ACT.88 SIDE-666-

 カーテンを開けて朝の爽やかな陽射しを部屋へ迎え入れると、窓の外に目を向ける。細い道路に面したこの窓は、間借りした空間で唯一窓として機能していた。他は駄目、隣接した建物との隙間がほとんど無いことから、光どころか風さえまともに入ってこないもの。

 部屋を借りる時に間取りを重視したことは失敗だったと思う。住んでみて発覚した欠点は次に生かすしかない。何はともあれ、こうして陽の光に目を細めると、平穏な日常の始まりだ。


 顔を洗って、歯を磨いて、ケトルをセットする。朝の支度を一つ一つ済ませながら、人はどこで生きるかではなく、どう生きるかが大事なんだと痛感する。それまでだって私はそう思ってたけど、都内に来て、他人と暮らすようになって、強くそう再認識した。

 カップで湯気を立てている黒い液体は既に見慣れたものだけど、ファントムに居た頃は、どう足掻いてもありつけないほどの贅沢品だった。それを啜っている自分が少しおかしい。思わず微笑んでしまったことを誤摩化すように、ダイニングから廊下を見てみたけど、人の気配はなかった。

 テレビを点けて、三人掛けのソファの真ん中に腰を落ち着ける。情報番組のコメンテーターの騒がしさを、やけに白々しく感じながら緩慢な時間を過ごす。


 現在、この家には私しか居ない。翼は仕事とやらで三日前から出張で関西に行っている。順調にいけば、そろそろ帰ってくる頃だろう。

 潤に至ってはどこで何をしているのか分かったものじゃないけど、ベロベロに酔っ払って、今にも玄関のドアから雪崩込むように帰宅してきそうな予感があった。


 翼は天職に就いていると自負する通り、仕事についてはかなり真面目に取り組んでいる。というか、本人は仕事をしている意識ではないんだと思う。

 それで私と潤を余裕で養っていけるのだから、そこについては素直に感心する。大半の人間は、多かれ少なかれ、自分を殺して仕事を全うするものだろう。そういった意識なしに大金を稼げる彼女は、その点だけで見れば、かなり恵まれているとも言える。

 潤は私達の子供、というよりも暇つぶしに拾ってきたヒモ、と表現するのが適切なほど、ろくでなしな生活を送っている。そして節度を守ってくれさえすれば、それでいいと思ってる。

 数日寝ずに遊び倒したかと思うと、帰ってきてそのまま玄関で半日寝こけるような、これ以上無いくらいに自堕落な日々。酷い日なんて血で汚れたシャツで帰ってきて、私の血じゃないから大丈夫と笑って宣うこともある。だけど、ドラッグにだけは手を染めていない。だから私は何も言わない。それが私の言う節度。

 あとは面倒事さえ起こさなければどうだっていい。むしろこちらに火の粉が降りかからないなら、どんどんトラブルに巻き込まれればいい。私は潤が、私を頼って自らの人生に幕を下ろす未来を、まだ諦めてはいないのだから。

 潤だってきっとそうだ。いざとなったら私がいる、心のどこかじゃきっとそう思っている。確かめたことはないけど、絶対にそう。だからこんな馬鹿げた生き方ができるのだ。


 用事のない日でも、朝は大体十時くらいまでに起きるようにしてる。予定では、二週間後には私達三人はアメリカに発つそうだけど、それでもこの習慣だけは崩さずに守っていくつもりだ。

 海外に移住すれば、私の引きこもりにはさらに拍車が掛かると思う。英語はほとんど分からないし、そもそも人と関わるつもりがないので、勉強する気も失せた。

 何か用事があれば翼を使うつもりだ。彼女も英語は喋れないらしいけど、生活の障害になるとは微塵も考えていないらしい。能天気とも思えるその思考回路が、少しだけ羨ましい。

 ちなみに、翼を生活の中継役にするということは彼女も了承している。アメリカに行くと告げられた時に、軽く打ち合わせをしているのだ。

 この取り決めは私だけではなく、お互いにとって利益があった。自分が外との中継役になることで、私の他者との接触を防げる。翼はそこにメリットを感じているらしい。あと、気持ち悪いからあんまり考えたくないんだけど、多分、私に何かお願い事をされるのも好きなんだと思う。はぁキモ。


 私が上達していく言葉といえば、母の口調を真似たあの方言だけ。半年以上も続けてきたせいか、すっかり板についたイントネーション。このところは当時感じ続けた違和感も徐々に抜けてきた。


