ACT.86

 三人は二週間の移動の末、ようやく都内に到着していた。たかだか北海道から本州への移動でこれほど時間が掛かっていたのは、オーリンズとミカの都合によるものだが、詳細はラッキーも聞かされていない。更に言うと訪ねる気もなかった。面倒な手続きやついでの仕事をいくつかこなしているのだろうと適当に解釈していた。

 急ぐ旅でもないし、とのんびり構えていたラッキーと、いよいよ不安になってきたサタンと、どうにでもなれと身を任せていたエラー。その期間を三者三様の思いで過ごしてきたわけだが、数時間前にやっと解放されたのである。機体やホテルの一室で缶詰状態だったこともあり、あらゆる意味で娑婆の空気が三人に染み入った。

 新宿駅、東口。それが彼女達が降り立った場所である。ワゴン車から降りると、人の波に圧倒される。見知らぬアーティストの新曲を爆音で流したトラックがゆっくりと走り去り、目印となる建物の周辺では立ち止まり、誰かを待つ人々がほぼ一様にスマートホンを操作していた。


 長旅に付き合わせた埋め合わせをすると気を利かせたミカが、個室居酒屋に三人を放り込んでから三十分。ラッキーとサタンの下らない押し問答に、エラーは眠りかけていた。


「ねぇいいじゃーん」

「ええわけないやろ、ホンッマにしつこい」

「ねぇ、美優。あのさ、翼が面倒だし、私も正直どうなるか気になるから、観念して飲んでよ」

「嫌や。二人ともやっぱり頭おかしいんやな」


 三人は何の違和感もなく、互いを本名で呼び合っていた。いつまでもファントムにいた頃の呼び名では不便だろうと、ほぼ軟禁状態だった彼女達は、半ば暇つぶしで社会に出る為の準備をしていたのだ。

 アルコールを摂取させようと躍起になるラッキーと、固辞するサタン。そんな光景に飽きたエラーが寝返った頃、ラッキーの煙草が切れた。ソフトパッケージをくしゃりと握り潰すと、彼女は酔いが醒めたように呟く。


「あーあ。私、コンビニで買ってくるから」

「ビルの一階に自販機あったじゃん」

「タスポ持ってないんだもん。潤がもらい煙草し過ぎなんだよ」

「飲むと吸いたくなるんだよ」

「うっざー……なんか適当に買ってくるから、そっち吸って」

「あ、じゃあセッター買ってきて」

「普段吸う銘柄決まってるんじゃん!」


 ラッキーは珍しく眉間に皺を寄せながら、苛立った様子で個室から出てすぐ横の、狭く急な階段を下って行った。足音は店内の喧騒にかき消される。その後ろ姿を見送りながら、サタンは心底うんざりしたように呟いた。


「二人とも喫煙者やったなんて笑えんわ」

「なんで? 別にいいでしょ」


 エラーは軽い調子でそう言うと、煙を吐き出して煙草を揉み消す。しかし、サタンがそんな発言に同調するわけもなく、吐き捨てるように言った。


「嫌や。三人で暮らすようになったら、ベランダと自分らの部屋以外では吸わんでね」

「まぁ私は普段吸わないからいいけど。セッターだって、ハイドさんから貰い煙草してたやつだし」

「はぁー……じゃあ普段からの喫煙者は翼だけ、なんやね」

「んー……はい」


 喫煙者は少ないほうがいい。サタンがそう安堵していると、エラーは店員から受け取ったばかりのジョッキを差し出す。容器の中では黄色い液体が泡を立てていた。

 それが何か分からないわけではないが、自分の前にずいと出される理由に心当たりがない。サタンは怪訝そうな表情を浮かべてエラーを睨み付けた。


「なんよ」

「あいつが来る前に飲んじゃいなよ」

「なん……?」

「悪くない話でしょ。悔しいんだろうなぁ、戻ってきたら美優が飲んでたなんて」

「まぁ、悪ないな、飲むわ」


 ざまぁみろ。狐顔の女の顔を思い浮かべて、エラーとサタンはそう思った。そして豪快にジョッキを煽る姿を見て、エラーはすぐに青ざめた。

 自分の記憶が正しければ、サタンは成人して間も無く刑務所に入っている。頑なに拒む様子から、過去にも飲酒の経験はあり、味が好みでなかったり、何らかの失敗があったりしたのだろうと推察していた。そして、その飲みっぷりから、前者の可能性が消え失せたように思えたのだ。つまり、相当酒癖が悪いのだろうと。焚きつけたことを早々に後悔し始めていた。


 しかし、当の本人はジョッキを半分以上空にすると、店員を呼び付けてグラスを空ける前に、次のアルコールを注文している。あ、これ本当にヤバいヤツだ。エラーが確信した時には遅かった。

 二杯目に口をつける頃には、サタンは完全に出来上がっており、エラーの腕に絡みついて笑っていた。腕に胸を押し当てて、甘ったるい声で女の名前を呼ぶ。そこに、ラッキーが戻り、サタンの正面に腰掛けた。


