ACT.72

 昼食を終えると、午後の刑務作業が始まるが、当番でもあるにも関わらず、小柄なその女は看守の目を盗んで、人の流れに逆らった。しなやかな長い髪を揺らし、悠然と歩く姿を見て、誰も彼女がこれから仕事を放棄して堂々とどこかへ向かおうとしているとは思わないだろう。女はサボるという行為に慣れていない。ただ、こそこそするのは悪手だろうという想像は容易についた。それだけである。

 区画前の格子をくぐると、女はある予感を胸にB-4区画、”弐”の部屋のドアを開けた。ノックもせず不躾に扉を開ける所作はその女に似つかわしくないものである。

 そこにはあられもない姿で絡み合う二人の女が居た。あぁやっぱり。嘆息とも取れる独り言を吐き出すが、それは赤髪の女に抱きつき、息を荒くする部屋の主の声によってかき消される。


「あ……あぁ!?」

「おまっ何して」


 声に驚いた赤髪の女、クレはエドを抱いて座ったまま、すぐに振り返って声を失った。ドアの前に立ち尽くすムサシの視線は冷ややかである。


「いいじゃないですか」


 無茶苦茶な言い分であったが、妙な威圧感を感じ取った二人は反論すら出来ずに硬直していた。少なくとも、突然部屋に押し入ったことについては咎めても良さそうなものだが。もしかしたら、されたのかもしれないし、されたとしてもどうせ気付かなかった。行為に夢中になっていた二人はそんな風に考えたのかもしれない。

 クレは自身の首に手を回していたエドのから指を引き抜くと、周囲を見渡して上着を探した。エドを下ろせばいいものを、体を動かさず首だけをきょろきょろさせる姿は滑稽である。突然の闖入者に、どうやら動揺しているらしい。

 ムサシはというと、そんなクレの全身の傷をまじまじと見つめていた。綺麗な肢体が台無しというべきか、しかしフェチに言わせれば堪らない光景であるようにも思える。彼女をこんな身体にした人間は少なくともまともではないと結論付けると、今度はエドの身体を見て「初めてちゃんと見た。結構ある、着やせする人なんだな」などと失礼なことを考える。

 ムサシは見たものに対して、淡々と感想を抱く自分の頭が妙におかしくなった。刑務作業の担当の日だというのに、出勤表とは裏腹に顔が見えない二人に気付き、すぐにピンときたのだ。昼食までは大人しく作業し、食後のわずかな自由時間でB-4まで移動してみると、案の定二人は行為に耽っていた。目の当たりにしたのだから、もう少し動揺してもいいだろうに。自分でもそう思うくらいに、ムサシの頭は冷えていたのだ。


「続けてくれてもいいですよ。私見てるんで」


 ムサシはそう言うと、部屋の中央へと移動した。ようやく上着を見つけたらしいクレが膝からエドを下ろす。エドは眉間に皺を寄せて、ムサシの有り得ない提案を跳ね返した。


「そんなことできるわけねーだろ」

「お金貰ってそういうプレイしたことは?」

「……あっけど」


 そうしてムサシは再び「やっぱり」と呟く。静かに呼吸を整え、上気した顔を隠すように視線を逸らすエドに、背徳的な何かを感じた。しかし、湧き起こった感覚を押しのけて、ムサシは動く。

 床に落ちた上着を手に取ろうと身体を屈めたクレの肩に触れると、元いたように座らせた。服に手が届く直前の出来事だったので、結局クレの上半身は裸体のままである。服を着るなということだろうか。

 クレはムサシの真意を探るようにその目を見るが、普段と全く違わないその瞳は逆に異様であった。抗議することもままならず、クレは胡座をかいたまま両手を後ろにつくと、壁に視線を逸らして小さくため息をつく。


「何しにきたんだよ。オレらがここにいるって分かってたんなら」

「何って。エドさんに会いにきたんですけど」


 ムサシはおもむろにクレの股の間に腰を下ろした。座椅子のような扱いを受け、クレは目を丸くするが、ムサシの傍若無人な振る舞いは止まらない。そこに座った理由も話さず、彼女は会話を続けた。


「クレさんとエドさんが何をしていようと、私には関係なくないですか?」

「はぁ?」

「また喧嘩します?」

「……やめとく」


 ぐるりと首を回すように振り返り、ムサシはクレを見る。視線を交錯させてみても、クレには彼女の真意が分からなかった。裸でムサシと密着している。この妙な状況も手伝って、クレはまともに物を考えられる気がしないという自己診断を下していたところだ。

 それなりに仲は良かった筈だが、自分を間に挟むようになってから、この二人の関係は変わってしまった。エドはそんなことを思い出しながら、目の前の光景を眺め続けた。なんだこれ。口に出したのか頭の中に響いたのか、判然としないのはその疑問があまりにも大きすぎた為だ。

 身体を密着させて会話する二人はやけに絵になった。クレは狼狽しきりだが、ムサシは一体何を考えているのか。過去にあれほど派手な喧嘩をした女が相手だというのに、存外楽しげにクレの胸に耳を寄せて何かを話している。

 何が面白くなかったのかは分からない。おそらくは全てが気に食わなかったのだろう。口に出す事を憚られた感情はすぐにその許容量を超えて、エドの身体の外に出てしまう。


「おい、お前ら。離れろ」

「なんでですか?」

「なん……はぁ? いいから離れろっつってんだよ。っつーかてめぇは何しにきたんだよ!」


 エドはムキになって二人を引きはがそうと手を伸ばそうとしたが、そこにムサシが制止をかけた。頭に上っていた血が行き場を無くしてぐるぐると立ち往生している。それでもエドはなんとか踏み止まった。元は自分のせいだ、それが分かっていたから、理性が働いたのかもしれない。