 この生活を始めてから、友達になるのを検討してやるとに告げたあの日、方言を使った自分の判断を改めて正解だと思った。

 だって彼女は気付かない。知らないまま、私のことを親友だ嫁だと呼んでは、体に触れようとしてくる。

 母は確かに西の出身だ。私はきっと他の人よりも、その地方の方言を真似るのが上手いと思う。ただそれだけなのに。


 テーブルの上にあるリモコンを手に取ると、途中だったドラマを再生した。ちなみに、特段面白くはない。熱血刑事が中心となり事件を解決していく、ありきたりなものだ。それでも暇つぶしくらいにはなる。

 事件の手がかりを掴んだ女刑事が、はっとした様子で顔を上げる。ドラマの登場人物であることは分かるけど、よくもまぁ他人の生き死ににそこまで真剣になれるものだと感心する。そういえば、ファントムには色々な女がいたけど、こういう熱血漢はいなかった。


 これはまだ私だけの秘密なんだけど、というか誰にも言うつもりなどないのだけれど、もし翼が私の方言をニセモノだと見抜けたら、その時には本当に友達にでも嫁にでもなってやろうって思ってる。

 どうせ気付かないけど。だって彼女が本当に愛しているのは、無機質で物言わぬ機械達だけなのだから。


 あの時、咄嗟に方言を使ったのは、なんとなくありのままの自分で接することが嫌だったから。それなりに信頼に足ると分かれば、こんな付け焼き刃の言葉、すぐにでもやめるつもりだったのに。翼と生活していると、信頼どころか、彼女の私に対する、いや、人間に対する無関心ばかりを感じ取ってしまう。


 コーヒーがすっかり冷めてしまった頃、玄関の方からガチャガチャと鍵を差し込む音が聞こえてきた。すぐにドアを開ける音が続く。どちらだろうと思うよりも先に、妙に快活な「ただいま」という声がリビングまで響いてくる。

 立ち上がって廊下に出てみると、そこには作業着姿にリュックを背負った翼が立っていた。作業着で帰ってくるのはやめろとあれほど言ったのに、どうやら理解していないらしい。


「おかえり。作業着は着替えてこいって言うとるやろ」

「だって面倒くさいんだもーん。いいじゃん、すぐそこまでミカに送ってもらってるから、知らない人にじろじろ見られたりしてないよ?」

「一緒に歩いてるわけでもなし、ラッキーがじろじろ見られるかなんてどうでもええわ。次その格好で帰ってきたら家に入れんよ」

「えー!」


 翼に背を向けてため息をついてみせる。いま吐いた言葉に偽りはない。翼が外でどう思われようと、どうだっていいのだ。ただ、その格好で帰って来られると、仕事を家に持ち込まれているようで、なんとなく気分が悪い。それだけだ。

 背後に気配を感じて振り向くと、体を抱きしめられてしまった。こんなことになるなら振り返らない方がまだマシだった。

 煙草の臭いがする。いつもの調子で、バカスカ吸いまくったのだろう。出発前に持っていったカートン箱がまだ残っているのか疑問だ。


「苦しいて」

「いいじゃん。潤は?」

「潤なら昨日から戻っとらんで」

「そっか。はぁー、夢みたいだなぁ」

「なんよ、急に」


 幸せを噛み締めるみたいに翼が深呼吸する。私は不服でしかないこの状況を、この女は夢だと言う。人に悪夢を味あわせておいて噛み締める夢とはやらは、さぞかし甘美なのだろう。翼はうっとりとした声色で続けた。


「だって美優と暮らしてるんだよ? それに潤が居ないっていうのも嬉しいね」

「邪魔なん?」

「別に。ほとんど家にいないからどうでもいいよ。ただ、美優って潤が居たら照れ隠しに潤にべたべたするじゃん」

「照れ隠し……ほんまに幸せな頭しとるね」

「えー?」


 断っておくけど、私は潤にベタベタなんてしていない。リビングで過ごすときに一人でいると、翼が鬱陶しいから潤のところに避難しているだけだ。

 私は振り払うように腕の中から抜け出すと、再び翼に背を向ける。そしてリビングへと歩き出した。


「じゃ、私ドラマ観るので忙しいから」

「じゃあ私も一緒に観るー」

「はー……」


 翼はリュックを下ろすと通路に放置した。邪魔くさいから止めろと言っているのだけど、これについてもまだ理解していないらしい。しかし今は怒る気力もない。私はソファに、翼は作業台へと向かう。


 リビングの一角には大きな作業台が設けられていた。壁に沿うように据え付けられた大きなデスクの上ではガラクタがひしめき合っていて、中央だけかろうじて作業ができるようなスペースが空いている。

 そのなけなしのスペースに、翼は作業着のポケットの中身をガチャガチャと置いていく。私は翼を待つことなく、リモコンを操作してドラマを再開させた。何かのケーブル、ペンチにニッパー。ベルトに挿していたドライバー。尻のポケットからまたドライバー。胸のポケットからカッターとビニールテープを取り出してようやく身軽になると、極め付けにベルトに通していたポーチのようなものを外して、デスクの端に転がっていたキーシリンダーを手に取る。

