ACT.75

「あーーー………ボスやめたい」


 女は死ぬつもりだった。その計画が思わぬ形で頓挫し、考えなくてもよかった筈の未来について、目を向ける必要が出てきたのである。

 自分が死んだ後のことなどどうだっていい。セノにはボスを辞めると伝えたものの、周囲にそれを告げる気は無かった。というよりも、ボスを辞めるとわざわざ宣言するメリットなど何もない。ただ生きるか死ぬかの私刑に合うだけである。それならば静かに死んでしまおうというのが、女の目論みだったのだ。


 ならばいっそこのまま続けてはどうか。そう考えなくもなかったが、一度辞めると決めたものを撤回するには、相応の気力が要る。特に、ボスを務めることとなった当初の目的を失っていた女にとって、それを振り絞るのは容易ではなかった。


「やめるって言うのもめんどくさいし、このままだと頼られてめんどくさいし」


 自室で盛大に文句ばかりを口にするエラーであったが、それ以上に強く感じることがあった。一頻り愚痴を吐き出したあと、それは自然と言葉になった。


「……死ななくて、良かったな」


 サタンが自分を殺そうと仕組んでいた。それだけは絶対に許されることではない。彼女の本性を知らないまま死ぬだなんて、とんだピエロである。偶然の発見により、最後の最後まで道化を演じ切ることにならずに済んだ。それはエラーにとって幸運以外の何者でもない。


 ならば知ってしまった今は。今はどうなる。エラーは頭の中のもやに身を委ねて、その先を考えないようにしていた。


 しかし、サタンに条件を言い渡されたときに、手を止めた時点で答えは出ている。絶対に、万に一つもサタンの為に死ぬことなど有り得ないというのなら、怒りに任せて彼女を犯せばよかったのだ。


 エラーは自分というものが信じられずにいた。そうしてぼんやりと思い出すのは、過去の記憶。

 彼女は当時の恋人に裏切られてムショ送りになった。なんらかの取引があり、自分に不利な証言をするように指示されたのだろう。エラーは彼女の証言の変化についてそう考え、それをさほど悲しんだりはしなかった。

 なるほどねと、彼女の決断をただの事実として捉え、自分が辿る運命を粛々と受け入れたのである。そのおかげというべきか、エラーは一切の人間関係を絶ち切って某女子刑務所に入所することとなった。


 転機が訪れたのは、入所から半年が経った頃だった。可もなく不可もなく、張り合いのない毎日が続いていた”ある日”。

 軽い新人いびりは受けたものの、返り討ちにするとすぐに黙るような雑魚ばかりで、エラーは少々退屈していたのだ。色に例えるならば灰色のような日々が、何百日も、何年も続いていくのか。そう考えると気が狂いそうになる時もあった。

 気分というのは不思議なもので、自らの将来を考えた時、絶望したくなる時もあれば、大人しくしておけばいつかは出られると前向きに思える時もあった。この揺らぎについては、エラー本人もあまりよく分かっていない。ただ、気持ちが落ち着いて強く保てる時は、あえて将来のことを考えたりして、前向きな自分に楽観視してもらうことがあった。

 その”ある日”は、エラーの気分が良い日に訪れた。面会が来ている。そう呼び出されガラス越しの対面を果たしたのは、かつての恋人であった。もう二度と会うことはないと思っていた女が、神妙な面持ちでエラーと向き合おうとしてたのである。


「……なん、で」

「会いたかった」

「……売ったんでしょ」

「違う!」

「いや、別にいいよ。私、まともじゃないし」

「違う……違う……」


 決して責めるつもりはなかった。エラーには、売った昔の恋人に会いに来る理由が分からなかっただけである。そうして語られたのは、意外な事実であった。


「私、潤が外にいたらと思うと、怖かった」

「だから別にいいって。怯えられるのは当然だと思うし」

「そうじゃなくて! 私は、多分、もう普通のそれじゃ、満たされないから」


 心当たりが無いわけではなかった。それほどにエラーはパートナーを痛めつけてきたのだ。これ以上は本当に無理、そう言われたボーダーラインを何度も越えて、遂にはそれを破壊してしまった。