「はい、セッター」

「うん、ありがと」

「……あのさ」


 異変に気付かない訳がなかった。見たことのない陽気な表情を浮かべてケラケラと笑うサタン。それだけでも証拠としては十分なものであったが、さらにあることがラッキーにとって信じがたい事実を告げていた。


「美優、赤くない?」

「ビール一杯とちょっとでこうなった。弱いくせにとんでもないペースで飲むんだもん」

「はぁ!? 私がいない間に飲ませたの!?」

「え。うん」


 ニヤニヤと笑みを浮かべるエラーであったが、すぐに閉口することとなった。正面に座る女の目が、久方ぶりに見せる鋭さを放っていたのである。


「…………………………エラー、そこ代わって」

「イヤだよ、立つの面倒だし」


 エラーと呼ばれたことに、若干の身震いを覚えつつも、彼女は努めて平静を装う。余程悔しかったらしいと呆れながら。

 二人のやりとりなどどうでもいいとでも言うように、サタンはエラーの顎を掴んで自分へと向かせる。まどろんだ目に嫌な予感がしたエラーはすぐに前を向いたが、サタンは挫けない。


「潤ー」


 そう言ってサタンはエラーの首に抱きつき、頬に軽く口付けた。刺すような眼光のラッキーの手前、顔を綻ばせるわけにもいかず、エラーはサタンの肩を軽く押して体を離そうとする。が、想像していた以上に強い力で抱きつかれており、体は密着したままだ。


「ちょ、ちょっと」

「んー……」


 サタンはくっついて離れようとしない。エラーはサタンをどうにかすることを諦め、摺り寄る頭を指差し、ラッキーを見た。


「これを無理に引き剥がしたいなら、好きにしなよ」

「……………………とりあえず分かった、今回は分かった」

「どういうこと?」

「こんな風になるなら私も二人きりの時に美優にアルコール飲ませるし」

「私が言うのもアレだけど、翼のその発言は大分ヤバいよ」


 二人ともお似合いだよ。そんな言葉を飲み込んで、エラーは苦笑する。

 話題を変えたのはラッキーの方であった。視界にちらちらと写る、エラーに絡みつくサタンを無視しようとしていると思うと、流石に気の毒に思えてくる。


「クレ……あー、悠ちゃん達と連絡取ってる?」

「私は取ってないよ。美優が二人とやり取りしてるみたいだけど」

「そっか。この間、舞ちゃんから連絡あってさ」

「へぇ。いまどこにいるの?」


 ラッキーはポケットから端末を取り出すと、思い出すように言った。


「札幌にいるんだってさ。中心部から少し離れれば1LDKで3万円台、都内じゃ考えられないって。舞ちゃんだってお金ない訳じゃないだろうにね」

「まぁ悠のこともあるし。それにあいつは結構守銭奴でしょ」

「まぁね。体、売るつもりもないみたいだしね」


 会話は完全にエラーとラッキーの二人によって進められていた。サタンはエラーに絡みついてキスの雨を降らすのに忙しいらしい。


「ついでに私に貸しを作る気もないみたい」

「どういうこと?」

「最初の資金、百万くらいあげるって話だったでしょ。あれ、断られちゃった」

「そう、なんだ」

「うん。ま、いいんだけどね。あげたい訳じゃないし」


 オーリンズからの依頼で金には困っていなかったラッキーは、それぞれに生活を立て直す為の資金を渡す用意があった。それだけである。要らないと言われてもなお、強引に二人に恩を売りつけるような真似をするつもりはなかった。

 エラーは二人の顔を思い出しながらぼんやりと呟く。スキンシップ過剰なサタンには慣れたようだ。


「あの二人が一緒に暮らしてるって、ちょっと考えられないな」

「それを言うなら私達三人でしょ」

「美優が潤の顔なんて二度と見たくないって言ったら、即日家から叩き出すよ。分かるでしょ」


 ラッキーの目がまた鋭さを取り戻す。しかし、エラーも彼女の主張については重々理解していた。もしサタンに心変わりがあれば、あっさりとそれは実行されるだろう。そうなれば自分の生活を始めるだけだ。

 ラッキーの話を聞き流しながら、それ以上に気になっていることをエラーは口にした。


「私達、本当に連れ戻されたりしないの」

「ないない、私達が脱獄したあと、その辺は秘密裏に取引されてるよ。囚人に脱獄を許したって事実を露呈しながら私達を追うよりも、元よりいなかったことにした方が都合がいいのは分かるでしょ」

「まぁね」


 エラーはラッキーの返答をとりあえずは信じることにした。そうしてラッキーのライターを拝借して煙草に火を点ける。煙を吐き出すと、サタンの甘い声が響いた。


「潤ー。こっちー」

「んー?」


 サタンに向いてみると、下唇を食まれる。甘噛みなので痛くはないが、横から突き刺さる視線はそれなりに痛かった。


「やっぱそこ代わってくんない?」

「ヤだ」


 そう言うと、エラーはラッキーに見せつけるように、サタンの唇を舐めた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る