 体をねじ込むようにして私の隣に座ると、ポーチから出した細長いピック道具を取り出して鍵穴に突っ込んで、カチカチパチパチと音を立てている。この間、私達の間に会話はない。うるさいけど、いつものことだから指摘する気も失せている。

 その後も翼は隣で足元に転がっていた何かの基盤をいじくり回したり、それが済んだと思うと、またキーシリンダーをその手に握り、ピッキングに勤しんだ。どう見ても翼はドラマなんて観ていない。おそらく登場人物の名前すら理解していないだろう。

 しかしこの女はこれで一緒に何かしたつもりになっているのだ。私の言葉遣いの真偽になど、気付ける訳がない。


 翼は人を愛せないのだ。いや、愛せないというよりは、ほとんど関心を寄せることができない。だから、逆に言うとあまり他人を嫌うこともないのだろう。ファントムで私達の関係や動きをつぶさに観察していたのは、あくまで脱出という目的があったから。それを、一緒に暮らしていく中で嫌というほど思い知った。

 難儀なものだと、彼女に少し同情しながら、私は隣にあった肩に体重を預けた。


「え、何?」

「なんも」

「ごめん、いまちょっと忙しい」

「……」


 ほんまに腹立つわ、こいつ。なんなん。

 自分が触れたいときは相手の都合なんて御構い無しのくせに、こうして私が気まぐれを起こしてやっても、何かに集中していると驚くほど無碍にする。


 私は阿呆の足の甲を踵で踏みつける。視界の外れでは、馬鹿みたいな声を上げて丸くなる女がいたけど、私の視線はテレビから外れない。

 ソファに座ったまま蹲るその背に肘を付いて台にした。起き上がろうとする気配を感じる度に力を込めて、薄い背に肘を食い込ませる。結局ドラマが終わるまでの三十分間、私達はそうやって過ごした。


 きっと、いつかこの阿呆に身体を許す日が来ると思う。なんとなしにまともになれたような気分になって眠りについて、目覚めて横にある顔を見ても何も感じることができなくて、昨夜のことは錯覚だったと思い知る。そんな日がいつか来る。

 だけど私はまだ幸せだ。私は私が満たされる方法を理解している。一方、翼は何も分かっていない。全部したつもりになって、満たされたと思い込んでいるのだ。こいつは、一体いつになったら、私のことなんてどうだっていい自分に気が付くんだろう。


 どうせ私が告げても信じはしない。手に入れようとするときだけ必死になって、手に入ったらそれっきりのくせに、こいつは最初の情熱を失わずに私を欲し続けていると思い込んでいるのだから救えない。


「ラッキー。喉乾いたわ」

「いい加減名前で呼んでよ」

「嫌や」


 私は翼が出張に行く直前から、本名で呼んでいない。ファントムで付けられた仮初の名前を呼ばれた翼は、眉をハの字に曲げつつ、少し不満げな表情を浮かべていた。


「怒らせたのは分かってるし、いくら集中してたからってアレは酷かったと思うけど!」


 この阿呆は私に話しかけられてウザったそうな表情を浮かべるだけでは飽き足らず、なんと舌打ちをしながら、作業机のランプに引っかけられていたヘッドホンを装着して、挙げ句の果てにため息をついたのである。

 あそこまで邪険されたのは生まれて初めてだった。むしろ感心すらした。私をここまで連れ出しておいてそのような態度を取るのか、と。


 しかし驚くことに、彼女は私に話しかけられたことに気付いていなかった。自分がまともだと言うつもりはないけど、この点においては絶対に私の方が普通だと思う。

 そもそも、こっちだって話しかけたくて話しかけたわけじゃない。リビングのテーブルに起きっぱなしになっていた翼の電話がしつこく鳴っており、ディスプレイに表示されている名前がミカだったので、それを教えようとしただけだ。

 電話の音にも、当然ながら翼は気付いていなかった。確かに、私が話しかければという、ある種の自惚れは心の何処かにあったと思う。それにしてもあれはない。私の怒りを買った翼は、それっきり名を呼ばれていない。


 あの一件で、私達は互いにまともではない変人で、普通の幸せなんて望めないのだと確信してしまった。私も翼も一生変わらなくて、変わらないからこそ関係だって変化することがなくて、要するにお互いが死ぬとか、よほどの事情がない限り、ずっとに一緒にいることになるのだと。そんな遠いのか近いのか分からない未来が見えてしまった気がしたのだ。


「潤、はよ帰って来んかな」

「え? なんで?」

「自分の胸に聞きや」


 ソファに座る翼の膝の上に足を放り出すと、私は眉間に皺を寄せて目を閉じた。


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