「このまま関係を続ければ、本当に取り返しがつかなくなると思ったの。本当にごめん。いまでも、潤のこと、好きだよ」

「……そう」


 繰り返すが、その日のエラーの気分は頗る良かった。まず、今朝は目覚めた瞬間、悪臭がしなかった。おそらく、誰も自家発電することなく入眠したのだろう。元々その臭いを知っているということもあるだろうが、相部屋の女共はやけに臭う者が多かった。

 朝食も心なしか量が多かった気がする。さらに、刑務作業も楽な役割に回されたし、よそ見をしていても刑務官に叱られることなく、作業に戻れた。将来のことを考えてみても鬱屈とした気持ちにならなかった。所内の生活としてはおよそ完璧で、上等な一日だったのだ。

 しかし、勢いづいたその気分を持ってしても、エラーは目の前の女が吐いた愛の言葉を好意的に受け取ることができなかった。憎いとも思わない。ただ、呼吸が止まって痛覚が仕事をしなくなったように、ぴたりとエラーの心の何かが、もしくはどこかが活動を止めたのだ。


 それからまもなく、刑務官が時間切れだと告げ、エラーは女の前から姿を消す。その日の夜。エラーは久々に逮捕された日のことを思い出し、入所して初めて自慰に耽った。


 それからたった半年。その女は死んだ。エラーが知らされたのは、彼女の死後から一ヶ月半が経ってからだった。身に覚えのない面会にとりあえずは応じたエラーであったが、ガラス越しに座る熟年夫婦に見覚えがなくてまた戸惑った。

 二人が何者なのかを訊ねようとしたところで、白髪をまとめた女性が、悲痛な表情で名字を名乗り、そこでエラーは、ようやく二人が彼女の両親であることを知る。

 彼女はオーバードーズで亡くなったらしい。性交渉の痕跡もあったことから、常習犯であった人間が加減を間違え、相手の男にも逃げられたのだろう、というのが警察の見立てだった。エラーの事件のこともあり、警察が事故と断定するのには時間がかかったようだが、彼女の両親が伝えたかったのはそんな恨み言ではない。

 おそらくは娘が生涯で唯一まともに愛した女に、それを伝えたかったのだ。彼女とは、一度面会で会ってそれっきりだ。出てからやり直そうとも、他の人を探せとも言わなかった。もう何の関係もないと吐き捨てることもできず、エラーは正面に座る男女の表情を真似るくらいのことしか出来なかった。

 一体どういうつもりでここに来ているのか。入所後も心変わりしなかった様子を知っており、報告したのか。もしかして、立場は違えど娘を愛した者として、悲しみを共有したかったのか。憶測はいくらでも立つが、エラーはそれどころではない。彼女は、緒方潤は泣いていた。俯き、声を殺せているのが不思議なほど、涙を流していた。


――どうせ死ぬなら。あのとき私が殺したかった。


 頭の中で響く声に嘘偽りはない。


 誤解してはいけないのは、エラーは彼女のことを性欲のはけ口として見ていた訳ではないということ。エラーはエラーなりに、彼女を愛していた。ただエラーが内に飼っている性欲というものが、魔物のような形をしていただけだ。

 自分から離れることで恋人が幸せな人生に舵を取れるなら、それでよかったのかもしれない。気分のいい日には、そう思える日もあった程だ。だというのに、彼女は死んでしまった。幸せになって欲しかったし、どうせ死ぬなら自分の手で殺したかった。ただそれだけである。

 しかし、エラーには分かっていた。彼女が死んだのは自分のせいだということ。ちらりと見せられた彼女は変わり果てていた。写真の中の彼女本人よりも、両親の方がエラーの知る彼女の面影を残していたと言っても過言ではない。自分が彼女の全てを壊したんだと確信すると、眠っていたエラーの恋心が痛んだ気がした。


 それから数日後、エラーは歳の近い受刑者を誘った。欲求不満な受刑者は少なくない。エラーは罪状を隠さないタイプの囚人だったので、好奇心旺盛な女は、彼女の顔も相俟って、その魅力に一度くらいならと身体を許した。

 何度目か、何人目か。本人も分からないある時、相手が泡を吹いて痙攣する騒ぎになった。通りかかった職員によって一命を取り留めたが、エラーはと言えば、その女をトイレに転がしたまま逃走を試みたのである。

