ばして、触れた体を手繰り寄せる。すっかり馴染んだ匂いがして、相変わらず閉ざされた視界の中で、彼女の体のどこに向かって喋っているのかも良く分かっていない有様で、いってらっしゃいと囁く。
再び目を覚ましたのは昼前だった。寝過ぎたことを後悔したものの、休みの日くらいはいいだろう、ということにして体を起こした。脱ぐ服など着ていないというのに脱衣所まで歩いていく。鏡を見ると、代わり映えのしない赤い長髪の女がそこにいた。
脱走して、生活が落ち着き始めた頃、髪を切ろうか迷っていると口にしたことがある。舞は酷く悲しそうな顔をして、そうかとだけ言った。長いのが好きなら、そう言えばいいのに。普段そういう要求をあまり隠さない舞が、あえて口にしなかった意味を考えると、どうしてもこの長髪を見納めにする気にはなれなかった。だからあの時と同じ姿のまま、私はこうして日々を送っている。
歯を磨いて、顔を洗って、適当な部屋着を身に着け、リビングのソファに腰を下ろした。二人掛けの座椅子を新調したんだ。美優が「ソファはええよ〜」なんて言うから。おかげで背もたれの角度で舞と喧嘩することがなくなってすっきりした。
どこかに出かける用事がなければ、家で過ごす。舞が帰ってきたら適当に飯を食ってヤって寝る。脳みそが腐りそうな生温いサイクルは、確実に私の人間性を蝕んでいる。だけど悪くないからやめられない。
「はぁー……」
最近、舞が妙にそわそわしている。こんだけ一緒にいりゃ嫌でも分かる。何をしてても上の空で、私の言ったことも左から右に聞き流してる。三日連続でトイレットペーパーを買い忘れて帰ってきてるけど、あいつは今日も忘れてくると思う。
さり気なく理由を聞き出そうかと迷っていると、舞の方から打ち明けてきた。まだ先の話らしいが、ムサシが出所するらしい。おそらくは翼か潤に聞いたのだろう。オーリンズとミカの二人なら、それくらいの情報を手に入れることは容易いだろうし、二人とも事実を伏せておくほど気が利くとは思えない。潤なんか、わざと告げて舞をからかいそうでもある。
このまま順調に服役をこなすことができれば、という条件付きではあるらしいが。それはもう後ろめたい顔だった。
あいつは模範囚だった。私達があそこを出てからもきっとそれは変わらなかっただろう。何せ舞の代わりとはいえ、脱獄するチャンスを棒に振る真面目ぶりだ。クソ真面目なその性格が今更変わるとは思えない。多分、あいつは出所するだろう。舞は他にも何か言いたげにしてたけど、そうか、とだけ言ってその話を終わりにした。というかさせた。
会いたいんだろうな。そして私にその許可を得ようとしている。あの顔はそういう顔だ。
「……別に、私のことなんて気にせずに、好きにすればいいのに」
あそこから脱出して二年が経って、全てを失った。舞が直せと言うから、自分の事は私と呼ぶことにした。その方が全てにおいて都合がいいのは分かっていた。
それでも娑婆に出てしばらくの間は、舞と二人きりのときだけはオレと言っていた。使い分けるのも面倒になったので、思い切って統一してみたんだ。初めて舞の前で私と言ったとき、髪を切ろうと思うと告げた時と同じ顔をした気がするけど、その表情の意味を聞くのが怖くて、気付かないふりをした。
私は、自分が誰なのか、分からなくなっていた。いま思えば、ムショでの粗暴な振る舞いだって、元は心無い強姦魔達から身を守る為のキャラ付けでしかなかった。本当はあんな言葉遣いはしたくなかったのかもしれない。いや、あれはあれで過ごしやすかったか。でも、普通に生きてたら、あんな風にはならなかった。普通ってのがなんなのか、私にはもう分からないけど。
だから舞に全部決めてもらった。何をしていいのか、しなければいけないのか。してはいけないことも、全部。他人に全てを委ねてみると、めちゃくちゃ楽になった。舞は私に何かを言いつける度、辛そうな顔をするけど、私はそれと引き換えに快適さを享受していた。
家に籠っているのもそのせいだ。かなり前の話だけど、外を歩いてたら頭の悪そうな男達に絡まれた。嫌な思い出がフラッシュバックしかけて、それを振り切るように近所の交番に駆け込んだんだ。
我ながら阿呆だと思う。脱走囚が警官に助けを求めるなんて、まるでコメディだ。大分冷静じゃなかった。事情だけ話して何事もなく家に帰ると、部屋でゲームをしてた舞に、笑い話として話した。多分、誰かに話して楽になりたかったんだと思う。それを聞いたあいつは、真面目な顔で「仕事以外で外に出るな」と言った。
そうして私はまた楽になった。言いつけを守れば、なんとなく生きててもいい気がしてくる。誰も私に死ねだなんて言ってないのに。多分、私は誰よりも強く、私にそう思っているんだ。
そんな感じで、借りものの誰かの人生を送るように、騙し騙し暮らしている。金が貯まったら別の場所に居を構えるつもりだったけど、便利さと家賃の安さに惹かれて結局札幌に留まっている。冬は寒いが、舞を抱き枕にするとそれもいくらか和らぐ。
美優は驚いていたけど、というか初めて聞かされたときは私も驚いたけど、舞は介護施設で働いている。人手不足な業界らしいと聞いて、あいつはすぐに面接に行ったようだ。嘔吐物や糞尿の始末をすることもあるそうだが、妙なオプションには慣れっこだと、舞は笑っていた。介護と風俗を一緒にするなよと言って笑ったのは、あいつが初めての夜勤を終えて帰ってきた日だったっけか。
あいつの口の悪さは相変わらずだが、歯に衣着せぬその物言いのファンは多いらしい。度肝を抜かれたのは、私があいつの職場を訪ねた時のことだ。あいつは車椅子を押しながら、「うるせぇババア」と笑っていた。それでも上手くやっているらしい。
