ACT.66

 外の空気でも吸ってこいよ。クレにそう言われて、エラーは何も考えずに所内を徘徊していた。以前であれば、週に数回繰り返してきた事が新鮮に感じる。それは偏に最近の彼女が過去の日課を蔑ろにしてきたせいだ。


 彼女の向かいから並んで歩いてきた囚人共は、久々に見たエラーの姿に驚いた。それが彼女を見かけたことに対するものなのか、顔色の悪さによるものなのか、本人には判別がつかなかった訳だが。

 最近の彼女は、自室と食堂の往復しかしていない。それ以外の行き先といえば、たまに浴場に足を運ぶ程度である。体調が思わしくない日が増えたことがほとんどの原因を占めているが、他にも小さな理由はある。

 情報屋の女にばったりと会って先日のようにボスとしての仕事ぶりについて口を出されるのも億劫だったし、今のように珍獣を見るような目を向けられるのも煩わしかったのだ。これら全ては彼女がボスとしてまともに働かなくなったことに起因するが、その辺を改めるつもりは今のところないらしい。

 とにかく、エラーは異様だと思われていることは自覚していた。鬱陶しいと言う代わりにため息をつくと、引きずるようにして足を前に出して、だらだらと歩く。


 特に行く宛が無くても、体はかつてのルートを覚えているらしい。薬物の取引に使われそうなスポットを順に回り、一階のそれが終わると二階に移動する。頭はまともに働いていないままだったというのに、足音を立てないよう通路からそっと顔を覗かせる自分に気付いて、エラーは苦笑した。これが無意識の内に出来てしまう自分がおかしくて堪らなかったのだ。

 この仕草は、何らかの取引が行われていた場合、関係者に気付かれずに近付く為のものであり、この数年で培われた癖のようなものだった。実際にそれが功を奏して、ゴクイ達のドラッグの取引を未然に防げたこともある。


 そうして通路を歩いてゆき、エラーは行き止まりの壁を見つめて立ち尽くした。誰かの血痕のような染みがこびりついた汚いコンクリートを見つめたまま。

 あとは振り返ってB-4に戻るだけ。幸い彼女が立っている場所からB-4はすぐ近くだった。無駄のないルートを考案したかつての彼女は間違いなく優秀だったと言えるだろう。


 気配を感じ取ったのが早いか、歪に反響した足音が早いか。エラーは背後に複数人が近付いていると確信した。

 遠くに聞こえたと思っていた足音に振り返ると、彼女は笑った。想像していたよりもずっと近い。はっきりと互いが知覚できる距離であり、隠れるような時間など、ありはしなかったのだ。


 あーめんどくさ。ぽつりと漏らすと、彼女はぐっと顔を上げる。そこにはあまり馴染みの無い顔が並んでいた。ほとんど言葉を交わしたことはないが、名前だけは知っている、そんな集団がエラーと対峙して足を止めたのだ。これまで一度も問題を起こしてこなかったはずの者もおり、エラーは彼女達が自分をこんなところに追いつめる理由を模索する。

 そうして、四人の間を割るようにして姿を現したのは、眼鏡を掛けたボブカットの地味な女だった。前髪は散切り頭で、本人に言わせれば”最高にカッコいい”らしいが、エラーは彼女のヘアスタイルを真似てみたいと思ったことは一度もない。


「なぁんだ。ミヤコか」


 その姿を確認すると、エラーは安堵したように女の名を呼ぶ。最近は何をしているのかまるで把握していないが、少し前までは情報屋として動いていた女だ。

 エラーが体たらくなボスに成り下がってからも、何度か背中を押そうとした口うるさい囚人でもある。もう少し言うと、エラーとしてはかなり会いたくない人物であった。

 彼女がエラーの敵となるか味方となるかは状況によって異なったが、それらを鑑みても、エラーは彼女に対して、決して悪い印象を抱いてはいなかった。ボスとして使命を果たすように発破をかけられても、鬱陶しいと思う程度である。

 ミヤコは利己的で、あくまで自分の為だけに動く。ブレないその姿勢に、ある種信頼のおける人物だとすら思っていた。


 以前とは明らかに様子が違った。言葉を掛けられても尚、ミヤコと呼ばれた女は表情を崩さない。ポケットから手を出すと、おもむろに腕を組んだ。

 人差し指から薬指、指の付根から第二関節にかけて、一文字ずつ3、8、5という数字が顔を覗かせている。言うまでもなく、彼女の囚人番号である。

 よくもまぁそれほど酔狂なタトゥーを刺れられるものだと、エラーは視界に入る度に呆れていたが、今日に限ってはそんな余裕すら無かった。


「お前、いい加減にしろよ」


 明らかに怒気を孕んだ声色に、辛うじてまだボスであった女は目を細めた。他の囚人であれば、恐らくはそのボス業が疎かになっていることについて抗議したいのだと察しがつく。が、ことミヤコに関しては、そう決めつけるのは早計だ。相手の出方を窺うように、何が? と問うても、タトゥーと眼鏡の女は一切取り合わなかった。


