ACT.76 SIDE-404-

 自分の正体にはっきりと気付いたのは、いつだったんだろう。普通のそれに不満は無かった。ただ少し、いつも物足りなかっただけ。いや、物足りないだなんてことに、気付いてすらいなかった。


 いま思うと片鱗はあった。中学生の頃から女の子ばかり目で追っていたり、高校生に入ってからは、他校の学生に喧嘩を売られるのが楽しみで堪らなかった。


 品行方正、友達だって少なくない、成績だって悪くない、普通の女子高生だったと思う。そんな私が、血生臭い世界に足を突っ込んだきっかけは些細なことだった。

 なんとなく一人で寄った駅前のゲームセンター。こちらを睨んでいた等というベタないちゃもんをつけられて、財布の中身を要求された。恐怖など無い。あるのは、「本当にそんなこと言う奴いるんだ」という驚きと、嘲る気持ちだけだった。

 睨むどころか、視線を向けてすらいなかったけど、私は向こうの言い分を全面的に肯定した。そうすると、今度はあちらが驚く番だ。そんな隙は与えなかったけど。勝手が分からなかったから、三人の内、一人を徹底的に殴った。

 破けた拳の痛みを我慢して自転車に乗り、帰路に着く。私は私の凶行に驚いていた。いくら向こうが悪いとはいえ、恐らくやり過ぎだ。殴られた女はもちろん、残された二人すら泣いていた。

 そこで気付いた。あの三人組が男だったら、私は喧嘩なんてしなかった。三人の中から何気なくターゲットを選んだつもりだったけど、あの中で一番綺麗な女だった、と。


 一度人を殴れば、あとは簡単だ。噂を聞いた阿呆が挑戦してきたり、喧嘩の代行をしたこともあった。周辺にヤンキー高がある訳でもないのに、よくもまぁこんな頻繁に喧嘩にありつけるものだと感心したのを覚えてる。

 大抵の阿呆は私とやり合うと、二度と吹っかけてこない。それどころか、視線を合わせようとすらしなかった。それは私が強かったからじゃない。負けることもあったけど、楽しかった。二度目が無い理由、それは、私が加減を考えない馬鹿だったからだ。

 だけど、たった一人、何度も私に立ち向かってくる奴がいた。あいりと名乗った女。頭髪は所謂プリンというヤツで、あれは一度染めると二ヶ月は放置していると見た。やんちゃそうな丸い目を爛々と輝かせた、可愛い女だった。身長はエドと同じくらいで、平均よりかなり小さかった。ちなみに、あいりというのが本名なのかは分からないし、名字も知らない。ついでに言うと興味もない。

 彼女は傷が癒えると、私を捕まえ、喧嘩を申し込んできた。喧嘩を終えたとき、私が立っていることの方が多かった。それは数ヶ月も経つ頃には一つのルーチンとなっていて、ある日街中で彼女を見かけて気まぐれを起こした私は、こちらから声をかける。

 僅差で私が勝つ。そう確信した瞬間だった。最後の力をふり絞ったのか、彼女がこちらに向かって駆け出したのだ。突然の動きに反応が遅れ、足がもつれて盛大に転んだ。古いビル、元は事務所か何かだったのだろう。空きテナントになっていたそこは、何もない寂しい空間だった。

 不可抗力とはいえ、私は気付けばあいりに覆い被さっていた。互いの息遣いが、広いだけの埃っぽい室内に響く。なんでそうしようと思ったのか、全く分からない。いま考えても不思議で堪らない。

 例えば、その日、晴れではなく曇りだったら、喧嘩を始めた場所が土手だったら、時刻が夕方ではなく夜だったら。何か一つ、ちょっとした要素が違っただけで、あの日あんなことはしなかったはずだ。それくらいに、見えない偶然が重なった結果としか思えない。だけど、それがたまたまあの日だったってだけで、いつか必ず迎える日だったとも思う。

 私は彼女の顎から、唇へ向かって舌を這わせた。突然だったせいか、あいりはされるがままだ。口の中に彼女の血液が広がると、脳が灼けて、体の内側から、私という人間が崩壊していくような何かを感じた。

 その正体を探るように、改めて彼女の唇を奪おうとしたが、それは叶わなかった。


「誰かいるのか!」

「やっば! 緒方! あんたそっちね!」


 懐中電灯を片手に、警備員が声を張る。私達は二手に分かれて駆け出した。自分の仕出かした事を考えないようにしていたせいか、私は気付けば自宅の玄関の前で、鍵を持って立っていた。



