ACT.85

 ラッキー率いる一行と別れたエドとクレは、ヘリポートから少し離れた林道の中で、白い息を吐きながら雪を漕ぐように踏み固めていた。着慣れないモッズコートは、解散してすぐに妙な着こなしになってしまっている。寒風吹き荒ぶ中で少しでも暖を取ろうと、顎の真下まで全てのボタンを閉めていたのだ。

 クレには小さすぎて、エドには大きすぎて丈が合わない服だったが、それに文句を言うのはクレだけである。ヘリの中で着替えた際にはさほど気にならなかった、隙間という隙間全てから、刺すような寒さ、いや、痛みがあるらしい。

 元気に文句を言っていたのは初めの数分だった。徐々に生気が失われていった表情と顔色から発せられる声は、既に病人の類いのそれである。


「やべぇ。オレ、死ぬかも」

「あたしも」

「お前はまだいいだろ。オレなんか素肌出てるんだぞ」

「てめぇはもう死んでる、あたしは多分これから死ぬ。これでいいかよ」

「二人でこのまま死ぬって、マジで洒落になんねぇな」

「洒落になるといいな」


 木々の合間をすり抜けるような細い道が続き、エドはさりげなくクレに先頭を歩かせた。風除けにされていると気付いたのは、靴の中に入ってくる雪が全く気にならなくなったと気付いた頃だった。


「てめぇ、オレのこと風除けにしてるだろ」

「おう。寒ぃかんな。あたしに先歩かせて、てめぇが後ろをついてきても、てめぇは寒いままだ。分かるだろ?」

「そうだな。てめぇがあまりにもちんちくりんだから、オレの顔面は寒いままだな」

「あっ」

「あ?」


 クレは強風の中でエドに声を届けるため、わざわざ後ろを向きながら悪態を吐いていたのだ。エドはクレの方を、つまり前だけを見ていれば良かったので、本人よりも早くその危機に気付くことができた。


「ってぇ」

「あーあ」


 クレの後頭部に、それなりに太い木の枝がぶつかる。というよりも、クレが前方不注意で自らぶつかっていく。踏んだり蹴ったりなこの状況で、エドは素直にクレに同情していた。

 しかし、休むわけにはいかない。これから夜になるとさらに冷え込むであろうことは容易に想像がつく。今は目的地である町を目指すのが得策と言えよう。クレがぶつかった木の枝を、屈むことなく通れたエドは、複雑な表情を浮かべて足を動かした。


 二人が歩いているのはミカに教わった林道である。ほとんど獣道のようなそれは、”道”と呼ぶには些か心許無いが、他に縋るものがない。エドはクレの背中についていくことで精一杯である。クレはというと、この風雪の中、僅かとはいえ道が続いていることに希望を見出していた。というより、そうとでも思わないと、今にも泣きそうだった、というのが正解だ。

 ファントムでの生活により、寒さには慣れていると思っていた二人だが、風と雪に晒されないという有り難さを全くと言っていいほど理解していなかったらしい。


 無心で進んでいくと、ようやく道路に出る事に成功した。立派なものではないが、それは車が走る為の道である。この時、漸く二人は娑婆に出てきたのだということを実感した。


「……おい、道路だぞ」

「だな。マジで、出てきたんだな。オレら」


 呆然と立ち尽くして道路を見つめる若い女二人の姿は、奇怪だったかもしれない。しかし、横殴りになりかけている雪の中、誰がそんなことを気に掛けようか。

 二人は気が済むまで道路を見つめ、時折、雪を煙のように巻いて走り去っていく車を見送った。車両が通る度に風と雪煙が舞うが、何故かそれらから受ける寒さには嫌な感じがしない。おそらくは娑婆に出られた実感の一部として、二人の中で処理されているのだろう。

 どちらからともなく移動を開始すると、いつのまにか並んで歩くようになっていた。一本道を歩きながら、今後の方針について打ち合わせる。


「とりあえず、内陸に移動すんぞ。ここは多分、海が近い。林を出て、右に進むか左に進むか迷ったけど、もう賭けみたいなもんだ。海沿いの町なら寂れてるだろうけど、とりあえず休むくらいはできるだろ。内陸の方に移動してるなら、かなり歩くかもしれないけど、もう少しまともな町がある可能性もある」

「おう。よく分かんねぇからてめぇに任せる。っつーか、内陸ってなんだよ」


 クレはエドの一言に軽く絶句しながら、彼女の出自について思い出していた。


「お前、そういえば、学校出てんのか?」

「ビビんだろ、小学校すら卒業してねぇ。それが大分やべぇことだってのも、外に出てから知った」

「……あ、でも字は読めるんだな」

「おう。施設で習った」

「ふぅん……」


 エドは淡々と話すが、クレにとってはかなり壮絶な環境である。家庭環境自体は平凡だったクレからすると、「本当にあるんだな」という類いの話ですらある。

 もちろん、エドから見たクレの転落人生もかなり酷いものだが、始めから最底辺を漂っていたとも言える、エドの過去の方がマシだったと言い切ることは、誰にもできないだろう。


