ACT.71
エラーはベッドの縁に腰掛けて自分の膝をじっと見つめていた。ミヤコ一派の襲撃で負った傷はまだ完治していない。頭部に触れるとじわりと痛みが広がったが、命に関わらない痛みよりも、ミヤコ達がそうせざるを得なかった理由に考えを巡らせる方が堪えた。
B棟は危機的状況にある。分かっていたつもりだったが、それはエラーの想像を遥かに超えていたのだ。気付かされても尚、知らないふりを決め込んで放棄したい気持ちに駆られている。しかし、裏を返すと、それはボスとしての責任を感じている事を意味する。エラーは己に残ったなけなしの情のような何かに翻弄されていた。
元々ボスは辞めるつもりだったというのに。囚人達に辞めると宣言することすら億劫で、先延ばしにしていただけなのに。そんな自分に、何も知らないミヤコ達が徒党を組んでまで最後の要求を突きつけるに至った経緯を想像すると、何故だか笑い飛ばす気になれなかったのだ。
また、収穫もあった。収穫と呼ぶには実態の無い朧気なものだが。エラーはサタンに一等特別に、大切にされているという確信を得たのだ。つまり、こうしてサタンのベッドの上で呆ける権利が自分にはあると、信じているということになる。
「寒い」
「最近そればっかりだね。冬なんだから当たり前でしょう。潤」
「そうじゃなくて、体の芯から冷えてる感じ。血が足りないのかな」
サタンはエラーの隣に座り、顔を覗き込んだ。そうして先日の襲撃を思い出し、暗い気持ちになる。ゆっくりと、真綿で首を絞めるような死を与えれば良いと考えていた自分が、いかに愚かだったかを実感させられたのだ。
エラーには早急に決断してもらわなければならない。今度あのような事が起こったとき、同じように助け出せるかは分からないのだ。もしかすると駆け付けることもできないかもしれない。これはサタンにとって、恐怖以外の何物でもなかった。
「ちゃんと食べてる?」
「分かんない」
「もう……」
サタンは心配そうな表情を浮かべて、少し責めるようにエラーを見つめた。横からやんわりと視線を感じるものの、彼女は目を合わせようとしない。
エラーは、自分というものが分からずにいた。それは二十数年生きてきて初めてのことである。生きる意味など存在しないし、必要としない。この女は平均よりも多くの怠惰と快楽を貪ってきた。劇的な変化など望んでおらず、ただ好きなように生きられればそれなりに幸せだった女である。それが現代日本の法に照らし合わせて重罪とされた為、こんな場所で生活する羽目になっているのだが。
振り回されることに疲れ、一度は封印された欲求だが、解放してみるとやはり抑制したことは間違いだったと思い知る。そうして今度こそ自身に合った生き方を見つけたような気がしたエラーだったが、サタン一人の指摘により揺らぐこととなった。
今だって自身の暴力的な欲求は変わらない。ただ、手首の傷と比例して、罪悪感も日毎に大きくなっていった。いや、罪悪感と呼ぶのも烏滸がましい、”自分は悪いことをしていると思わなければいけないらしい”という脅迫観念のようなものである。人としての根源である欲求を自己否定するようになった時、人間はこうも不安定になるらしい。エラーは己を客観視していたつもりだが、サタンに周りを囲われていることには気付いていなかった。
違和感はあった。しかし、性欲に負け、快楽に溺れ、自堕落な生活を繰り返し、自傷行為に癒しを求め、サタンに許しを乞う、この中でエラーは様々なものを捨ててしまった。信頼、ボスという地位、僅かながら確かに存在したはずの友情、健康な心身。振り返ってみれば、簡単に捨てるべきではないものばかりである。
欲求に突き動かされさえしなければ、きっと意味もなく捨てたりしなかったであろうもの達。そんなものをいくつも失って、気付けば夜空の星のようにささやかに自分を照らしていた光達が、今は一つしか残っていない。
エラーは死ぬ気でいた。死にたくなんかない筈なのに。ただサタンにより認められる為にはそうするしかないと思っていたのだ。星の光に手を伸ばす、それが自分自身が星になるという行為なのだから大分笑える。馬鹿みたいな状況に、エラーは内心で自嘲した。しかし決意は揺らがなかった。
「サタン」
「なぁに?」
「最後に一つだけ聞かせて」
「最後って?」
「いいから。答えてよ」
理不尽な要求にも、サタンは頷くしかなかった。エラーの取扱いにはかなり気を遣うべきである。いくらとっとと死んでもらいたいと思っても、本人に勘付かれれば元も子もないのだから。
「……いいわ」
「嘘つかないでね?」
