ACT.67
かつてドラッグの取引に使われていたそこ、吹き抜けの二階部分の突き当たりは、二人の女の逢瀬を語る上で外せないスポットになっていた。
片割れの女、エドはポケットに手を突っ込み、険しい顔で対岸の壁を睨んでいた。その表情は苛立っているようにも見えるが、実際は全く異なる。隣に立つ女、ムサシは、その顔つきの理由を考えることすらしない。エドなりに複雑な気持ちでいるのは一目瞭然だった。
「してきたんですか」
「……別にどっちだっていいだろ」
「聞くくらい、いいじゃないですか」
たとえ首肯されたとしても、ムサシは動じない自信はあった。いや、動じないというよりは、折り合いを付ける自信があったと表現する方が正しいだろう。目先の関係など、この女はハナから求めていないのだ。
エドの好きなようにさせる、これが先日の医務室内で出した結論だ。言い出したムサシですら、我ながら狂った提案だったと感じているが、こうする以外に方法が見つからなかった。あのまま三人で居ても、重苦しい沈黙に耐えかねたエドが話を有耶無耶にしてその場を抜け出し、なし崩し的に今と同じ状況に陥っていた、というのがムサシの見立てである。あの日、無意味な時間を過ごさずに済んだと考えると、馬鹿げた関係の発案者になることも悪くないように思えた。
高い位置にある窓から差す光は、冬のファントムでは数少ない熱を感じられるものである。ここでは暖房の横か日差しの下くらいでしか温もれない。太陽光で得られる暖気などたかが知れているが、冷え込む所内では陽の差す場所は貴重なスポットとして、比較的健全な囚人達に好まれた。ちなみに、ものぐさな受刑者はそれすら探さず、他人の身体に暖を求めることが多い。
壁や床を白く飛ばすそれが眩しく、どこか儚げでこの場所に似つかわしくない。吹き抜けの向こう岸で、照らされる塵や埃のような何かがキラキラと反射している様を眺めながら、エドはぽつりと呟いた。
「……めちゃくちゃわがままなこと言っていいか」
彼女がこんな話を切り出せるのはムサシだけだ。
「珍しい。いいですよ」
視線を横に移すと、少し顔を覗かせているエドの耳を見た。頂の軟骨がくるっと巻き込み、それが耳朶の近くまで続いている。形が良く、ピアスの穴が空いてないのが少し意外な程、手を掛けたくなるような耳だった。
「お前といるときにあいつの話、したくない」
エドは柵に肘を置き、その上に顎を乗せて光差す方を見つめている。見惚れていたそれに触れようかと逡巡したが、結局ムサシは手を伸ばすことすらせず、エドの視線を辿りながら答えた。
「……いいですよ」
本当に、めちゃくちゃなわがままだと、ムサシは笑いをかみ殺した。しかし、それでいいとも思った。エドはクレには似たような要求をしていないだろう。というよりも、そもそもあの二人がまともに会話をしているヴィジョンが全く見えない。そう思うと、ムサシは自分が特別である気がして、気分が良かった。
「じゃあ私も一ついいですか」
「んだよ」
「クレさんとしてることは、したくないです」
柵に体重を預け、前傾姿勢になっていたエドが、ぱっと顔を上げる。見つめた先にいる女は本気だった。
「エドさんだって、私の身体が目当てな訳じゃないでしょう」
「でも、お前、それじゃ……」
言いかけて止めた。元はと言えば、どっちつかずな自分が悪いのだ。ムサシの要求を飲むことがせめてもの誠意であると信じ、エドは頷く。
「私、言いましたよね。舞さんとそういうことしたい訳じゃないって」
不意に呼ばれた本名がくすぐったい。希望は理解したものの、そんなことを言い出した理由が知りたいエドは、縋るような視線でムサシを見つめる。
「でも」
「いいんですよ。ね。いいから」
有無を言わせぬ圧力に押し負けたエドは、大きく背伸びをすると脱力して、どんつきを背に廊下を見つめた。