 翌日、帰ろうと校舎を出ると、そこにはあいりが居た。正直、怖かった。彼女がなにを考えているのか、全く理解できないから。私自身、気持ちの悪いことをしてしまったと思っていた。された側のあいりは多分もっと、おぞましい思いをしただろうと考えていた。


「何しに来たの?」

「分からないんだよ」

「は?」

「でも、今日緒方に会いに来ないと、逃げることになる気がした」


 あいりはムスっとした様子でそう言った。逃げることになる気がした? 当たり前だ、だってあいりは逃げるべきなんだから。想像していた以上に彼女が馬鹿だということを知り、私は目を丸くする。


「あ、でも喧嘩は無しな。あたしも緒方も、怪我治ってないだろ」

「……うん。うち来る?」

「いいのか?」


 沈黙に耐え切れなくなった私は、安易に口を開き、そして後悔した。両親は仕事で遅くまで帰ってこない。場所は勝手知ったる自分の部屋。シチュエーション的に昨日よりも辛い。あいりは私の不安を感じ取ったかのように、明るく振る舞った。


 部屋に着いて、テーブルを挟んで向かい合う。女性らしい所作は苦手だったので、両者共にあぐらをかいていたけど、その表情は対称的だった。

 制御しきれない何かが爆発することに怯える私と、それを知った上で対峙しているあいり。考えてみれば、人に主導権を握られていると感じることはあまり無いけど、あの時はあいりが導いてくれなければ、また違った未来になっていたと思う。


「あのさ、気にしてない訳じゃないんだよ。昨日の」

「……だったら」

「嫌じゃなかったんだよ」

「はっ……?」


 あいりの言葉はなかなか私に浸透しなかった。脳が意味を理解することを拒んで弾いているような感覚で、どうしても私には、彼女の言う事が分からなかった。


「嫌じゃなかったんだって。あ、でも、そういう意味で緒方に喧嘩吹っ掛けてた訳じゃないからな」

「そう……。私だって、別に」

「……んじゃ、昨日のことは忘れるか!」


 そう言ってあいりは立ち上がる。その勢いに驚いたけど、私が何か言葉を発する前に、彼女はベッドへと倒れ込んだ。天井を仰ぎながら、彼女は「あたし、お前の匂い好きかも」なんて言って笑う。居ても立ってもいられなくなって、気付けば彼女の隣に腰を下ろしていた。


 どんな顔をしていただろう。切羽詰まったような、それでいて切なげで、多分それまでの人生で一度もしたことの無い顔をしたと思う。そんな新しい顔で、私はやっぱり忘れてほしくない、と言って、前日しようとしたことをした。

 突き飛ばされても仕方がないと思っていたのに、あいりは黙って私の頭を引き寄せた。昨日みたいに、邪魔は入ってくれない。この衝動の正体を理解しつつも、やっぱりまだ怖かった。嫌になったら、教えて。彼女の耳元でそう囁く。

 結局、最後まであいりは私の事を拒絶しなかった。



 やり方を知らなくても大丈夫なんだ。この確信は私にとって衝撃だった。男女のそれだけではなく、女同士の営みも、したいこととされたいことを組み合わせれば、それっぽくなるだなんて。

 もしかしたら自分はおかしいのかもしれないと思っていた。興味の対象が同性であることも、支配欲のようなものが異常に強いことも。だけど、人という生き物は上手く噛み合うように出来ているらしいということに、若干の安堵を覚えた。


 それから私達は、いや、私は時間を見つけてはあいりの体を貪った。あれほど誰かに触れたがったり、声を聞きたいと思うことは初めての経験だった。私は当然、この感情を、いや、欲求を恋と分類していた。

 でも、それだけで終わらせてはいけない何かが、私か、もしくは私達の間に存在していることにも気付き始めていた。


 ある日、いつも通りセックスを終え、あいりが赤マルに火を点けながら言った。


「私達、なんでこうなっちゃったんだろうね」


 その一言ではっきりと分かった。あいりは後悔している。それがここ最近の私達のことなのか、それとも、初めてシたあの日の事を指しているのか、私には分からない。ただ一つ言えることは、勝手な思い上がりで彼女を振り回した不甲斐なさで頭がいっぱいだったということ。


「最近さ、エッチしてばっかじゃん」

「……うん」

「前の方が、楽しかった」

「……そっか」


 呼吸すらままならなかったけど、それをなんとか隠しながら、私はいつも通りの自分を演じた。煙草の煙が目にしみる。そういうことにして軽く目をこすった。


「前みたいに戻ろうか」


 できるかどうか分からないけど。大切な部分を心の中に留めて、私は彼女に切り出した。考えてみればこの数カ月間、自分のしたいことばかりを押し付けていた。あいりにしてみれば、セックスフレンドなのか恋人なのかすら、よく分からない状態が続いていたようなものだ。そのことにやっと気付いた。