「私は嘘は好きじゃないの」
これまで何度も見せてきた笑顔でサタンは言った。なんら問題ない、いま吐いた言葉すら嘘なのだから。サタンは顔色一つ変えずに、考えとは真逆の言葉を吐けるタイプの人間で、こういう場面に滅法強い女である。
「サタンはどうしてここにいるの?」
「ここが私の部屋だからよ」
「そうじゃないよ、分かるじゃん」
戯れは許されないらしい。残念そうにサタンが肩を竦めるが、エラーは笑わなかった。どうあっても真相を知りたいらしい。彼女は観念して理由を話した。
「……そうだね。私は、正当防衛である男を殺した。正当防衛だと認められなくて、納得できなくて脱走したの」
「そう……だったんだ……」
「いま思えば愚かだったわ」
過去を振り返り、懺悔するような表情を浮かべる。サタンの演技は完璧だった。エラーはしばらくサタンの横顔を見つめてから、自身の膝に視線を戻す。
「私とは、違うんだね」
「どういうこと? 私とあなたの違いなんて、今は囚人番号くらいしか無いのに」
「そんなことない」
サタンがここに来たのは不慮の事故のようなものだった。エラーはサタンの話を聞いてそう解釈した。欲望のままに快楽を貪った自分とは全てが違う、と。彼女は本来、娑婆で人生を謳歌すべき女であると信じて疑わなかった。
エラーはサタンの年齢を知らないが、二十代前半であることはほぼ間違いない。例え同性愛者だとしても、彼女ほどの容姿であれば相手には困らないだろう。考えれば考えるほど、エラーはサタンが不憫で堪らなかった。
「サタンは……ううん。あのさ」
「今日はおしゃべりだね」
「そうだね。話したいことが、たくさんある」
「そう」
「いや違うかな。多分話したいことなんてそんなになくて、それでもサタンの声が聞きたいから話題を探してる」
言い終えると、エラーはサタンと視線を合わせた。
自分がもし普通だったら、きっと今の言葉にときめいていたのだろう。歯が浮くような台詞を澱みなく吐いてみせるエラーの瞳に、己の姿を映しながらサタンは思った。
告げた本人は無意識のようだが、だからこそいやらしい。意図せず女を口説いてしまうような女が自分に依存している。サタンはそれを滑稽に感じている。そうしてそれはもうじき手に入る。彼女は静かにその時を待った。
「前に、私が死んだら愛してくれるって言ったの、覚えてる」
「そうだね。冗談のつもりだったけど、あなたがそうされたいなら」
「……そう。なら、それでいい」
エラーはその顔に似合わない笑みを浮かべると立ち上がった。何気ない話をするような、それでいてどこか決心を匂わせるような、何ともいえない声色で告げる。
「大丈夫、サタンの手は煩わせないから」
「ちょっと、潤」
「じゃあ、私行くね」
「待って。その……水を汲んで来るわ」
「え?」
「もう少しお話ししましょう?」
そう言ってサタンは部屋を出た。小窓から頭が見えないように立ち、周囲に人がいないことを確認すると、口元をぐにゃりと歪ませる。
――やった。やっと手に入る。やっと、やっと。あの瞬間が、また来る。
粗末な台所と呼ぶにも拙い水道の前に立つと、サタンは妙な表情のまま食器を手に取る。蛇口を捻ると、吐水口はわざとらしい音を立てて水を吐き出した。
彼女は死ぬつもりだ。エラーが死んだらすぐに部屋に赴く。しかしそんなこと、可能だろうか。できないのならば、エラーが死んだとしても意味がない。死んだばかりの彼女を愛でられないなら、サタンにとって彼女の死は無意味なのだ。所内で好き勝手に動ける保証はない。サタンは初めて、ファントムに居ることを悔やんだ。
そうして消去法で一つの結論を導き出した。エラーには肆の部屋で死んでもらおうと。気が付くとコップから水が溢れ、サタンの左手を濡らしていた。一瞬、じゃばじゃばと溢れるそれが赤く見える。冷えたそれは水でしかないというのに。
蛇口を回して水道を止めると、水として形を保っているのが不思議なくらい冷たいそれを少し捨てる。冷たい。そんな当たり前のことに漸く気付くと、サタンは近くにあったタオルで手を拭いた。
冷たい手。まるであの日の女の手のようだと、彼女は過去を振り返った。サタンに唆されて自害した女。あの日、服を脱がせて内側から遺体を傷付けると、サタンは女の手の上に股がった。徐々に死後硬直が始まっていた身体は、最後の抵抗とばかりに手首を曲げることを拒んだが、結局その指はサタンの体内に飲み込まれていった。サタンは女の身体だけではなく、硬く強張った冷たい指までをも犯したのだ。