「……しゃーねぇ。適当に歩くか」
突然の提案に戸惑うムサシの手を引くと、エドは歩き出す。ムサシはそれに続こうとはしなかった。足を止め、その代わりにもごもごと口を動かす。
「見られますよ、人に」
「別にいい」
二人の間で、常に人目を気にしていたのはエドの方である。にも関わらず、彼女はムサシの気遣いとも言える指摘を食い気味で切り捨てた。どのような心境の変化があったのかは分からないが、それでもムサシは引き下がらない。残念なことに、思い人であるこの女は相当の阿呆である。人目に晒されることが何を意味するのか、伝えないと気が済まなかった。
「……バカにされたり」
「されねぇよ。っつかそんなん言わせとけよ」
分かっていて誘ってくれた。それを知ると、ムサシの足はやっと動いた。引かれるままにエドに身を任せていると、廊下に出たところで手が離れる。一抹の寂しさを覚えたものの、口にすることは無かった。一緒に歩いているところを見られるだけでも厄介だというのに、これ以上ネタを増やしたくはないのだろうと、エドの判断を尊重することにしたのだ。
二人は当て所なく廊下を歩く。陽が差す道は自然とたまり場になりやすいことから、人目を避ける為、暗い道を優先的に進んだ。辺りに人の気配がなくなり、しばらくしてからエドが言った。
「本当は部屋で駄弁ったり、そういうことができりゃいいんだけどな」
「すればいいじゃないですか」
ポケットに両手を突っ込みながら、エドはぼんやりと天井を仰ぐ。空から金が降ってきたらいいのに、今にもそんなことを言い出しそうな所作を、ムサシはどこか微笑ましく思う。
「あたし、どんな話していいか分かんねぇんだ」
エドの足取りは変わらない。どの道を曲がろうかと視線を泳がせている様から、目的地など無いことが窺い知れるが、それだけだ。自分という人間を淡々と語るその姿に、ムサシは胸が締め付けられる思いであった。彼女はそれがどれほど悲しいことなのか、理解していないのだ。そう考えると、息苦しさが増した。
「……施設では?」
「みんな、てめぇが何をしているのか理解していくにつれて口数が減ってった。うるさいと怒鳴られるような奴は、みんな本当のガキばっかだ。あたしは、そうだな。十一歳くらいから、ほとんど喋らなくなった」
とうとう掛ける言葉が見つからなくなり、ムサシはぽつりと謝罪した。何も悪いことをしていないというのに、それくらいのことしかできないと、己の無力さを恨めしく思いながら。
ムサシが表情を曇らせると、エドは慌てて話を切り上げようとした。
「気にすんな。な? あたしと喋っても、つまんねーよ」
「それは違います!」
突如強い口調で否定されたエドは、面食らって立ち止まる。人気の無い廊下に、ムサシの声が木霊していた。響き渡る自身の声をかき消すように、彼女は続ける。
「え、えっと。私の話は、エドさんを苛つかせてしまうかも知れませんけど……でも聞いて欲しいし、聞かせて欲しいって、思いますよ」
「……でも、話せるようなこととかねーし。マジで。毎日毎日、ここでの生活が気楽だと思えるくらい、暗い暮らしをしてた。当時のあたしはそんなことにも気付かなかったけど」
届かない。ムサシは絶望するでもなく、ただそう感じた。両親に愛され、自由を与えられ、友人と過ごしてきた経験がある自分と、特殊な過去を持つエドとの距離は無限にも思える。
もしかしたら手を伸ばす権利すら無いのかもしれない。ムサシが暗い迷夢に囚われていると、手を差し伸べたのはエドの方だった。
「てめぇもしろよ。昔の話」
顔を上げると、エドは少し先を歩いていた。小走りで後を追い、その背中に話しかける。
「さっきは話したいとか言いましたけど、よく考えたら私……ほとんど稽古しかしてないんですよ」
「んだよそれ」
そうして二人は笑い合う。