「不思議だなって」

「何がだ?」

「どっちも女の人なんですよね」

「……はぁ?」

「おいムサシ、それ、あたしらの体格差について言ってんのか?」

「えぇ。でも私、やっぱり、クレさん見ても、なんとも思いません」

「……思われても困るっつの」


 もうどうにでもなれと言わんばかりにため息をつくと、クレは肩を落とした。自分だって、別に女の体を見ても何とも思わない。一人、どうにか思いそうな人間に心当たりはあるが、あれは根っからの同性愛者だ。自分達とは少し違う。クレはそこまで考えると、今の問答の落とし穴に気付く。


「オレを見てもなんとも思わねーってことは……エドは?」

「クレ、黙れ」


 混乱した頭でどうにかクレの質問を遮ろうとするが、反応が遅すぎた。つい先日、触れることを拒まれたエドは、そのどこか気まずい問いの答えを聞きたくなかったのである。聞きたくねぇ、ってかまずてめぇら離れろ、散らかった頭の中は錯綜する二つの思いに翻弄されっぱなしだった。


「……さぁ。やっぱり、何も思わないですね」

「お前もそうなのか」

「え? クレさんもそうなんですか?」

「何度も言ってんだろ。オレはレズじゃねぇ」

「こんなに説得力ない言葉も珍しいですね」


 眼前の二人の女はこの奇妙な状況をものともせずに会話をしている。どうやらどちらもイカれているらしい。お前の体を見ても何とも思わない、そんな少し侮辱的な言葉を投げかけられても尚、エドが激昂しなかった理由はここにある。要するに彼女は二人に呆れて放心していたのだ。


 不意にムサシがクレの鎖骨に手を伸ばす。そこは痣になり、わずかに腫れていた。慰めるようにそこを優しく撫でると、冷たい声が響いた。


「触んなよ」

「痛くないんですか? これ」

「痛ぇよ。だから触んな」

「これは?」

「いっ……おい、お前」


 ムサシは痣を人差し指で押して、クレの顔色を窺った。痛いに決まっている。試すまでもなく分かることだ。異様な空気を感じ、今度こそ二人を引き剥がそうとしたエドだが、クレの言葉に動きを止めることとなる。


「てめぇ、わざとやってんだろ」

「えぇ」


 ムサシは親指の腹でその痣を押す。クレの表情から、かなり強く、無遠慮に触れられていることは想像に容易かった。手を離すと、今度は鎖骨を掴んで痣を蹂躙する。堪らずクレは息を詰まらせた。


「ってぇ……てめぇ、いい加減にしろよ」

「あーあ。はぁー……クレさん、やっぱり、ムカつくなぁ」

「だからてめぇら離れろっつってんだろ。おい」


 エドはムサシの肩を掴むと、手前に強く引き寄せようとする。しかし、ムサシはクレにしがみついて抵抗した。それがエドの癇に障った。


「何がしてぇんだよ! てめぇは!」

「何って。さぁ、なんだろうね。私にも分かんない」

「はぁ?」

「ねぇ舞。私はこのままでもいいけど、舞の為にならないよ」


 ムサシはこんなことを言いにきたわけではない。ただ、真っ昼間からセックスに明け暮れているであろう二人を冷やかしにきただけだ。だというのに、口は彼女の意志に反してつらつらと動いた。

 エドの本名を初めて知ったクレは別の意味で唖然としていたが、ムサシの知ったことではない。


「決めちゃいなよ」


 できる限りこの関係を長引かせたい自分がいて、今その手を離すべきだと叫ぶ自分がいる。それらが互いに足を引っ張り合い、辛うじて均衡を保っているだけの状態だった。長引かせようと思えば、数ヶ月、もしかすると年単位で、ムサシはこの阿呆共と向き合うことも可能だろう。どうせエドのことは嫌いにはなれないし、クレの執着心も敵ながら相当のものである。

 三つどもえの攻防はまだ始まったばかりで、先行きは見えない。しかし、エドはムサシに触れることを望み、より深く知りたいと、一歩踏み出してきた。だからこそ、今こそその手を離すべきタイミングだと判断したのだ。

 エドの中に自分という存在を強烈に残したいなら、今がベストだ。その極めて客観的な判断が加わり、ようやく天秤が傾いたのである。


「どういうことだよ」

「分かってるくせに。ホント、臆病だよね。二人とも」


 臆病だ。全てを認めて、少しの不満を飲み込みさえすれば、二人はすぐにでもそれなりに幸せなカップルになれるというのに。ムサシは答えが出ているにも関わらず、自分を手放したがらないエドと、自分達を引き裂く決断を下せないクレをそう評した。


「はぁー……まぁいいや。私、行くね」

「あ? おい」

「じゃあね、舞。大好きだった」


 突如突きつけられた三行半に、エドは理解が追い付かない。立ち上がり、振り返ることなく背を向けるムサシを追おうとしたところで、自身が何も身につけていないことに気付くと、彼女は裸足で自室の床に立ち尽くした。

 それを見ていたクレは、今度こそ手早く囚人服を身に着ける。


「は、ちょ……なんなんだよ……!」


 自分は今、ここに居てはいけない。理由のわからない遠慮がクレを突き動かしていた。彼女はムサシと同じように部屋のドアノブに触れ、出ていく直前、声を発する。


「オレも戻る。じゃあな」

「……なんなんだよ、てめぇら」


 クレを見送ったあとで、冷静に考えてみるとこれでよかったのかもしれないと、エドは思い到る。ムサシにしようとしたことや、望んでいたことを考えると、自分が酷く矮小なものに思えた。”じゃあね”と告げられた意味を考えるうちに、エドは浅い眠りに就いていた。



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