再びあの快楽を貪れる。彼女は武者震いを感じながら、水場に背を向ける。部屋に戻り、俯く女にコップを手渡すと、できるだけ優しく話しかけた。
「エラー。あなたがその気なら、私は全てを見届けるわ」
女は何も言わない。透明なコップを持って、いや、握りしめている。礼も言わずに受け取る様子に小さな違和感を覚えつつも、サタンは続ける。
「私は、全てを受け入れると言っているの」
「……そう?」
「えぇ」
何かがおかしい。言葉にできない違和感がサタンを襲った。死に征こうとする者は大抵がおかしな様子になる。引っかかったものを無視して、サタンはエラーの肩に手を回そうとしたが、手首を掴まれ阻止されてしまう。
「何?」
コップが床に落ちて音を立てる。砕けて役割を果たせなくなってしまったそれに視線を向ける者は、この世に一人として存在しなかった。その場にいる二人は見つめ合っていたのだから。
足下を濡らす水はじわじわと広がって、それがエラーの靴の踵に到達した頃、やっと彼女は口を開いた。
「それを聞きたいのはこっちなんだけど。これ、何?」
エラーが手にしていたのは写真だった。エラーにとっては見知らぬ女の、サタンにとってはつい数分前に思い出していた女の写真。少し前にラッキーがサタンにプレゼントしたものである。
「……さぁ」
「答えてよ」
白々しくしらばっくれたサタンであるが、この期に及んで隠そうという気はさらさらなかった。勝手に棚を漁ったらしい愚か者への憤りが、彼女に煽るという選択肢を与えたのだ。
「知らないと言ったら?」
サタンは試すように問う。
「嘘でしょ」
エラーの瞳に、久々に光が宿る。サタンはその目を見て、ふっと自分の中で何かが冷めていくのを感じた。もったいない。萎えた感情を何とも言えない気持ちで見送ると、不思議と息が詰まる。
サタンの様子を確認すると、エラーは勝手に棚の中を見た事を謝罪した。そして、いくつかの言い訳をする。
「サタンが鋏持ってるなんて思ってなかったし。なんとなく、あそこにはサタンの秘密があるような気がして。最後にそれに触れたかっただけなんだ。で、こんなの見つけちゃった訳だけど。私さ、さっきサタンが言った、ここに来た理由が嘘だろうとどうでもいいんだよ。でも、この写真はさ。理由、聞かないわけにいかないじゃん」
本当は自分だってこんなことしたくない。エラーの顔はそう語っていた。しかし、見つけてしまったからには、気付いてしまったからには、確かめなければいけないだろう。下を向いて息を吐くと、エラーはゆっくりと顔を上げ、鋭い眼光で黒髪の女を射抜く。
「サタン、何をしてここに来たの」
この瞬間、サタンの中で、何かが切れる音がした。理性の糸や堪忍袋の緒などではない。そうしてサタンはくつくつと笑うと、手をひらひらと振った。
「あーあ。もうええわ」
「……は?」
この期に及んでふざけているのか。あまりの変化にエラーは驚いたが、サタンは彼女の理解が追いつくのを待ったりしない。
「ぜぇんぶ話す言うとるんよ。喜べば?」
「……なに、その言葉」
「はぁー……ほんま面倒くさいわ。私は自殺教唆と死体損壊で捕まったんよ」
「は……?」
エラーから写真をひらりと取り戻すと、人差し指と中指に挟んだそれに口付けをする。恍惚とした表情に、エラーはすぐに彼女が異質な何かであることを本能的に察知した。
「なぁ、知っとる? 死体の中に指入れて掻き回す感触」
「変態」
吐き捨てられた罵倒は、サタンにとって全く見当違いなものでしかなかった。お前は何も分かっていない。そう言うように、彼女は自身のそれについて語り出した。
「はぁ? 私は好きで死姦しとるんやない。死んだ時点でQ.E.D.、できれば私とする時だけ生き返って欲しいわ」
「……意味わかんない」
サタンが言いたいのは存外シンプルなこととも言える。死ぬことと拷問を入れ替えることができたなら、彼女の希望も叶っただろう。私の為に、拷問に耐え、それが終われば結ばれよう、と。
しかし、知っての通り、彼女はそれでは足りない。拷問など、何度でも受けられる。それに引き換え、どんな人間にも、与えられた命は一つだけ。その唯一無二をサタンの思惑通りに放棄して、初めて彼女は対象者と結ばれてもいいと思えるのだ。
つまり、彼女なりにジレンマを抱えていると言っていいだろう。生き返ってくれればいいとは言ったが、”するときだけ”である。人にいくつも命があったなら、命すら、サタンにとって服従と愛とを証明する手段でなくなってしまう。
しかし、これほど特殊で細かい性癖を人に語るつもりもないサタンは、自身へと向けられた矛先をそのまま返すことで会話を成立させた。