 恋ってなんだ。一瞬にして分からなくなった。あいりが好きだったのか、彼女の体に欲情していただけなのか、まるで分からない。

 戻れるの? というあいりの呟きは、深く私の心に刺さった。私があいりに求めているのが全てでも、体だけだとしても、彼女を欲していることには変わりないのだから。


「戻るしかないでしょ」


 彼女は信じられないものを見るような目でこちらを見つめ、次の瞬間には顔面に拳が飛んできた。鼻を強打した私は床に転がり、すぐに身体を起こすとあいりを見た。血が出ているようだけど、気にしている暇なんてない。誰に教わった訳でもない、それは高校に入ってから培われてきた、喧嘩のセオリーのようなものだった。

 だけど、あんなに悲しそうにしている相手を、私は見た事がない。あいりは泣いていた。母親を見失った子供のように、泣きじゃくっていた。


「潤の、そういうところが嫌い」


 彼女の涙の意味も、このタイミングで嫌いと告げられる意味も、全てが理解できない。ただ一つ分かるのは、あいりは次の手を繰り出してくるということ。想像通り、彼女は脚を上げた。前に突き出すような蹴りを抑え込んで、私は笑う。


――前から思ってたんだけど、その蹴り方。ヤンキー丸出しだから止めなよ

――咄嗟に出ちゃうんだよ


 こんな時に思い出すような事じゃないと思いつつも、それは止まらない。そしてやっと思い至る。最近、全然喧嘩してなかったな、と。

 

 私はあいりの脚を抱えたまま前に倒れ、彼女をベッドに押し倒した。想定外の負荷がかかり、マットレスが音を立てて軋む。体勢を立て直して彼女に股がり、両手を空いた状態にすると、利き手の拳を何度も振り降ろした。興奮して痛みなど殆ど感じなかったんだと思う。完全にノーガードだった私に、あいりは同じだけやり返した。彼女の拳はなかなか届かなかったけど、腕に噛み付いたり、顔を引っ掻いたり。できる限りの抵抗をされた。

 ここから先、どうなったのかはあまり覚えてない。喧嘩をしていた筈なのに、途中からセックスに切り替わっていた、ということしか分からない。あの流れで私が殴り返す理由は無かった、ということだけはまぁわかる。


 そして、あの時初めて、私はあいりに拒絶された。初めてしたときには、「嫌だったら教えて」なんて言ってたくせに、その日の私は彼女の静止を何度も無視した。傷つけ合った者を犯すのが楽しいのか、単純に傷付ける行為が楽しいのか、他に何かがあるのか、この時は自分のそれにまだ気付いていたなかった。

 ただ、終わったあとの、あいりの責めるような視線に、何の言い訳も用意できなかった。



 あいりを帰して一人考える。本当に最悪だと思った。彼女から見た私は逆上したクソ女で、そいつが勢い余ってレイプまでしたんだから。私が男じゃなかったことが不幸中の幸いか。いや、こんな考え方すら、失礼に当たるのかもしれない。

 私にはもう、普通というものが分からなくなってしまった。これまで、周囲との違いはあるものの、まだ大丈夫だと思っていた。何がまだ大丈夫なのかよく分からないけど、要は普通に社会生活を営み、それに満足感を覚える事のできる人間だと思っていたということ。なのに。

 それが、今日のことで一変した。今までのそれがお遊びだったと断言できる程の経験だった。


 人は極限まで興奮すると、耳が遠くなるらしい。あいりの泣き声も、後半はほとんど聞こえなかった。これは彼女が喘いでたせいもあると思うけど。だとしても、喘ぎ声すら覚えていない。頭にフィルターがかかったように、思考も聴力も、感情すらも鈍感になっていく。

 頭にあるのは断片的な視界の記憶だけ。私の身体を押し返したりしながらも片手で顔を覆って、せめて泣き顔を見られまいとする彼女だとか、真っ赤に染まった指だとか、そういうの。そのくせ視界の端にあった、脱ぎ捨てられた服の形は覚えてたり。

 今までだって散々してきたというのに、私はこの日、初めてセックスをしたような気がした。


 翌日、帰り道。まさかと思ったけど、校舎の前にはあいりの姿があった。逃げてる気がするからと、いつかと同じ事をまた言うのだろうか。私はどうすればいいのだろうか。

 彼女との距離が徐々に縮まる。授業が終わってすぐに下校しているので、周囲の人通りは多い。往来する生徒の中には、あいりを見慣れた景色の一部として認識している者も大勢いるだろう。