 彼女にはもう、自分が何をしていて、しようとしているのか、したいのか、何も分からなくなっていた。裸足で冷たい廊下を走り、出力もちぐはぐなまま乱暴に地面を蹴って、転びそうになる体を支える為に更に脚を前に出す。大した距離は走れなかったというのに、息切れが酷かった。喉の奥から鉄の味が広がり、咳をしてみると飛んだ唾が床を汚す。そうして曲がり角で刑務官に横から抑えられると、エラーは呆気なく床に転がった。

 所内で発見されるという、脱獄というにはあまりにもお粗末なものだったのだが、この出来事がきっかけで、エラーはファントムに送られることとなる。


 そうしてエラーは誓った。もう二度と性欲に身を委ねないこと。誰かを好きにならないこと。後者については簡単にコントロールできるものではないと理解していたが、前者だけは徹底するつもりだった。

 後者については、制御できるものではないと分かっていても、その心配はほぼ無いと思っていた。何せ過去の恋人は、法によって引き裂かれ、会わない内に死なれるという、ある種完璧な離別の先にいる。彼女を超える誰かになど、二度と出会えないだろう。それでいいと当時は思ったし、今でも彼女はそう考えている。


 壱の部屋でエラーは、逃走の末無様に床に転がったときの、背中の痛みを思い出していた。倒れるときに背をぶつけて息が止まったことを、鮮明に記憶している。あの時のことを思い返すと、その惨めったらしい自分を客観視する、もう一人の自分の視線が突き刺さっているようで、余計痛々しく思えた。

 現在のエラーの背中は平穏そのものである。安物とはいえ、ベッドと呼べるものに密着し、彼女の呼吸に合わせてスプリングは音も立てずにその僅かな動きに呼応している。


 ノックの音が響き、エラーが珍しく間の抜けた返事をするとほぼ同時にドアが開いた。そこには赤髪の長身の女が立っていた。入んなよ、と促されると、クレは無遠慮にベッドの縁に腰を下ろす。

 エラーが辛そうにしているのは、ここ最近いつものことだ。その様子を特に気にも留めず、クレは青ざめた顔を見つめた。そうして指先で軽くエラーの前髪を流す。


「お前、大丈夫かよ」

「似てるなぁ」

「あ? 何がだよ」

「昔付き合ってた彼女も、私が風邪で寝込んだとき、同じようにしてくれた」


 突然何の話だと狼狽するものの、一呼吸置いて今しがたの所作のことであると理解すると、クレは気まずそうに窓の外へと視線を逃した。


「珍しいな。お前が昔の話するの」

「だって聞かれないし、話すこともないし」

「おう。でも」

「何?」

「お前が話していいなら、聞いてみたいけどな」

「本気?」


 心底意外そうな声を上げるエラーだったが、クレは真剣だった。こんな訳の分からない関係になっても尚、クレはエラーのことを何も知らない。それに気付くと、今まで無意識の内に気にかけないようにしてきた疑問が泉のように溢れ出す。


「まずお前、いくつなんだよ」

「あー……多分、今年26」

「年上だったのか……」

「あ、そうなの?」

「オレは23だ」

「へぇ、なんか老けてるね」

「ぶっ飛ばすぞ」


 軽口を叩き合う二人だが、表情は穏やかなものだった。性交渉以外にすることがなくなってしまったのは、いつからだろうか。クレは感慨深げにこれまでを振り返る。以前はお互いに踏み込まないように距離を取っていたが、今更そんなものは必要ない。

 互いに、初めて本音で語り合える。そんな気配を感じていた。それに気付くと、このなんでもない時間が、とても尊いものに思えた。


「彼女だったのか?」

「うん。でも、私がムショにいる間に、死んじゃった。私が、あの子を、変えちゃったから」


 何をとは問わない。クレには強い心当たりがあった。自分が死ぬほどのそれを求めずにいられるのは、ただの偶然である。彼女はそれを理解しているからこそ、エラーの恋人だった女の話を他人事とは思えなかった。


