ACT.83

 カンカンと甲高い音が響く。靴を脱いでいたのは少しの間だというのに、五人は足の裏の感触に小さな違和感を覚えながら階段を駆け上がっていた。

 錆びた階段はここしばらく使用された形跡がない。足場には均一に雪が乗っており、手すりを掴むと、剥げかかっていた白い塗装が手に付いた。サタンは忌々しげにそれを払うと、前を行くラッキーの背中を見る。

 ラッキーは時折後ろを振り返り、皆が付いてきているのを確認しながら、階段を上っていく。建物内では猫のようにしなやかだったその動きも、足元の悪いこの環境では発揮できないらしい。彼女は多少のもどかしさすらも原動力に変えて、脚を動かし続けた。

 この棟は七階建である。五人の進行は建物の半分まで差し掛かっていた。しかし、物事とは往々にしてうまくいかないものである。列の最後尾であるエドが四階に辿り着くと同時にドアが開いた。


「なっ」

「うわっ」


 エドと男は目を合わせて固まる。互いに想定外の事態が起こっているのだ、無理もなかった。しかし、こうなることを危惧していたエドの方が体が早く反応する。


「てめぇらは先に行け!」

「お前ら! 待て!」


 掴み掛かる男の脇をすり抜けると、エドは男の背に足跡を付ける。足を滑らせて五階へと続く階段に倒れそうになる男の顔面を、ある人物の膝が捉えた。


「ぐっ」

「クレ……!? 先行けっつったろ!」

「うるせぇな。にしても、ここでやる最後の喧嘩が、まさかお前との共闘とはな。ほら、返すぞ」


 クレは羽織っていた上着を脱ぐと立ち上がる男に被せ、その肩を力いっぱい押し出した。暗闇の中、階段の途中で押されてしまった男はバランスを崩す。ふわりと浮きあがった体を避けると、男の体が手すりに激突する瞬間、エドが服の上から顔を狙って肘を合わせた。


「っ……!」

「うわ、いってぇだろ、今の」

「てめぇの膝のが効いたんじゃねーの」

「……ま、死んでないならいいだろ。行こうぜ」

「おう」


 クレが上着を回収すると、二人はすぐに階段を駆け上がる。三人に追いつくとほぼ同時に、ラッキーが扉のシリンダーのピックを完了させた。回転方向に力をかけていたフォークがぐるりと一回転し、がちゃんと閂が収まる音が響く。四人はそれを成功とみなし、再び走り出せるよう息を整えた。

 ドアが開くと、そこはまた外であった。だだっ広い空間には白い丸が描かれ、中にHと描かれている。つまり、ヘリポートだった。


「着いた……」

「でも、ヘリなんて来るのかよ」

「えーと」


 時刻は五時になろうとしていた。ほんの三十分前には、エラーの部屋にいたことを考えると、上々の結果である。彼女はほっと一息つくと、皆に五時にここにヘリが到着することを告げた。


「どうやって脱走日が今日だって知らせたんだ?」

「あぁ」


 皆、膝に手をついて、なんとか呼吸をしているような状態である。ラッキーも同じ様子で、呼吸を整えながらゆっくりと話し始めた。


「看守の部屋に忍び込んでね、メールを送ったんだよ」

「お前、そんなことしてたのかよ……」

「うん、エドちゃんに、一日だけあげるって言った日にね……明日でもいいって言ったのは、予備日として指定日の翌日も来てもらう予定だったから。私達の都合もあるけど、あんまりひどい天気だとやっぱり無理だしね。ヘリが着いたらすぐに乗り込んで。ここに留まれる時間は限られてるから」


 どうやら助けが来るらしいということが分かると、気が抜けたのかサタンはその場に座り込む。あの乱暴な運転をした女と同一人物とは思えないようなしおらしい所作が、少しだけ痛々しかった。元々彼女は運動が得意ではない。ここに辿り着くまでの負担が最も大きかったのは彼女だ。