「んだよ」

「オレ、お前のこと何も知らないな」

「そりゃそうだろ。あたしのこと知ってる奴なんていねぇよ。あたしですら、よく分かんねぇし」


 どうだっていい。エドは、まるでクレの発見を下らないことであるかのように吐き捨て、取り合おうとしなかった。視線の遠く先に、町の灯りのようなものが見えるが、離れ過ぎていてどれほどの距離があるのか、見当がつかない。距離を測る為にも、まだまだ歩く必要があった。


 ラッキーから受け取った携帯電話のディスプレイを表示させると、時刻は夕方に差し掛かっていた。このまま、何も進展がないまま、夜を迎えるのだろうか。クレは絶望的な気持ちで空を見上げた。

 鈍色の雲がどこまでも遠く続き、このまま永久に空など見えないのではないだろうか、と思えるほどの厚みを感じる。足の感覚など、とっくに失っている。明け方に起きて脱走、すぐにヘリでの移動と、とにかく慣れないこと続きで身体は疲弊している。

 だというのに、二人の気分は悪くなかった。おそらくは疲労と寝不足でハイになっているのだろう。しかし、ハイだろうがなんだろうが、前に進めればどうだっていいらしい。

 クレは、次に休憩したいと思ったときが引き際だろうと考えていた。それ以上の無理は本当にマズい、と。かと言って、どうにかするあてがあるわけではないのだが。


「なぁ。クレ」

「なんだよ」

「あれ、なんだ? オレンジの。光ってるやつ」


 クレは顔を上げる。エドの言う光は、想像していたよりも近くにあった。間違いない。クレは早歩きで雪を蹴った。その気配に、エドもまさかと後を追う。


「おい……コンビニだぞ……」

「マジだ……なんか、感激すんな」


 二人はコンビニの入口で立ち止まり、ドアが開くのを待った。しばらく待ってから顔を見合わせ、ようやく自動ドアではないことに気付くと、クレが先に吹き出した。

 バカじゃねぇのと言ってエドが笑い出すと、二人はやっとハンドルを掴んで、ドアを押したのだ。


 ケラケラと笑い合いながら入店する様は、どこからどう見ても友達同士であろう。少なくとも、店内で働くパートの中年女性にはそう見えた。

 そうして、一頻り店内をぐるりと一周し、雑誌コーナーに立ち尽くしてみると、エドは胸を詰まらせた。何の変哲もないただのコンビニエンスストアの光景を見て、今度は泣きそうになっているのだ。クレはエドの顔を覗き込み、他にできることが思い付かなかったから、そっとその手を繋いだ。


「マジで。外なんだな」

「……だな」


 エドは息を止めたかと思うと、深く吐き出した。涙を堪えているらしい。泣かれるくらい、クレは一向に構わなかったが、店の中となると話は別である。彼女はさりげなく話を逸らして、小さな危機を回避することにした。


「店員に道を聞こうぜ。何も買わないから、ちょっと気まずいけど」

「んでだよ。買えばいいだろ。っつかその為に入ったんじゃねぇのかよ」

「はぁ? んなこと言ったって」

「金ならある。あたしがあそこでナニやってたか、てめぇだって知らない訳じゃねぇだろ」


 そうして十分後、二人はコンビニ袋をそれぞれ二つ携えて外に出た。その内、一つからは湯気が立っている。つまり二人は道の情報だけではなく、食糧まで手に入れたのである。

 店内で作ったばかりだというカツ丼は、今の二人にとってそれ以上の意味を持っていた。不味い不味いと言いながらファントムで出される食事を摂り続け、次第に味に頓着しなくなっていった彼女達がありつく、娑婆での最初の食事である。特別ではないはずがなかった。

 ゴミを持って歩いていくのは御免だと、二人はそれらを平らげてから再出発することにした。コンビニの敷地内には小振りなベンチが据え付けられており、そこに並んで腰を下ろす。


「こんなとこ、誰が座るんだよって感じだな」

「座ってるオレらが言えたことじゃねーだろ」

「あたしらしか座らないだろ」

「確かに冬の間はこんなだけど、夏は需要あるんじゃねーの。知らねぇけど」

「北海道って、夏は雪降らないのか……?」

「えっ……?」


 二人は間抜けな会話をしながら、袋から容器を取り出した。だだっ広い駐車場には、車は一台も停まっていない。これならば気兼ねすることなく食事できるだろう。吹雪と言っても過言ではない天候の中、わざわざ外で腰を落ち着けて、何かを食べる姿は奇異に映る筈だ。

 エドは箸を割ると、会計をして「それは袋に入れなくていい、いますぐ使う」と言ったものの存在を腹で感じながら呟いた。


「カイロってほとんど使ったことねぇけど、めちゃくちゃ暖かいな」

「だな」


 クレは相づちを打って、箸を口に運ぶ。久々に口にした娑婆の食事は、この世のものとは思えないほどの味だったらしい。泣きそうになるほどの衝動を覚えながらも、彼女の第一声は明るいものではなかった。


