ACT.87

 五人の脱走劇から四ヶ月が過ぎた。

 年が明け、冬が過ぎ、過ごしやすい気候になっても、ファントムでは今日も今日とて代わり映えのしない下らない一日が過ぎようとしている。誰かが誰かを買って、誰かを傷付けて、気まぐれにそれを慰める誰かがいる。

 何も変わらない。この先もきっと変わることがないサイクルを、今日も繰り返している。内部の人間と連絡を取り合っておらず、その場から逃げ出した五人には知る由もないことだが。


 脱走に成功した五人の内の二人は、舞台を札幌に移して、従来の生活と似たような日々を送っていた。あの中も娑婆も、結局は変わらない。何もせずに衣食住にありつけていた点だけを見ると、の方が環境として快適だったとすら思えるほどだ。


 クレとエドは脱走した日、バスを乗り継ぎ、ある町に辿り着いた。自分達が下りたバスが最終便であることを知り、都会育ちの二人は静かに仰天する。特にクレは、あれほど書き込みが少ない時刻表を目にした事がなかった。

 不幸中の幸いと言うべきか、集落に毛が生えた程度の町ではあったが、辛うじて民宿は営業していた。そうして英気を養った翌日、二人は遂に札幌行きの特急列車に乗ることに成功したのである。

 札幌を最終目的地としたことに、特に深い意味は無かった。“その他大勢として、平凡に暮らしたい”というクレの願いを受けて、エドがそれなりに人が多く、人間関係が希薄そうな土地を目指した結果でしかない。


 当時の彼女達は、そこから全てが始まる予感を、確かに感じていた。しかし、蓋を開けてみると、それほど素晴らしいものではなかった。いや、職業選択の自由があり、好きな時間に出歩くことができ、法さえ犯さなければ基本的に誰かに咎められることもない。どう考えてファントムよりも自由な世界ではあった。

 だというのに、二人は札幌での生活が、あの監獄の延長線上にあるもののように思えてならなかった。言いようのない閉塞感に見舞われ、心のどこかでは、もっとマシな場所が、ここではないどこかにあるような気がしてしまう。そこに辿りつくことができないのは、場所ではなく、連れ立つ相手のせいなのかもしれない、ということにはお互いに気付いていたが、両者ともその手を離すつもりはなかった。


 とある木曜の深夜、居酒屋というありふれたバイト先から帰ったクレは、リビングの壁に沿って床に荷物を降ろすと、大きく息をついた。上着を脱いでハンガーにかける最中、パタパタと落ち着きなく動く足を視界に収める。そうして彼女は敢えて畏まらないよう、いつもの声色を心掛けて言った。


「オレ、明日飲み会誘われたんだけど」

「……おう。酔って外でオレなんて言うなよ?」

「気を付ける」


 ベッドにうつ伏せに寝転がり、携帯を操作して何やら通販に興じていたらしいエドだが、適当な返事をして一呼吸置くと、体をがばりと起こした。さらりと流してしまったが、とんでもないことを言われた気がする。クレに言われたことを反芻すると、エドの口から言葉が零れた。


「……え、マジで?」

「マジだよ。しつこく誘われてたんだけど、ずっと断ってた。やっぱり断った方がいいか?」

「……そもそも飲めんのかよ」

「大丈夫だよ。昔、何度か無理やり飲まされたから、自分の限界は知ってるつもりだ」


 何度か無理やり飲まされた。それが何を意味するのか、エドは瞬時に理解した。乗り越えたとはいえ、その記憶が忌々しいものであることには変わりないだろう。

 彼女の心中を察すると息が詰まりそうになる。エドは同情しつつも、いや、同情しているからこそ、何事もなかったかのように話を続けることしかできなかった。


「……浮気すんなよ」

「はっ、しねぇよ」

「……すんなよ?」

「信用ねぇな、オレ」


 念を押すエドに、クレは思わず笑った。二人掛けの座椅子に腰を下ろし、膝を立ててテレビを点ける。観たい番組などなかったが、深夜のバラエティは二人の沈黙を上手く誤魔化した。しばらくして、エドは携帯のディスプレイを消すと、表情を崩さずに呟く。


「あたし、自分が思ってたよりもずっと面倒な女だった。てめぇが客に笑顔振りまいてることだって快く思ってねぇ。浮気なんてされた日には、多分マジで殺すぞ」


 クレは囁かれた物騒な愛の言葉を聞くと、立ち上がってベッドへと歩み寄り、うっとりとした表情でエドを抱き締めた。腕の中、エドは去来した全ての感情をため息に変えて、何も言えずにいる。

 これはエドも知っていることだが、結局クレはいまだに彼女が好きなのか、分からないままでいる。エドが過剰に浮気を警戒する気持ちは理解しているつもりだった。


 自分を好いてくれる人間ならば、他の誰かでもいいのかもしれない。

 そんな意地の悪い質問に真っ向から食ってかかれるエドと、そうじゃないクレがいる。クレがエドに拘っているのは、そんな途方も無い我儘をぶつけることが許される大義名分があると思っているからである。


 そのくせ、クレは束縛を嫌がらなかった。仕事以外で誰とも喋るなと言われればそうするし、外で他の人間と会うなと言われればずっと部屋に籠っていられる。

 むしろ、そういった形で行動を制限されることを好んだ。その度にエドの感情が自身に向いていると、喜びすら感じていたのだ。


 他人の気持ちを推し量る手段として、明らかに歪んでいる。クレが元々生まれ持っていたであろう困った性質が、どこぞの嗜虐趣味者のせいで、全く厄介な方向に矯正されてしまったのだ。

 だけど、エドはそれでいいと思っていた。


——ずっとお前を閉じ込めておけるなら、それでいい。

——お前は愛なんて知らなくていい。

——面倒くせぇぞ、本当に面倒なことばっかだ。いいことなんて、一つもありゃしねぇ。


 エドはクレの腕の中で、呆れたように再びため息を一つ吐く。そして呟いた。それは非常に分かりにくい言い回しで、しかし彼女の現在の素直な心境を吐露したものである。


「今までずっと断ってたなら、今回もそうすりゃよかったろうが」

「……分かった、次からそうする。明日も行かない」

「ちげぇよ! 行ってこいよ!」

「え?」


 てっきり咎められていると思ったクレは、呆気に取られた表情でエドの顔を覗き込んだ。

 腕に収まったままのエドはといえば、複雑な気持ちでいた。何故、クレは今回は誘われたという話をしてきたのか。

 前々から束縛を嫌がっていたということは、彼女に限っては有り得ない。キツくすればするほど、クレは喜んで実行したし、少しでも約束を破った日には、自分が仕事から戻るまで、暗い部屋の中でじっと正座して待っていた。


 もしかすると、彼女なりに次に進もうとしているのかもしれない。エドはそう思うのだ。いや、思いたいだけなのかもしれない。だけどその可能性に気付いてしまえば、縋らずにはいられなかった。

 自主性を失った彼女が、気まぐれでも誰かの誘いを受けた事実を告げてきたこと。それを無碍にするのがいいことなのか、悪いことなのか。一般的に言えば後者だが、エドにとっては前者となるはずだった。

 しかし、もし、クレがエドに恋をする日がきたら。目を見て好きだなんて言われたら。そんな可能性を夢見ない訳でもない。


 そうして逡巡した結果、エドは行けと告げたのだ。

 諦めたような表情で、それでいながら何かを期待して。二人の間の停滞している見えない何かを振り払うように。


——別にいい。もし他の奴と浮気するようなことがあるなら、こいつを殺してあたしも死ぬ。


 これ以上ないほどに物騒な打開策を胸に秘めて。


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