ACT.77

 ファントムB棟のとある一室、薄暗く狭い部屋の中には、数台のモニターとパソコンが鎮座している。モニターに映し出されているのは、食堂や階段、医務室前の廊下などの、所内の様子である。

 出入口から見て右側の壁には、如何にも頑丈そうなキャビネットが並んでいた。天井近くまである背の高いそれは、引き出し一つ一つに鍵がかかっている。

 膨大な量の何かがそこに仕舞われていることは一目見て推測できるが、ここ最近使われた形跡はない。管理の都合上詰め込まれ、捨てる訳にもいかず、そのまま安置されていると見るのが妥当なところだろう。


 管理室兼制御室。そこには、ここで暮らす者の日々の動向を追う監視カメラのモニターが置かれており、近くにあるパソコンは、主に有事の際に映像を引き出す装置として使用されるものである。

 キャビネット内の書類には、囚人達がここに収容されるに至る経歴が記されており、言うまでもなく極めて重要な資料である。日常的に使用される部屋でないにしても、それら重要資料がまとめられている空間としては、あまりに粗末で、少々心もとない広さの部屋であった。

 ちなみに、保管されている書類についてはデータベース化されているものがほとんどである。据え置かれているパソコンを少し操作すれば情報を引き出すことが可能なので、キャビネットの資料はさらに使用頻度が低い。鍵さえかけておけば、とりあえずは安全である。理屈は分からなくもないが、もう少し気を遣うべきというのは、この場所に忍び込んだ女、ラッキーの所見である。


 彼女はこの場所に、既に何度か侵入している。といっても、忍び込む難易度は初回よりも大分下がっていた。

 細工が施された一部のモニターは、毎週木曜の午後三時半から十五分間だけ、本来の映像とは違う、当たり障りのない人の往来が映し出されるようになっている。一部というのは、B-4棟から制御室入り口までのルートに関わっているモニターである。つまり、立ち去る際に入退室の痕跡を消す必要があったのは初回だけで、あとはその十五分間で出入りすればいいのだ。

 彼女は看守の動きを観察し続け、見回りのルートやタイミングを凡そ把握していた。当然、問題ばかりのファントムでは例外は少なくないが、それらを視野に入れた上で、木曜の午後三時半という時間を選んだのである。

 余談ではあるが、当時ファントムに入所してまだ日が浅かったラッキーは、これを自身で”やっつけ仕事”と称したのだが、この施設の内情を知り、すぐに”やりすぎた”と認識を改めることになる。


 彼女は久々に忍び込んだ部屋のドアをゆっくりと閉めると、大きく息を吸った。埃っぽくて少しカビ臭くて、そこに機械の独特の匂いが交じっている。ゆっくりと息を吐き出しながら、ジィという監視カメラのレコーダーやパソコンの微かな動作音に耳を傾ける。

 その騒がしい静寂が、ラッキーは好きだった。できることなら一晩をここで過ごしたい程であったが、生憎時間が無い。モニターの細工が切れる前に、用事を済ませてここを去らなければならないのだ。時間という無粋な概念が、彼女に舌打ちをさせた。


 様々な状況を整理し、やるべきこととそのスケジュールを逆算する。まずはモニターを見やり、自身が差し替えた映像が流れているのを確認する。ここは捨て置かれた空間だ。もしかすると前回侵入した時から、誰もこの部屋を訪れていないのかもしれない。彼女はそんなことを考えた。

 次にパソコンを操作すると、あるアドレス宛にメールを送った。パソコンからメール送信できることは、前回忍び込んだ時に確認済みである。

 そのアドレスは数字とアルファベットが交互に入り交じる、一見すると意味のない羅列にしか見えない。しかし、彼女は淀みなくその出鱈目としか思えないアドレスを宛先欄に打ち込んだ。本文にタイプされたのは”1”という数字、一文字だけである。


 これで彼女の今日の仕事の半分は成功だ。もう半分とは、誰にも見つからず、痕跡も残さずにB-4区画まで戻ることを指す。身の安全のみを考えれば、モニターで刑務官の位置を確認しつつ、すぐにでもその場を離れるべきなのだ。

 逆に言うと、看守達の動きを把握できるこのミッションについて、ラッキーはさして難しいとは思っていない。だからこそ、このような馬鹿げた真似ができると言っても過言ではない。

 ラッキーは両腕を広げ、その狭い空間にギリギリ収まるように大の字になって寝転がっていた。デスクやキャビネットが邪魔して、綺麗な”大”とはいかなかったが、とにかく侵入先でする必要のある体勢でないことだけは確かだ。


