ACT.73
B-4区画、”伍”の部屋。ここがラッキーの部屋になってから、サタン以外の囚人が足を踏み入れたことはない。彼女がこの部屋を訪れたのは、ラッキーが手を引いて半ば強引に部屋に招いたからである。その後、大事な資料を渡したいと告げられ、ぐるりと所内を一周して戻ってきたサタンが、ラッキーの頬を平手で打ち抜いたのはつい先日のことだ。
要するに、ラッキー以外の誰かが、自発的にこの部屋を訪れたことは今までなかった。彼女は自室の床に寝転んで、冷たい床の感触を楽しんでいるところである。どうせ誰も来ない。一種の解放感が、彼女を奇行に走らせていた。
そんなラッキーの予想を裏切って、呆気なくドアが開く。扉の近くで足音が聞こえてはいたが、まさか自室の扉が開くとは考えていなかったラッキーは、間抜けな声をあげて出入り口に目を向ける。
「ほえ?」
「……何しとるん、自分」
サタンは目の前に広がる光景を理解するので手一杯であった。おそらくは自分よりも年上の女が、いくら頭がおかしいようであると分かっていたとはいえ、凍えるような寒さの所内の床に伏していたのは、完全に予想の斜め上をいく光景だったのである。
サタンは呆れながらドアを閉めると、ラッキーを跨いでベッドへと腰を下ろす。いそいそと居住まいを正す部屋の主には目もくれず、部屋の中を見渡してみると、先日訪れた際に感じた違和感の正体にようやく気付く。
この部屋には何もないのだ。長くここで暮らしていると、同じ間取りである独居房にも囚人の個性が反映されていく。壁には写真を張り付ける者や、どこからか調達したポスターを掲げる者も多い。
棚にはタオル等の生活用品を置く者がほとんどだ。ムサシは借りてきた本を置き、ハイドに至っては灰皿を置いている。しかし、サタンの視線の先にある棚には、何も置かれていない。
布団一つとっても、寝起きしたままの形で放置している者や、綺麗にシーツを覆うように整えている者がいる。ちなみにエドは前者で、サタンとクレは後者である。エラーはその中間で、エドほど乱れてはいない。おそらくここにいる囚人のほとんどがその三者のどれかに当てはまるだろう。
しかし、ラッキーの布団は違った。足元に当たるところに、畳んで置いてあるのだ。おそらく寝るときにはそれを広げ、朝になると元あったように戻しているのだろう。それを見て、サタンは久方ぶりにファントムにやってきたときのことを思い出した。部屋を案内されたとき、確か布団はこのように配置されていたということを思い出したのだ。
つまり、この部屋にはまるで生活感というものがないのである。人の気配というものが、毛ほども感じられない。匂いですら無人のようだ。
それらは確かにラッキーの異常性を指し示している。サタンはゆっくりと立ち上がる女をまじまじと見ながら、やはりどこかおかしいという感想を抱く。
ラッキーは畏怖するような視線の意味が理解できずに首を傾げているが、その仕草までもがなにやら妙なものであるかのように感じた。
「ほんまに変人やね」
「私の部屋で何をしてようが、私の自由でしょ」
「限度があるやん、隣に座らんといて。纏ってる空気が冷たいわ」
「またまたー」
そう言ってラッキーは、拒むサタンの声を無視して抱き締めた。ラッキーが横たわっていた場所を考えると当然だが、それにしても冷たい。体温がまるで感じられない抱擁に、サタンは嫌悪を隠さなかった。
「寒いって、言っとるやん」
「ぐぇ」
「はぁー……やっぱやめようかな」
ラッキーにのど輪を極めつつ、サタンはこの部屋を訪れたことを後悔していた。彼女はある重大な決意を胸に、この殺風景な部屋を訪れたのである。
「え? なに? よくわかんないけど、やめないでよ」
「……この部屋、なんで何もないん」
「何も要らないでしょ。寝起きするだけなんだし」
「でも」
「ここは私の部屋じゃないもん」
「何、言うとるん……?」
ここはラッキーの部屋である。それは紛れもない事実だ。囚人達はおろか、セノを始めとする刑務官達ですらそのように取り決め、彼女をB-4区画の一人として迎え入れたのである。
「私の部屋なんてどこにもないよ」
「意味が分からんわ」
「だろうね。別にいいけど。サタンが一緒に生きてくれるなら、その時は自分の部屋を持とうかな」