「私の罪状、覚えてる? 殺人未遂。殺す気なんて、本当に無かった。ただ、どうせ死ぬなら」

「エラー。言わなくていい」

「……そうだね。でもさ、あの子だってそう思ってる」

「分かってるって。いいから」


 最後まで言わせてはいけない。クレは正体不明の義務感に駆られ、エラーを優しく諌める。そうだ、その女だってきっと、エラーの腕の中で死にたかっただろうよ。心の中で同意すると、最近ようやく分かりかけてきたエラーの性癖について言及する。


「オレさ、最近気づいたんだ」

「なに?」

「お前、セックス以外はわりとまともだよな。自分勝手だけど」

「まともじゃないなんて言ったことないと思うけど」

「誰もお前のこと、まともだなんて思ってねぇよ」


 クレに言われたくない。エラーはふてくされた表情を作って、ゆっくりを体を起こした。一瞬、背中に痛みが走った気がしたが、エラーはそれが気のせいだと知っている。


「ホント、女に生まれて損したと思ってるよ。私が男だったら妊娠するまで犯しまくって、オロせなくなる時期まで監禁してから放り出すのに」


 彼女の口から出たのは、およそまともとは思えない願望である。しかし、クレは黙って耳を傾けた。


「でもね、同時に女に生まれて良かったって思ってるんだ。男だったらここまで相手の快楽のみを追求することってできなかったと思うもん。挿入いれたらさ、やっぱ気持ちよくなっちゃうじゃん。そういう器官が備わってなかったお陰で、こんな楽しいことに気付けたんだって気もするんだよね」

「……お前、あれで快楽とやらを追求してるつもりだったのか?」

「え? うん。まぁ私に加虐癖があるのは認めるけど。気持ち良さそうにしてる子見るのは好きだよ」

「いや、痛ぇよ」

「痛いって気持ちいいでしょ」

「……やっぱお前まともじゃねぇよ」

「セフレがそれ言う?」


 囁くように、それでいてなんでもない世話話をするようにエラーは言った。クレの手首を掴み、口元に寄せると歯を立てる。


「私だって人を好きになってこなかった訳じゃない。でも、結局さぁ愛とかそういうのってそんな大層なモンじゃないんだよ」


 手首の筋がごりごりと、エラーの歯によって弄ばれている。今にも噛みちぎられそうなそこを見つめて、クレは細く息を吐いた。


「そんなの無くたって上手い奴に愛撫されたら濡れちゃうし、それっぽい形のものをツッコまれたら気持ちいいんだよ。だってそういう体の構造なんだもん、それを否定してもしょうがないよ。だからクレは、気持ちよくなる事でエドに罪悪感を感じる必要なんて無いんだよ」


 流されそうになるのをぐっと堪えると、クレはエラーの頭を撫でた。こういうことをしにきたつもりじゃない。そう言う代わりに、ただエラーの髪を手で梳く。


「調子狂うな」

「なんだよ」

「似てるんだって。変なの」

「……すんの、今日はやめようぜ。上手く言えないけど、もったいねぇよ」

「……そうかもね」


 沈黙が生まれて、すぐにどこかから響く怒号に殺されていく。そしてまた生まれる。世界からは隔絶された、異常な日常。しかし、クレの心は穏やかだった。


「なぁ、オレ。お前の初恋の話、聞きたい」

「……は?」

「いいだろ。オレ、そういうのねぇし。お前は何人かと付き合ってんだろ」

「……エドのこと、考える気になったってこと?」

「あいつは関係ねぇよ。ただ、なんだろうな。単純に、お前に興味が湧いただけだ」

「……そう」


 これまでもずっと共同生活をしてきたというのに、何故このタイミングでクレがその気になったのか。過去の関係では、問うことすら許されなかったというのは確かだろう。クレはなんとなく、たった今、自分にはそれを聞く権利があると感じたに過ぎないのだ。


「別に嫌ならいいけど。オレは、そうだな。めちゃくちゃ気になる。どんなに長くてもいいぞ。今日はそういう気分だ」

「クレ、今日は自分勝手っていうか」

「そうか?」

「うん」


 少し責めるような視線を感じたが、クレは引かない。お前の真似だよ、と言って笑うと、エラーもあっそとしか返さなかった。


 

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