ACT.82

 B-4区画と廊下を隔てる格子をそろりとスライドさせ、人一人がやっと通れるほどの隙間を開ける。そっと頭を出して周囲に人気がないことを確認すると、ラッキーは振り返って四人に頷いた。

 声は出さない。しかし、その場にいた全員が、これからここを去るのだと理解した。足音を立てない為の工夫とはいえ、左右のスニーカーを紐で繋いだものを肩から掛けながら、真面目な表情を作っている姿は些か滑稽である。


 前に向き直ってすぐに動き出したラッキーの背中を見て、四人は思い切りの良さに少々面食らった。そうして彼女達は一拍遅れ、小走りで後を追う。音を立てないよう急ぐというのはほとんど矛盾している。転ぶよりもマシだろうと、若干のスピードを犠牲にしたエド達だが、その間にもラッキーとの距離は開いていく。

 しかし、曲がり角に差し掛かったところで、ラッキーは立ち止まって壁へと目を向けた。遅れて追いついた四人は、彼女の視線の先にあるものを確認する。そこには、これまで一度も気にかけたことのない、蓋のようなものがあった。それは彼女達がファントムに入所するより先に、さらに言うならば職員が勤めるようになる前から、要するにファントムが建てられると同時に取り付けられている装置である。


 固唾を飲んで見守るような四人分の視線に気付いているのか、いないのか。ラッキーは刑務作業で入手した針金と、食堂から拝借したフォークをポケットから取り出した。その装置というのは、以前ラッキーが長らくランプの光を眺めていた、あの機械である。

 大袈裟なほど頑丈な南京錠を手に取ると、鍵穴部分に先端の一部が折り曲げられたフォークを挿して、回転方向に力を加える。後を追うように差し込まれた針金で内部を操作すると、カチャカチャと音が鳴った。その微かな音がエラー達を脅す。特にエドとクレはしきりに周囲を見渡したが、未だ人の気配はなかった。


「おい、何やってん」


 エドが言い終わる前にフォークがぐるりと回る。つまり鍵が開いたのだ。ラッキーは自作の解錠工具を引き抜くと南京錠共々ポケットにしまい、手際良く配電盤らしき装置の蓋を開けた。それはこの一帯のロッキングシステムを大元を司っている。ラッキーの見立てでは格子の空間から医務室辺りまでが、この機械により制御されているのだ。


「やっば」

「どうした」

「誰か居る」


 ランプが赤く灯り、すぐに緑になる。ずらりと並んだそれらは、格子の施解錠を表しており、解錠時のみ赤く灯るようになっていた。どれがどの格子に対応しているか、ラッキーは観察を重ねて把握している。赤く光ったのは医務室周辺の格子に対応するランプである。

 誰かが所内を移動している。右ならばラッキー達がいる方向へ、左ならば医務室最寄りの格子が開くことになる。後者であれば、脱走に使用されるルートからは外れる為、計画を続行できる。

 この事実をラッキーだけが知っている。四人は彼女が何かを待っているのを感じつつも、状況が分からないまま、じっと立っていることしかできなかった。


「よっし、行ける!」


 左のランプが赤に切り替わった瞬間、ラッキーは再び動き出した。エラーはラッキーの手元に、クレとエドは周囲の警戒を怠らない。彼女のポケットからはドライバーやカッターなど、どこで手に入れたのかと問いただしたくなるような工具が次々と出てくる。サタンだけが、どこか呆れたような表情でその様子を見つめていた。

 制御盤を慣れた手付きで取り外すと、いくつかの配線の存在を確認し、彼女はすぐに一つ一つ丁寧に手前に引き出した。どうやら順序があるらしく、色とりどりのそれらは、何らかの法則に従って次々と切り離されていく。まだ残っているものも多かったが、ラッキーはそれらのいくつかを結線して、壁に制御盤を戻すと、そっと蓋を閉じた。