ラッキーは意味ありげにそう呟くと、鋭い視線をサタンに向けた。時折見せるこの視線の意味を、彼女はまだ知らない。ただ、この目があるから、サタンはラッキーをただの阿呆として扱いきれずにいる。
「その話、しにきたんじゃないの?」
無機質な視線。サタンを見ているようで、全く別のものを見ているような、それでいて心まで見透かそうとしているような目。射抜かれてしまえば、身動き一つ取れない。
サタンは若干の息苦しさを覚えながら、それを強引な抱擁の余韻だと自分に言い聞かせた。そうして、動揺する心を落ち着けるように口を開く。
「はぁ……そやね。私、プロポーズとやらを受けるわ。ほんまに不本意やけど。ラッキーが何をしようとしとるのか、ちょっと興味が湧いた、っていうか」
続けて何かを告げようとしたサタンだったが、ラッキーは彼女が言い終わる前に、強くその体を抱き寄せた。抗うのも面倒になったのだろうか、サタンはただされるがまま両手をラッキーの胸に置き、細くため息をつく。
「後悔、しないでね」
「するやろね。今もうしとるし」
「えー?」
言葉とは裏腹に、ラッキーは嬉しそうに目を細めた。サタンの体を抱きしめたまま、ラッキーは耳元で囁く。
「じゃあさ、子供は三人でいい?」
耳に掛かる生温い息に、始めてラッキーから人間らしい体温を感じながら、サタンは呟く。
「一人もいらんよ」
「ねぇお願い。みんなタイプは違うけど、とびきりの美人だよ」
妙に具体性のある言い回しにサタンは引っ掛かった。まるで誰かを指して物を言っているようである。彼女が確認する前に、ラッキーは続けた。
「中性的な顔のどサドに、元モデルの美女に、ふてぶてしい売れっ子風俗嬢。どう?」
「……まさか」
名前は出さずとも、誰のことを指しているかは明白であった。彼女達を子供にする。それが何を意味するのかはわからない。ただ、ラッキーのしようとしていることに、あの三人が巻き込まれるのは間違いないようだ。サタンはそれを理解すると、ラッキーの腕の中で目を大きく見開いた。
「うん。嫌?」
「私とエラーの間に何があったか」
「知らないけど、大体分かるよ。死ぬかなーって思ってたけど、私の予想は外れたね」
ラッキーはからりとエラーについて言及した。リストカットに気付くと同時に、彼女はエラーが死ぬ可能性を見据えていたのだ。サタンの過去を知るラッキーが、二人の関係の終着点をエラーの死と予測するのは、至極当然のことであった。
「死ぬ方に賭けとったんやね」
「賭けるって程でもないけどさー。私はサタンのこと応援してて、その結果誰が辛い思いしようが死のうがどうでもいいってだけ」
世話話をするような声色でそう零すラッキーは、やはりまともではない。サタンはその発言から、ラッキーの言う”友達”というものを探っていく。
サタンには一つ、絶対に間違っていないと思える憶測があった。それは、ラッキーを捕まえて”友達だ”と言う彼女の知人は一定数存在する、ということである。ただ、彼女自身はそれらの全てを顔見知りや知り合いと突き離し、友と呼ぼうとしないだろう。
厄介な人間に目を付けられたものだと、サタンは心の中で嗤っていた。自分を棚に上げた考えであることは分かっていても、そう思わずにはいられなかったのだ。
「サタンが嫌なら誰も連れてかないよ」
「そうは言っとらんよ」
「そっか、良かった。だったら特にこの子は欲しいんだよ。だって奥さんのお気に入りだし。他の二人は面白いから助けてあげたいだけ」
「誰が嫁や……まぁええわ。決まりやね」
ラッキーの言う”助ける”という言葉の意味は、まだ不明瞭なままである。しかし、”一緒に来てくれる?”と言ったことを、サタンは忘れていない。
ここから脱出するつもりなのだろうか。無理に決まっている。分かっていても、ラッキーのあの鋭い視線を思い出すと、否が応でも奇跡を期待してしまう。サタンはそんな自分を、らしくないと一蹴する。
どうせ自分はここから出られない。エラーというターゲットまでついてくるのなら、乗らない理由はなかった。
少し前まで厄病神のように疎ましく思っていた女が、いまや希望と化していることに気付き、サタンはその胸の中でまた嗤った。
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