 それでも彼女は、これこそが真の目的と言わんばかりに、硬い床に後頭部をごりごりと押し付けたまま、カビ臭い空気を胸いっぱいに吸い込んだ。そしてゆっくり吐き出す。

 静かな部屋、機械の動作音にラッキーの呼吸が混じる。自分が溶けていくような感覚に見舞われながら、彼女は初めてこの場所に忍び込んだ時のことを思い出していた。


 あの日、ラッキーは看守の目を盗んで潜入すると、すぐに監視カメラのモニターに細工を施した。厳密に言うと、映像を制御・出力している古い型のパソコンに手を加えたのだが。たまたま目をつけたその筐体の中には、囚人達のデータまで詰まっていた。

 本来それが狙いだったラッキーだが、ひとまずは出入りのしやすさを優先しようと、初回の侵入でデータに触れるつもりはなかった。さらに、部屋に入ってまず視界に入ったのが、背の高い資料の山である。何度も足を運び、キャビネットの中身を確認していく予定だった彼女にとって、僥倖と呼ぶ他なかったといえる。

 同時に、ラッキーと呼ばれる自身がラッキーと呟きそうになる状況に気付き、笑う程の余裕を見せていた。


 データベース化されている囚人番号は六百番台まで。杜撰な管理にため息が出たが、これでほとんどの囚人の犯罪履歴を確認することができるのだ。

 ラッキーはサタンの罪状を知ることになった経緯について”教えてもらった”と言ったが、それを教えたのは人ではなくデータベースだった、ということになる。彼女がサタンの来歴を読んだのは、偶然のようなものだった。

 同じB-4区画に、正体不明の女がいることを思い出し、好奇心が働いたのである。その女が自身と同じくゾロ目の囚人番号だったことも関係するだろう。彼女にとって、これほど覚えやすい数字はなかった。

 検索画面で“666”と打ち込んでエンターキーを叩く。初めに飛び込んできたのはサタンの本名。罪状は自殺教唆と死体損壊。予想していたよりも、はるかにヘビィなそれら。この二つがどう重なるのかと、詳細までスクロールしてみる。他人の過去を勝手に覗き見ることに、ラッキーは毛ほども迷いを感じていなかった。


「同性愛者だっていうのは知ってたけど、こんな変態だったなんてね」


 彼女は歌うようにそう言った。

 ヤバい、どうかしてる、時折そんな言葉を吐きつつ、目は文字を追っていく。好奇心に読むスピードが追いつかず、もどかしさすら感じる。

 サタンのしたこと、現場や遺体の状態、裁判での証言など、調書を最後まで読み終えた頃、ラッキーは打ちのめされていた。


 まさか、これほど頭のおかしい女がいたとは。それは、”そんな人物がこの施設内にいたとは”、という意味ではない。このような思想を持った人間が、この世に存在していることに驚いていたのだ。

 自身も大概変わり者だと思っていたラッキーだが、この調書の前では自分の存在が霞むように感じた。

 特に、生者に興味が湧かないという徹底ぶりが最高だと思った。サタンの過去を知ったラッキーは、上等な小説を一編読み終わった後のような、強烈な充足感に胸を満たされていた。

 そして、確信した。


 ——友達になるなら、この子しかいない。


 すぐにラッキーは手土産の準備をした。分厚く埃かぶった、動くかどうかも分からないプリンターの起動ボタンを押すと、ランプが光ったことに安堵する。サタンが携帯で撮影したらしい写真をプリントアウトすると、それを丁寧にポケットにしまった。

 そうして時間を迎える。そろそろカメラが本来の映像を映し始める。ラッキーは自身が居たという痕跡を全て消して、何食わぬ顔で部屋を後にした。


 そして現在。彼女は体を横たえたまま、手のひらを天井に翳し、己の親指を見た。友達になりたいのなら爪を剥げ、と言われた時のことを思い出す。

 親指には薄皮のように皮膚が被っていた。指で押すと、爪とは思えないほどの弾力がある。はっきり言って、できそこないである。さらに、異様にガタガタとしていている。この爪が元に戻る日が来るとは思えないほどの有様であった。しかし、ネイルの見栄えが悪くなりそうなそれを見ても、彼女はさして後悔はしていなかった。


「よっし」


 起き上がり、先ほど操作したパソコンをチェックする。メールは返ってきていない。無事に送り主に届いたようである。それを確認すると、ラッキーは口元を吊り上げた。

 これから始まるのだ、彼女の脱走劇が。言い方を変えれば、ここでの生活が終わる。彼女はそう確信してメールを送った痕跡を消すと、あの日と同じように平然と部屋を出て、囚人の群れへと混ざっていった。

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