「おい、なにやって」

「職員のカードキーがないと開かない格子があるのは、みんなも知ってるでしょ。いま必要なとこのロックを外したの。いいから来て」


 ロックの解除だけではなく、ロック解除の為に警報の解除やらも行なっていたのだが、それらの説明を不要と判断したラッキーは多くは語らなかった。

 静かに走り出すと、角を曲がる。五人の足は、かつてムサシを含めた数名がゴトー達と対面した、あのボイラー室がある廊下へと向かっていた。


「で、次は?」

「ここを進むと、とりあえず地上に出られる」

「ホントかよ」

「それが事実やとしてもや、ラッキー。外というのが屋外という意味なら、運動場でもええんよ、私達は」


 サタンの心ない野次に視線で応えると、ラッキーは歯を見せるように笑った。

 そうして廊下を駆け抜ける。どうやら音よりもスピードを重視すべき区間らしいと理解した四人もそれに続く。


「にしても、こんな時間に医務室を見回りするなんて、ここの連中も結構大変なんだな」

「いいや、あの時間、見回りはない。言ったでしょ、今日は一番手薄な日だって。あれは完全にイレギュラーだよ。交代の時間でもないし」

「はぁ? じゃあ」


 エドは器用にも、走りながら首を傾げている。ラッキーはその理由が分からないエドをおかしく思いながら答えた。


「私達の他にもこっそり行動したかった人がいるみたいだね」

「それってどういう意味だよ」

「あの看護師のおねーさんと、エドちゃん達を診た女医さんがデキてたりして」

「はぁ? 女同士だぞ」

「えぇ……クレちゃんがそれ言っちゃうの?」

「ちっ……」


 クレに反論しながら、ラッキーは途中の道を右に曲がった。修理されて間もない給水管が蛍光灯の光を鈍く返している。その下を、まずはラッキーが駆け抜ける。近くの格子をスライドさせると、ロックが解除されていることにほっと胸を撫でおろした。

 四人を通させると、拝借した南京錠を通して格子にロックをかけた。脱走が発覚した際、時間稼ぎくらいにはなるかもしれないという、ラッキーの思い付きである。

 南京錠がかけられたのを見て、もうここには戻ってこないことを悟ると、四人は振り返った。


「このドアは別制御。ちょっと待ってて」


 壁に据え付けられたカードリーダーを引き剥がすと、新たに配線が現れる。それを先ほどと同じ要領で切り離し、別の色の配線を繋ぎ合わせると、がちゃんと閂が動く音が響いた。


「これでオッケー」


 ドアを開けてサタンの顔を見ると、彼女は素直に「すごいやん」と感想を述べた。ご褒美にほっぺにちゅーでもしてよ、等と軽口を叩きたい気分ではあったが、ここから先は屋外、ラッキーの知らない領域である。心の何処かにある潜在的な不安が、ラッキーを黙らせた。


「ある棟の屋上にヘリポートがある。そこを目指す。でも、ここからは看守の動きが分からないから、みんな周りには注意して」

「はぁ!? じゃあ計画通りなのはここまでかよ!」

「まぁそういうことになるね」


 ラッキーは淡々とそう述べ、外に出た。起きた時には白み始めていた空が、早朝を告げている。

 そして当然だが、かなり寒い。雪がちらついていないのが不幸中の幸いと言えるだろう。こうも寒いと指の動きが鈍って作業に支障が出るかもしれないと、ラッキーはパーツ限定で自身の体の心配をしている。

 そうとなれば、余計に立ち止まっている暇はない。全員に靴を履くことを指示すると、朝日に目を細めながら、周囲を見渡した。目当てのものは、存外近くに転がっていた。


「あった。ここからはあれで移動するから」

「あれって、車じゃん。鍵は……って、言うまでもないか」

「そゆこと。ちょっと待ってて」


 彼女達の視線の先には、古ぼけた白い乗用車があった。真っ白だった筈のボディは錆び付いて、特に足回りが茶色くなっている。この施設が出来上がった当初から現役で動いてきたのだろうという趣があった。

 それは業者が所内を移動する為に使う五人乗りのものである。軽トラの類ではなかったことにほっとしつつ、ラッキーは運転席のドアをピッキングした。

 一分足らずでドアが開く。しかしこれだけではエンジンは掛からない。屈んで上半身を車内に突っ込み、体を斜めにしたままイグニッションを覗き込んでピックする。からりと晴れた冬の朝に、パチパチという小気味良い音が吸い込まれていった。