 しかし、安心できたのはサタンだけらしい。クレとエドは難しい顔をしてその場に立ちつくしていた。


「どったの?」

「いや、五時まであとどれくらいある」

「うーん、五分くらいじゃない? 」

「ちっ……さっきの男、もっとしっかり眠らせておくんだったな」


 ヘリが到着するが早いか、男が目覚めて無線で応援を呼ぶが早いか。エドが後悔を口にすると、エラー達の表情も曇った。


「ま、しゃーないわ。エドは外に出れたら、何がしたい?」

「あ? あたしは、そうだな。体を売らねぇ仕事がしたい」

「……私らの中で一番真っ当な願望かも知らんね」

「っせぇな。どうだっていいだろ。てめぇはどうなんだよ」


 エドの口から飛び出した存外まともな願望に、その場にいた彼女以外の全員が声をあげた。居心地悪く感じたエドは、隣に立っていた女に話題を振ってやり過ごすことにしたらしい。


「オレは……普通に暮らしたい。もう両親に会うつもりはねぇ。どっかで、誰にも注目されず、他人にとっての”その他大勢の内の一人”として、ひっそり暮らしたい」


 安易に話を振ったことを少し後悔したエドだが、クレの表情は悲しみに満ちたものではなかった。どちらかというと、過去の自分への憤りや呆れが感じ取れるような顔で、何かを諦めたようにそう言ったのだ。

 ラッキーはへらへらと笑いながら、誰かに聞かれたわけでもないのに語り出した。


「私はー、これまで通り暮らすよ。サタンを連れてね」

「じゃあエラーも連れてかんと」

「えー!?」

「お気に入りの玩具として連れてくんやから当然やろ」


 とりあえずはエラーが居た方が何かと都合がいいと判断したサタンは、当然であるかのようにそう言ってラッキーを説き伏せてみせたが、そんなやり取りに水を差したのは本人であった。


「……いや、無理かもね」


 エラーは非常階段の隣にある正規の入り口、エレベーターがある扉を見つめた。歩み寄る男は、その場にいる誰もが知る人物である。


「セノ、来てくれたんだ」

「あぁ。これは一体どういうことだ」


 睨み合うセノとエラーを放置し、ラッキーが振り返る。その羽音はまだ彼女にしか聞こえていないが、一基のヘリがヘリポートを目指して飛来していた。

 徐々に大きくなる風切り音に、サタンが、そしてエドとクレが視線を向ける。点だった影が存在感を増し、すぐに鳥ではなく機体であることが目に見て分かるようになった。

 その様子を肌で感じながらも、エラーはセノから視線を逸らさない。


「まぁこういうことなんだけど。ごめんね」

「まさかヘリとはな。777番が来るときにB棟の警備を増員させてはいたが。空は手つかずだったな」

「撃ち落としてみれば?」

「そんな設備はないさ。俺が撃てるのは、人だけだ」


 セノは懐から拳銃を取り出す。エドとクレはその黒い物体にぎょっとしたが、残りの三人は目を細めるだけだった。


「悪いな。これも仕事だ」


 着実に近付くヘリの音は、地上の会話を遮ろうとしていた。あとは降り立つだけである。しかし、垂直に地上に近付くヘリは、突如大きく機体を振った。回転する後尾部分が地上を水平に凪ぐ。

 不意を突かれたセノが拳銃を手から落とすと、エラーがそれを蹴った。ほぼ同時にヘリのドアが開き、縄で繋がれた梯子が下される。


「サタン、行って!」

「ラッキーが先やろ!」

「いいから早く!」


 ラッキーはサタンの手を掴んで梯子を握らせると、しぶしぶ彼女はそれに従う。ヘリの中に姿が消えるのを確認して、今度は自身が梯子を掴んだ。


「おい、オレ達より自分かよ!?」

「当たり前じゃん、何度も言わせないでよ」


 エドとクレは梯子へと走った。彼女達がそれだけ自由に動けるのは、偏にエラーがセノと睨み合い、足止めをしているお陰である。


「馬鹿だな。蹴り飛ばすなんて。拾って俺を撃てば、それでおしまいだったのに」

「ホントだよ。馬鹿すぎて、自分でもびっくりしてる」

「俺に情でも湧いたか」

「かもね。だって、セノったら馬鹿なんだもん」

「なんだと?」

「応援、呼べばよかったのに」

「……お前の言う通りだ。俺もヤキが回ったな」


 そう言って、セノは頭をぼりぼりと掻いた。久方ぶりに見る、彼が困った時に見せる仕草である。懐かしさを感じながら、エラーは少し笑った。


「お前が笑うの、久々に見たぞ」

「そう?」


 クレが梯子を登り切り、エドがそれに続く。会話は聞こえないが、視線の先の二人は穏やかな表情をしていた。その理由はエドには分からない。しかし、妙な胸騒ぎが抑えられず、そこにぶら下がったまま動けずにいた。