「そやろね。私にも、セックスの最中にエラーが相手を傷付ける意味、全然分からんわ。さっき私を変態言うたけど、そんなんお互い様やろ」
「……私は、殺したりなんて」
「殺人未遂で捕まった女が何言うとんの?」
サタンは鼻で笑ってエラーを見た。間近で馬鹿にするような視線を浴びても尚、エラーは目の前にいる女がサタンだとは思えなかった。口調も、話す内容も、何もかもが違う。安らぎを与えてくれたサタンを探すように、エラーは相対する女の瞳の中を見つめた。
「私は確かに黙っとったことはあるよ。でも、嘘はついとらんよ」
「はぁ……?」
「だから。潤が死んだら、私は潤を一生愛すって話」
一呼吸置いて、エラーは「いや」と口にした。拒絶と呼ぶにはあまりにも弱々しい。はっきりしない物言いに、サタンが迷いを感じ取ったのは必然と言えるだろう。彼女は嬲るように、言葉でエラーを追いつめた。
「嫌なん? どうして?」
「だって、サタンの今までは」
「口調が変わったくらいでなんよ。私は私やわ。大体、もう潤には何も残っとらんやん」
返事はない。それでもサタンは続けた。
「ボス辞めるんやろ。信頼なんて地の底や。クレに手ぇ出して、エドと対立して、まぁラッキーの阿呆は元々アレやし。もう私しか、残っとらんやん」
見つめ合っていたはずの二人は、いつの間にか睨み合っていた。サタンは口元だけで笑い、わずかに首を傾げる。
「私のものになればええよ」
その言葉はエラーの頭の中に甘く、長く響く。サタンのものになる、それはつまり死ぬということだ。混乱を極めるエラーの頭の中は、考えることを放棄するように身体に指令を送った。彼女の右手がサタンの肩を掴み、押し倒す。
強制的に天井を仰がされたサタンは、へぇとだけ言って短く笑った。余裕の無い表情を見上げる女は、不自然なくらいに落ち着いている。
「なぁ、何しとるん」
一方でエラーは何も考えないようにしていた。当然、そんな気分ではない、ただ何かを吐き出したかっただけだ。それは悲しみと怒りと、あとはサタンをとにかく傷付けたいという気持ち。
覆い被さり、耳に歯を立てる。軟骨に歯が埋まっていく。今なら歯触りのいいそれを、噛み千切れる気すらした。そういえば、サタンが痛みに喘ぐ姿など見たことがないと気付いたエラーは、一度身体を離して彼女を見下ろした。
「あぁいった……クレにこんなことしとったん? あの子が不憫やわ」
「これからだけど」
左耳がじんじんと脈打っている。伝わったそれが痛みかどうかすら分からなくなり、うざったくなるくらいに感じたのは熱。それでも覆いサタンを組み敷く女は、今のはただの戯れだと言う。絶句しそうになるも、サタンはなんとか言葉を絞り出す。それは純度百パーセントの、交じりっけのない本音であった。
「嘘やろ。下手クソ」
「終わったあとにまた感想聞かせてよ」
挑発に乗ってやるほどの余裕はないらしい。首を絞めようとした寸前、サタンはエラーの手首を掴んだ。
「取引しよか」
「……何?」
サタンは迷っていた。このまま一度抱かれておくのも、のちのち交渉のカードとして使えそうだと思ったのだ。しかし、そんな迷いは耳を噛まれた瞬間、消散した。
いまだ痛みにひりつく耳を気に掛けつつ、こんなことをされ続けたら頭がおかしくなると判断したのだ。要するに、サタンは痛いのは嫌いなのである。
その上で試してみたくなった。エラーと自分との、関係の行方を。見立てが間違っていたなら、このままこの箍の外れた乱暴者に一度抱かれることになるのだが、それほどのリスクを犯してでも賭けてみたい勝負があった。
「別に、私の事は好きにしたらええよ。でも、最後までされたら、さすがに私もエラーを大事にしてく自信ないわ」
「へぇ。で?」
「今後、もし私の為に死ぬ気が1ミリでもあるなら、止めといた方が利口ってこと」
意味分かる? サタンはエラーを見つめて微笑む。その顔は、これまでエラーが慕い、妄信してきたサタンの笑顔、そのものだった。
「あぁ……うっそでしょ……」
エラーはサタンの首に顔を埋める格好で崩れ落ちた。
「どしたん?」
「できないよ。バカじゃないの」
「ふふ、あははは……ええやん、大人しく一緒に寝よか。おっぱいでも吸う?」
「私の知ってるサタンはそんなこと言わない」
エラーはなけなしの反抗心で体を起こすと、サタンを睨む。鋭い眼光とは裏腹な間抜けな台詞に、視線の先にいる女は鼻で笑いながら言った。
「私のことなんて、何も知らんかったくせに」
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