「ごめん」


 言わずもがな、金を払わせたことに対してである。美味いものにありつけた喜びは、即座にそれを無償で受けたという罪悪感に変わってしまった。

 当然、エドは気にしていない。特に今の買い物は、やむを得ない出費だと思っている。この様な非常時に、自分の女と称していいのかはまだ不明だが、世界で最もそう呼ぶに近い女の為に使うことができない金など、もはや死ぬまで使わないだろう。持っていても意味がないとすら言える。

 身体を売った報酬を現金に限定していたことがこんなところで効いた。当面の路銀には困らなさそうだ、と、エドはほっと胸を撫で下ろしていたところであった。


「っせぇな、いちいち謝んなよ」

「でも、オレ」


 めんどくせぇ。エドは寸でのところで言葉にすることはなかったが、表情と仕草でその気持ちを全面に出していた。

 せっかくの食事を、重苦しい空気で台無しにされるのは御免だ。そう思ったエドは、クレの気が済むように、適当な交換条件を持ちかけることにする。


「……んじゃ、人前で自分のこと”オレ”って呼ぶの、やめろよ。目立つだろーが。ただでさえ目立つってのに。捕まる為にキャラ作ってんのかよって感じ」

「……まぁ、そうだな」


 オーリンズの話から察するに、その辺の心配は要らないだろうとは思いつつも、クレはエドの要求を素直に受け入れた。

 彼女はこれから、隣にいるチビと人生を歩み直すのである。障壁となりそうな事柄を排除しておくのは正しいと考えた。


 悪天候の中、二人は無言で箸を動かす。箸を持つ手は氷のように冷たくなっていたが、食事を摂り、カイロまで手に入れた今の二人に怖いものはない。一足先に食べ終えたエドは、近くにあったゴミ箱に容器を捨てると、再び店の中へと消えていった。

 戻ってきた彼女は、おいと声をかけて振り向かせると、クレに缶を投げつける。丁度容器を袋に詰め終わったところだったクレは、それを受け取ると声を漏らした。


「ココア……すげぇ。あっつ」

「おう」

「お前の分は?」

「買ったに決まってんだろ」


 エドはそう言って缶をちらりと見せる。黄色いパッケージを見て、コーンポタージュの類いだと思ったクレだったが、深くは追求しなかった。


 二人はホット缶を手のカイロ代わりにしながら、道路沿いの歩道に出た。相変わらずの空模様は、回復する兆しを見せない。いつの間にか風は弱まっているものの、それも気まぐれなものだろう。

 しんしんと雪が降り積もる中で、クレは切り出した。


「ここを出るちょっと前、エラーと話したんだ」

「あ?」

「なんでもない話。どうでもいい、本当なら、知り合った時に済ませるような、他愛も無い話」

「……なんだよそれ」


 意図を掴みかねて警戒するエドは、いたたまれなくなって缶のプルタブを引いた。ちびちびと中身を啜り、その味に何かを思い出しながら、クレが話し始めるのを待つ。


「あいつ、二十五らしい」

「そうかよ」

「お前は?」

「あたしは、多分二十三だ」


 本当に他愛のない話を振られた。そのことに小さく驚きつつも返事をする。口の中で広がる酸味を感じながら、そこから連想される女は一体いくつだったのだろうかと想いを巡らせる。

 考え込んでいるエドに、クレは顔をしかめた。


「多分ってなんだよ」

「あ? あぁ、施設が言ってたことだからな」

「そうか……」


 そうして二人は、前方の雪を踏み固めるように、一歩一歩歩いていく。食事と、僅かながら暖を取れたことで余裕を取り戻したらしく、足取りはコンビニに入る前よりも落ち着いており、心無しかペースもゆったりとしている。

 会話は無い。雪と、雪を巻き上げる風のせいで視界も悪い。どこまで道なりに移動を続ければよいのかと気になり始めたクレは、肘でエドの身体をつつきながら言った。


「どこまで歩くんだよ。いい加減暗くなるぞ」

「知らねぇよ」

「……は?」

「てーりゅーじょってとこまで歩けってよ」

「けーりゅーじょ……?」

「てだよ、て」

「……?」


 クレは聞き慣れない言葉に困惑する。無意識の内に足を止めて下を見ると、白に埋もれる自身のつま先があった。

 瞬間、白と赤のカラーリングの大型車両が自分達の真横を走り抜け、追い越していく。顔を上げると、エドの言ったことの答えが、雪煙をあげて走り去るところであった。


 バスだ。

 エドが言ってたのは停留所だ。


 瞬時に理解したクレは、エドの手を引いて駆け出した。驚いたエドの手から、飲みかけの缶がすっぽ抜ける。しかし、クレは構わず小さな手を引き続けた。


「あぁ!?」

「いいから走れ!」


 走り出した姿に気付いて、同情するように減速したバスが辛うじて二人を拾う。

 乗り方が分からず、何度もクレを振り返るエドであったが、すぐに二人の影は車両の中へと消えていき、バスは走り出す。

 道端に転がるレモネードの缶だけが、その後ろ姿を見送っていた。

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