エドは寒さに凍えながら、猫背気味に歩みを進める。その足取りは適当のようで、暖を求めるようにも見えた。この先を右に曲がると食堂に続く廊下があり、人通りも多い。窓も据え付けられているので、いくらか暖かいだろう。
エドの足は自然とそちらへと向かう気がして、少し後ろを歩いていたムサシは、おもむろに真横に並ぶと、その腕を取った。
「……なんだよ」
「腕組まれるの、嫌です?」
わかれ道に差しかかる。ムサシはただ、エドをもう少しだけ独占したいだけだった。こうすれば、彼女は人気の少ない、正面の道を進むと踏んでいたのだ。
ムサシの問いに答える代わりに、エドは言う。その足は角に吸い寄せられていた。
「お前、身長いくつだ?」
ムサシは驚きを隠せない。角を曲がると、早速いくつかの人影が確認でき、それらがこちらを向いているように見えた。
エドに許された気がして、ムサシは腕に引っ付いたまま答えた。ちなみに、身長の話は彼女はあまりしたくない。
「……148センチですけど」
「ちっせぇー」
エドがけらけら笑うと、ムサシは周囲の視線がより強まるのを感じた。しかし、そんなものはどうだって良かった。言っていいことと悪いことがある。それを分からせなければいけないという使命感に燃えていた。いや、単純に怒っていた。
「なんですか! エドさんだって人のこと言えないじゃないですか!」
「あたしは150はあるっつの。お前もやったろ、名札持って写真撮るやつ。そんときに153くらいって言われた」
「むっ……!」
妙に具体的な数字を出されると、その点においては負けを認めざるを得ない。潔い武士は決して無様な散り際を晒さないのだ。こと身長以外の話題においては。
悪あがきとも思える負け惜しみを述べると、ムサシは視線を逸らす。逸らした先の囚人が明らかにこちらを指差していたが、心の底からどうでもよくなっていた。
「エドさんなんて、縮んでますよ」
「うぜぇ〜。っつかムサシより小さい奴なんているのかよ」
「は?」
ムサシは立ち止まって、横からエドを視線で刺す。ただならぬ空気を感じたエドは、おそるおそる顔を向けると、そこには切れ味の良さそうな目つきをしたムサシが居た。
「いや、違ぇかんな? B棟にって意味だかんな?」
「……さぁ、いないんじゃないですか」
言葉の意図を理解したムサシは、あっさりとそう答えると再び歩き出した。一命を取り留めたことを理解すると、エドは細くため息をつく。冷やかす声は二人には届かない。細い通路を通って近道をすると、エドは元居た場所へと向かった。
「……ずっとこうしていたい」
依然エドの腕を抱いたままのムサシはそう呟いた。
あたしも。そう言えたなら、エドはクレと、今度こそ関係を清算するだろう。しかし、何も言えなかった。
聞こえなかったふりをすれば良かったと気付いたのは、何かを言おうとムサシと目を合わせたあとのことだった。
「いいんですよ、別に」
「……悪ぃ」
「自分でしたくないって言ったくせに、あの人のこと考えてる」
自分を選べなかったことよりも、ムサシはそのことを責めているようだった。張りつめた空気が限界を向かえた頃、二人は例の吹き抜けに戻ってきた。
行き止まりまで辿り着くと、ムサシは振り返って壁に背を預けた。そうしてエドの名を呼ぶ。本名を呼ばれ、真っ直ぐと射抜かれ、エドはただ突っ立っていた。
まだ怒っているとアピールするように、わざとらしく口元をへの字に歪めているムサシを見つめる。無言で腕を広げられ、ようやく意図が分かって、少し笑った。
躊躇って見せたのは、自分にそんなことをする資格があるのか、と思ったからかもしれない。
エドはムサシと壁の間に手を滑り込ませると、しっかりと抱き寄せた。鼻腔をくすぐるその匂いを、何故だか”正しい匂い”だと思った。
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