「おい! てめぇ何やってんだよ! 早く登ってこい!」

「るっせぇな! 黙ってろ!」


 セノはおもむろに歩き出す。この状況で脱獄しようという囚人に背を向ける理由はそう多くはないだろう。エラーは咄嗟に数歩後ずさり、少しでもヘリに近付こうとする。

 先に足を止めたのはセノだった。彼は身をかがめて、蹴り飛ばされた拳銃を拾うと、平然と言ってのけた。


「お前には、罪を背負ってもらうぞ」

「おい! ヘリをエラーに近づけろ! とっととしやがれ!」


 エドの叫びを聞いたラッキーが操縦席にその旨を伝えた。エラーというのは、男と対峙しているあの女のことだろうと判断したパイロットが操縦桿を操作し、ヘリの機体が動き出してすぐ、セノがトリガーに指をかける。そうしてエラーに向いたまま、手首を動かし、指先に力を込めた。


「おい! 掴まれ!」


 エドがエラーの手を取ると同時に、ヘリの音すら掻き消す銃声が響いた。その音に反応して、二人は目を閉じたが、しばらく待っても痛みはやってこない。落ちないように、落とさないように、互いの手を強く握り合い、体が宙に浮くのを感じると、エラーは反射的に顔の近くにあったハシゴに手を掛ける。そうしておそるおそる目を開けると、地上では自身の肩を撃ち抜いたセノが、膝をついて笑っていた。


「お前らは! 俺を撃ってここから脱獄した! ということにする! 二度とここへは戻ってくるな! それがお前達の償いだ!」


 拳銃を放り出し、セノは手を振っていた。離れていく大男が小さくなり、エドとエラーは梯子を登った。エラーがドアに手をかけ、機体の中を覗くと、B-4の面子が雁首揃えて自分を見つめていた。

 ラッキーは手早く梯子を回収して、ドアを閉めて振り返る。女は満面の笑みを浮かべていた。


「やったー! 成功だね!」

「そんなに喜んだらセノさんに悪いやん」

「でも死ぬような怪我じゃないし、セノさんだって立場上、逃がすためにはああするしかなかったじゃん? まぁ、あの人の甘さがなかったら、一人か二人欠けてたってのは悔しいけどさ」


 悪びれなくラッキーはサタンに反論してみせると、エドが腕を組んで首を傾げる。皆、緊張の糸が切れたように浮かれていた。


「そもそも、セノはなんであたしらを逃がしたんだ? どう考えてもやべぇだろ」

「さぁな。でも、あいつ、エラーのこと好きだったろ」

「なら余計逃がさなきゃよかったじゃねぇか」

「エラーの幸せを考えた結果じゃねぇの」


 憶測でものを言うエドとクレであったが、口を挟んだのはサタンだ。彼女も脱出を喜んではいるが、ラッキーのはしゃぎっぷりを目の当たりにしたせいか、若干冷めた目をしていた。


「好き勝手言うのはあかんよ。セノさんは妻子持ちやし」

「そんなの関係ねぇだろ」

「てめぇはそうだろうよ」


 関係ないと言うエドに、クレが茶々を入れる。しかし、二兎追う経験をしたばかりのエドに、その洒落は些かキツ過ぎた。というか洒落になっていない。


「んだとてめぇ!」

「黙れ言うとるやろ!」

「う、うす……」


 激高するエドを一喝して黙らせると、サタンはいつもの柔らかい物腰で、エラーの心中を慮った。


「エラーの気持ち考えんと。そんなん言われたら」


 サタンは心配そうにエラーを見る。俯く女は、小刻みに肩を震わせていた。それを見て、ぎょっとしたのはサタンだけではない。


「あ、お、おい。まさか、お前、泣いて……」

「やっ……たー! 私、本当にこのまま外に出られるの!?」

「……要らん心配やったみたいやね」


 そう、エラーは脱出の喜びを噛み締めて震えていたのだ。両手をあげ、倒れるように機内の座席に凭れてみせる。その無邪気な所作が演技ではないことは、その場にいる誰もが理解していた。というよりも、この女は演技でそのように振る舞えるような性格をしていない。呆れたような誰かのため息がヘリの中に響いた。

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