「……あい」


 り。名前を呼ぼうとしたけど、それは彼女の唇によって遮られた。予想外の展開に身動きが取れない。結局私は彼女が口を離すまで、微動だにしなかった。


 私達を置き去りにして次々と帰路に着く群れは、黄色い声やうめき声をあげて、立ち止まったり校門をくぐったりしている。そのせいか、私だけが時間を止められたような感覚に陥った。


「なん、で……」

「分かんないけど……もう二度と潤に会えないのは嫌だと思って」

「でも、昨日」

「私だって、意味分かんなかったっていうか……始めは嫌だったけど、その……それ、ここで話す必要ある?」

「それもそうだね」


 あいりはしばらく私を見つめていたけど、こちらはそれどころではない。明日学校に行くと面白可笑しく囃し立てられるのだろうかとか、問題から目を背けて一つ先の懸念事項について考えを巡らせていた。

 しばらくすると、痺れを切らしたあいりが私の服の袖を引っ張り、「うちくる?」って聞いてくれないのかよ、と言って口を尖らせた。私達は好奇の目を向けられていることも忘れて、家路についた。


 私の家に着くまでに話したこと。

 本当の本当に悲しかったこと。殴り返された事については存外気にしていないということ。いきなりキスをされて動揺したこと。耳に噛み付かれて、下手に抵抗したら軟骨ごと持っていかれると思ったこと。最初は私の体を押してたのに、途中から諦めてされるがままになっていたこと。最後には自ら腰を振っていたこと。

 彼女にそうさせた私が言うのもなんだけど、あいりもあいりだと思った。昨日のことを思い出すだけで、背筋に冷たいものが走り、同時に首筋が熱くなるような、妙な感覚に見舞われる。その感覚の中、身震いしながら私は確信した。

 私達は別れなきゃいけないと。正式に付き合ってもいないのに、こんなことを決心するのはおかしいんだけど。そんな順序や一般論は二の次だった。とにかく離れなきゃいけないって、強く思った。


 部屋に着くと、すぐに切り出した。

 昨日はごめん。私はずっとあいりと付き合ってるつもりだったし、それなりに好きなつもりでもあった。だけど、さっきのあいりの話を聞いて確信した、私達は別れないと大変なことになる。

 どんな言い方をしたのは覚えてないけど、そんな話をした。彼女は私の話を聞いたあと、俯いてこう言ったのだ。


「分かった。でも、最後にもう一回したい」


 これは悪魔の囁きだ。一度でも応えてしまえば、そこからずるずると抜け出せなくなる。あいりの首には痣があった。聞くと私が昨日首を絞めた跡らしい。そんなことしたっけ、そう思いつつも、そっかと答えた。

 私達が関係を続けると、きっとこんなことが増えていく。その先には破滅しか見えない。私はともかく、あいりはまだ抜け出せる気がした。


「悪いけど、飽きた。帰ってよ」


 もっと他に言い方が無かったのかって思う。あまりにも酷い。他人がこんなことを恋人に言っていたら、私は顔を顰めるだろう。だけど、これで良かったと、私は今にも言い訳を零しそうな口を、自らを強引に納得させることでなんとか噤んだ。

 何かを察したらしいあいりは、不自然なくらい聞き分けが良かった。言葉を詰まらせて私に背を向けたとき、死ぬほど後悔した。だけど、それが彼女にこんな言葉を吐いてしまった事になのか、こんな言葉を吐かざるを得ないような性癖を持って生まれた事になのか、分からなかった。っていうか、今でも分からない。


 ”付き合ってるつもりだった”という女に、世間一般的に恋人らしいことをしてあげられたのは、もしかするとあれが最初で最後だったかもしれない。そうして私はあいりと縁を切った。どこかで待ち伏せされるという恐怖は、不思議となかった。あいりはバカだけど愚かじゃない。私が何を言いたいのか、きっとわかったんだと思う。


 でも、今はそんな決断を心の底から後悔している。

 バカで愚かなのは、どう考えても私なんだよ。

 本当はめちゃくちゃにしてやりたかった。

 そうするのが正解で、他の全ての選択は間違いだったっていうのに。

 ”最後にもう一回だけ”なんて言葉、泣いて撤回させたかった。

 当時の自分のバカさ加減には本当に反吐が出る。



 総括すると

 これは多分、私が唯一、私から女を救ったっていう、私の愚痴。


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