最近じゃ帰ってきて資格の勉強をしている。読めない漢字や意味の分からない言葉を聞いてくるけど、私だって勉強ができる訳じゃない。ただあいつよりも平凡な環境で生まれたってだけだ。だから二人で意味を調べることも多い。
そう、あいつは変わっている。いや、変わってなんていないのかもしれない。ただ前に進もうとしているだけだ。動けずにいるのは私だけ。のらりくらりと何かから目を背けて、やり過ごすように日々を重ねているんだ。腐って甘い匂いを発する何かに、思考をジャックされているような気さえしてくる。
脱獄から半年程経った頃、潤達はアメリカに発った。そして今度、帰国するらしい。なんでも翼がデカい仕事でやらかしたらしくて、今度いつ向こうに戻るのかは分からないとか。美優が呆れた調子で言っていた。
あいつらの動向はほとんど美優から聞いている。たまに翼から連絡が来ることもあったけど、私は返信したりしなかったりで、あまり相手にしていない。そして、潤とは一切やりとりをしていない。舞がいい顔をしない気がするというのも理由の一つとして挙げられるが、私が困るんだ。なんとなく。お互いに連絡を取り合わないということは、潤にも何かしら考えがあるんだろう。
だというのに。この間、ケータイのディスプレイに表示された舞という名前を、潤と見間違えて心臓が高鳴った。美優から帰国すると聞かされた直後だったから、もしかしてって思ったんだと思う。そこで私は潤と連絡を取り合わない本当の理由に気付いてしまった気がした。さすがに申し訳なくなって、その日は朝までヤリまくった。舞は理由も聞かずに応じてくれた。理由を聞かれてもすぐに答えられるように言葉を用意していた私にとって、あいつの対応はクるものがあった。
ケータイのディスプレイをつけてカレンダーを表示させる。明日の日付をタップしてみると、10:00-18:00と出ていた。バイト、午前中からだったか。
私は家電量販店で働いている。舞はせっかくなんだからアパレル系で働けばいいのにとか言ってたけど、あいにく接客は得意じゃない。
私がいま働いているところは、とにかく人間関係が希薄だ。こっちで初めて働いたのは居酒屋のチェーンだったけど、あの”アットホーム”とかいうノリが合わなくて半年くらいで辞めることになった。
あのとき初めて職場の飲み会とやらにも参加してみたけど、私を酔わせてどうにかしたいと思っている阿呆のおかげで台無しになった。大人しくしていようと思っていたのに、トイレに連れ込まれそうになった私は、そいつを殴って蹴り飛ばした。尻餅をついて、私を見上げる間抜け面はちょっと笑えたな。それから理由をつけてすぐに帰って、洗面台の鏡を睨み付けながら歯を磨いている舞の後ろから抱きついた。口の中の泡を吐き出して制止する舞の声を無視して、そのままヤった。
私はいつもそうだ。楽な方へと流れることしかない。それを許してくれる誰かや何かの存在を確認するみたいに。
その一件で、酔ったらかなり強引になると舞には思われてるようだけど、そうじゃない。だけど、あの飲み会で何があったのか、舞は知らない。そんなことがあったと知れば、行けと言ったあいつは責任を感じると思ったから。上手く言えないけど、とにかく伝えるべきじゃないと思った。私は、あいつのことが好きだとは思えないけど、少なくともいたずらに傷付けたいわけじゃない。
それに、それからたまに酒を買ってくるようになった舞が今更そんなことを知ったら、キレ散らかすと思う。だからこれは墓場まで持ってく。
相変わらずどうでもいい情報を垂れ流し続けるテレビの雑音を聞きながら、少し前に送られてきたシフト表の画像を開く。それによると、舞は十九時頃に帰ってくるようだ。あと五時間もある。
あいつが帰ってきたら、今日は駅前の新しくできた店に行こう。と言っても、オープンしたのはもう二ヶ月くらい前の話だけど。やっと客足が落ち着いてきたみたいだから、行くならそろそろだと思ってたんだ。
そんなことを考えながら、私はソファの座面に頭を置いて目を閉じた。次に目を開けるときは、舞が私を揺すって起こしてくれればいい。
「あーあ。死にそうだ」
本当に、愛というものが未だに分からない。
このまま、分からないまま死ぬんじゃないかって思ってる。
辛そうな表情を浮かべて、手酷く私を抱く時の舞は、それを知っている顔をしている。
羨ましいと手を伸ばしたくなる反面、それを向けられているのが自分だと思うと、安心と嫉妬で何も考えられなくなる。痛みと快楽がすぐ隣に逃避先として用意されている状況でするないものねだりは、いつでもリセットボタンを押せるゲームみたいで気が楽だ。だから私は舞に抱かれる最中だけ、愛とか情とかそういうものについて考えるようになった。
傍から見れば、私達は愛し合っているように見えるだろう。だけど、実際は傷付け合ってるだけだ。生産性もなにもあったもんじゃない。ただ毎日心を擦り減らしながら、それでも離れられずにいるだけなんだ。
オレ、死ぬ時に、最期に思い出すのは、お前の事がいい。
そうすれば、少しはマシな人間としての最期になるんじゃないかって思ってんだ。
もし潤のことを思い出したって、お前はオレのことを嫌いにならないし、お前が死ぬときはオレのこと考えるんだろうなって。
分かるよ。だからオレは最低で、愛なんて知らないんだ。
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