「ハイドさん達に庇われてんのも気に食わない」

「……そう」


 答えになっていない。しかし、ここまで話せばもう充分だ。エラーは早々に会話に見切りをつけた。

 言葉ではどうにもならない程の怒りがあるのだろう。もはや彼女が何に対して怒っているのかは問題ではないと判断したのだ。


 しびれを切らした取り巻きの一人が、エラーとの距離をステップで縮め、拳を突き出す。しかし、ミヤコが率いる集団の大女は、次の瞬間には鼻血を垂れ流しながら尻もちをついていた。


「喧嘩弱い女が、ボスやれる筈ないじゃん。ったく、ダルいのに、勘弁してよ」


 己を取り囲むメンバーの顔を、舐めるように見る。顔の作りをインプットするようなその目の動きに、激しく嫌悪したらしい二名がエラーへと襲いかかった。アシンメトリーの髪をした女は、いかにも慣れていない様子でバットを縦に振る。

 エラーは迫りくる長物を見つめる。頭の上に影を作っても、まだ見つめ続けた。直撃を理解しながらも、エラーは動かない。そして鈍い音が頭の中で響くと、彼女は体を横たえた。

 バットを振った張本人は、まさか自身のやぶれかぶれの攻撃がボスを捉えるとは思っていなかったようで、手に伝わるリアルな衝撃に今更ながら怯えていた。


 短い悲鳴と、バッドが床に転がる甲高い音から、辛うじてその様子を感じ取ったエラーは「攻撃しといて、勘弁してよ」と呆れ返っていた。”しょぼい攻撃”と高を括っていたが、当たりところが悪かったようだ。しばらく声は出せそうにない。

 エラーが反撃しなかったのは、あのアシンメトリーの髪の女が決して武力行使をするような女ではない、と知っていたからだ。寸止めされると思ったのではない。そんな根拠のない期待を他人する程、彼女は人を信用していない。

 では何故されるがままでいたのか。それは、元々大人しかった囚人ですら武器を持って立ち上がらなければいけないほど、現在のB棟の治安は悪化していると思い知ったからである。

 ただの反抗や、わがままを通そうという結果では無い。自分の生活の為に行動すべきである、そう判断する者が出てくる状況である、ということだ。


 それに気付くと、エラーは動けなかった。繰り返すが、エラーにはそうなってしまった彼女達への謝罪の気持ちなどは一切感じていない。ただ、そういった者に殺されるのなら、このまま死ぬのも悪くはないのかもしれないと思った。それだけである。


 まだ視界は揺れているが、なんとか膝を付く。起き上がるつもりなどこれっぽっちも無いというのに、わざわざ膝を付いた自分が分からない。もしかすると、このままで終わらせたくないという気持ちが心のどこかにあるのかもしれない。何も分からない。知りたくもない。

 まだ息のある自身の思考を強引に遮り、手を離そうとしたところで、心から渇望していた声が響き渡る。


「何してるの!?」

「ちっ……サタンか」


 面倒が舞い込んできた。振り返ったミヤコはうんざりした様子で、声がした方を見た。ミヤコはこの女、サタンのことを嫌っている数少ない囚人であった。周囲は彼女の外見にほだされて誰かに騙されただの、利用されただのとほざき、見当違いかもしれない同情を勝手に寄せている。それが単純に気に食わないのである。

 ミヤコ達の横を素通りして、情けない姿を晒すボスに駆け寄ると、その体を抱き締めてさらに涙を流す。ミヤコはその光景に少々面食らう。彼女の中のサタンという女は、決して他人の為に泣かない女であった。


「やめて……どうして……!」


 サタンはミヤコを見つめ、涙ながらに訴える。エラーは、彼女がこれほどの危険を侵してまで自分を庇ってくれた事に、驚きを隠せなかった。自身ですら放棄しかけた命だというのに。


「許してあげて……お願い……」


 そう言って、何の非もないサタンが頭を下げる。自分の為にそうしているのだと思うと、下手に止める訳にもいかず、エラーはサタンとミヤコの姿を交互に見ることしかできなかった。

 ミヤコはというと、サタンが駆けつけた理由を考えていた。もし音を聞きつけてやってきたのであれば、他の面子がやってくるのも時間の問題である。エドやクレが来れば分が悪くなるのは明白だった。


「……エラー。一つ言っとく。分かるだろ。私達は敵対したい訳じゃない。ただ、お前には期待してたんだ。その期待を裏切ってくれるなよ」


 要するに、次はないということだ。気に食わない裁量があれば、今度こそは殺してみせる。そうして捨て台詞を吐くと、ミヤコ達は踵を返して去っていった。


 エラーは問いたかった。どうしてここまでしてくれるのか、と。しかし、口を開く前に、サタンが彼女の頭を抱きかかえる。

 死んじゃうかと思った、よかった。そう言ってサタンは涙を流した。泣きじゃくったと表現しても大袈裟ではないだろう。サタンは嗚咽をこらえきれず、時折喉の奥を引きつらせるように声をあげた。それでも抱えた頭は離さない。

 どうやら急場を凌いだらしいという安心と、一歩間違えると失われていたであろう手中の命を案ずる気持ちがない交ぜとなり、それら全てを涙に変えるまで、サタンは動けないのだ。


 どうしてそんなに。

 私のことなんか。


 様々な切り出し方を思案したが、エラーは結局それら全てを放棄した。どんな言葉も似つかわしくない。元より不要だったのだろう。彼女はそれを確信すると、サタンの胸の中で目を閉じた。


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