 そうして、難しい顔をしたラッキーが車から降りてきた。


「どうしたの?」

「ヤバいよ、アレ」

「んだよ、とっとと言え」

「マニュアル車だった」

「あ? よくわかんねぇけど、なんか問題あんのかよ」

「私、ちょっとマニュアルは運転できなくて……車の運転はしたことあるけど、免許持ってないから我流だし……」


 ラッキーは気まずそうに頭をかくと、四人を見た。車がなければ、歩いて目的地に向かうつもりではあったが、できるだけ車での移動を試みたいところである。時間が限られているという事情もあるが、車で移動すれば怪しまれることなく動けるのだ。徒歩と車を比べたとき、前者はデメリットしかないというのがラッキーの考えであった。

 だというのに、連れてきた女達の表情は明るいものではない。その表情が何を意味するのか、心の機微に疎いラッキーにだって流石に理解できた。


「あたしも免許持ってねぇ」

「オレもだ」

「私も」

「はぁ!? これだけいるのにみんな」

「ラッキー助手席な」


 サタンだけがラッキーの首根っこを掴んで、車を見つめていた。足はずんずんと白い乗用車へと向かっている。今しがた解錠されたばかりのドアを開けて運転席に乗り込むと、彼女は言った。


「運転は私がする。はよエンジンかけや」

「さっきピックして回したんだけど……エンジン掛かんないんだよ」

「ピッキングはよー分からんけど、普通はクラッチ踏みながらやないと掛からんよ」

「あ、そうなの?」

「そんなことも知らんと生きとったん? 逆にすごいわ」

「別に知らなくても生きていける、し!」


反論しながら、ラッキーはイグニッションを回転させた。クラッチはサタンが踏んでおり、今度こそ無事にエンジンをかけることに成功する。エラー達三人は車が始動する音が聞こえると、互いに目を合わせてから車へと駆け寄った。


 ラッキーはすぐに助手席へと回り込み、ドアを開ける。体半分が車内に入ったところで、サタンに肩を引かれ、倒れるように席に着く。残った三人は妙な様子のサタンに気を遣ってか、おずおずと後部座席に乗り込む。全員が乗ったことを確認すると、サタンも運転席のドアを閉めた。


「ラッキー。ナビ」

「えっと、ヘリポートは職員の居住棟に」

「だからそれを何処か言え言うとんのや!」

「あ、えっえっと、とりあえず真っ直ぐです、はい」

「初めからそう言いや!」


 サタンはアクセルを吹かすと、車を急発進させた。二速三速とギアを上げていく。周囲は高い塀に囲まれ、所々に見張りらしき人影が見えた。


「この車に乗ってる以上は何かの業者だと思われるはずだから、それは安心していいよ。居住棟は非常階段から登れば一気に屋上まで行ける。データにはなかったけど、多分警備は手薄だよ」

「いま通り過ぎた棟は?」

「あ。アレだね」

「言いや!」


 サタンはハンドルとサイドブレーキを操作しながら怒鳴った。後ろでは三人の悲鳴が響くが、構わず車をスピンさせるようにUターンさせる。車が180度進路を変える頃には、ラッキーの後ろに座っていたクレに重なるように、エドとエラーが身を寄せ合って潰れていた。


「いたた……この真裏に車をつけてくれる? 階段があるはずだから」


 助手席のラッキーは比較的軽症だったようで、すぐにいくつか立ち並ぶ居住棟の一つを指差した。当然、迂回ルートを探してそこに向かう、というつもりであったが。

 目的地を聞いたサタンはハンドルを切る。車は建物間の路地のような細い道、というよりも隙間へと向かっていた。四人が一様に「ちょっと待て」と叫んでいるが、車は減速することなく直進する。

 後部座席の真ん中に座ったエドはここぞとばかりにサタンに罵詈雑言を飛ばし、エラーは引きつった表情で静かにドア上部に取付られた手すりと、自らの膝を掴んでいる。先ほど二人に潰されたばかりのクレはといえば、いつミラーを引っ掛けて吹っ飛ばすことになるのだろうかと、車体と壁の距離に肝を冷やしていた。

 そうして奇跡的に車が無傷のまま、路地を通り抜けた。直後、角を曲がると、ラッキーが言っていた通り、階段が見える。想定通りの光景に、ラッキーまでもが安堵した。

 五人は無言で車を降りる。後部座席に座っていた三人は足元が覚束ない様子で、若干フラフラとしつつも、なんとか階段を目指した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る