ACT.68

 エラーは棟長室を訪れていた。そこにはいつものように淡々としていて、どこか飄々としている女はいない。その面持ちから、恐らくはよくない話を聞かされると覚悟していたセノは、彼女が語り出すのを静かに待った。


 彼女は何も言わない。それでもセノは根気強く、短く刈り上げたその頭をたまに掻いては、ココアから立つ湯気を眺めて時間を潰す。

 彼は断じて暇などではない。不穏な動きがあると、上司である施設長に漠然とした危機を伝えられていたのだ。秘密裏に進めなければいけないことが山ほどあった。そもそもどういった種類の危険なのか。それすら知らされていなかった為、対処に照準を絞る事もできない。

 情報の漏洩、見過ごせないドラッグの取引、囚人の暴動。少し考えるだけでも、様々な危機が思い当たったが、彼は文句一つ言わず、粛々とその命を受け入れたのだ。


「あのさ」

「……なんだ」


 やっと口を開いたかと思えば、彼が告げられたのは、曖昧な施設長である男の発言など霞む程の言葉だった。


「……私、多分ボスやめる」


 意味が、理解できない。何を言っているのか。目の前の女が誰か分からなくなるほどの衝撃をその身に受け、ただ女の顔を見て、確かにエラーであると確認するのがやっとだった。

 セノの知るエラーは、まるでここのボスになる為にやってきたような女だった。どんな問題にも冷静かつ冷酷に対処し、ごく稀に情を見せる。そのさじ加減が抜群に上手い。彼女以上の適任など、いる訳がない。セノはエラーを非常に高く買っていたのだ。


「……! なっ、お前!」

「ごめんね。セノとの仕事はさ、結構楽しかったよ」


 もう心は決まっていると言わんばかりにエラーは笑う。見たことのない、非常に穏やかな顔で。

 セノが危惧しているのは彼女を失うことだけではない。ボスをやめる、その際には必ず混乱が生まれる。いや、混乱と呼ぶのも生温いような混沌が。

 ハイドとナルシスがここでのうのうと生きていられるのは、奇跡のようなものである。自らボスを降りると言ったボスはリンチに合う。これはファントムの慣習のようなものである。件の二人は暫定的な立場であったことと、エラーに手酷い目にあったことで、それを免れたのだ。

 悪習であるとセノは思っていたが、エラーがボスを降りることを抑止力になっている可能性があるならと、これまで改めさせようとしたことはなかった。


「お前、死ぬぞ」

「うん。別に、いい」


 それよりももっと早く、死ぬ予定が出来た。エラーは心の中でそう続けた。死んだ後のことなんてどうだっていい。わざわざボスを辞めると事前に彼に告げたのは、数年間タッグを組んできた彼への義理を通す為に他ならないのだ。


「何故だ」

「疲れた」


 理由を聞くと、セノは鼻で笑った。


「はっ。お前がそんな平凡なこと、言うもんか」

「本当だよ。前から思ってたけど、セノって私のこと、大好きだよね」

「そ、そうか?」


 囚人にそのような感情は抱かない。彼は本土に妻と子供がいる。仕事の詳細を告げられずにもどかしさを感じてはいるが、何も聞かずに人生を共にすると心を決めた妻と、仕事熱心な父を尊敬してくれる息子を持つ、幸せな男である。浮ついた心など、あるはずがなかった。

 しかし、セノは簡単にエラーの言葉を否定することはできなかった。彼女の指摘に心当たりがあるのだ。そう、彼は仕事仲間として、エラーのことを好いていた。人に嫌われることも、時には傷付ける事も厭わない。実直な仕事ぶりは十分評価に値すると、感じていたのだ。


「うん。期待してるって、わかるよ」

「まぁ、否定はしない」


 二人の表情は穏やかだった。まるでセノの子供の話でもしているかのような顔で、B棟の今後を左右する大きな話をしている。そして、それはあっさりと終わろうとしていた。


「俺が言っても、聞かないんだろうな」

「分かってんじゃん」

「まぁな」

「何年一緒にやってきたと思っている」


 エラーは歯を見せると、セノはまた頭を掻いた。


「私もさ、セノのこと、結構好きだったよ」

「それは光栄だ」


 エラーは息を飲んだ。初めてセノが笑ったところを見たのだ。もっと笑えばいいのに。率直な感想を告げて立ち上がると、もう振り向かなかった。


 ドアまで歩き、ノブを回して扉を引く。部屋を出る直前、ぽつりと言った。


「じゃあね」

「……またな」


 またな。その言葉に、エラーが返事をすることはなかった。最後の最後で、嘘をつきたくない。エラーは心のどこかでそう思ったのかもしれない。



*****



 B-4区画、弐の部屋では小柄な女が鬱陶しそうに、その金髪をぼりぼりと掻いていた。その下には組み敷かれた女がおり、何かから逃れるようにじっと壁を見つめている。


「なぁ、もういいだろ」

「……悪ぃ」


 うんざりした様子で金髪の女、エドは視線を合わせようとしない女の上から退くと、そのままベッドの縁に座った。痩躯を横たえたままの女、クレは動かない。エドはその背中に、恨み言のような罵声を浴びせた。


「てめぇに付き合わされてこうやって微妙な空気になって、その度にあたしがどんだけ惨めか考えたことあんのかよ」

「……悪い」


 エドの声は明らかに怒気を孕んでいた。自分勝手で他人の気持ちなど一切考えない女の要求は、確実に彼女の尊厳を傷付けていたのだ。そして、それに絆されている己の愚かさにも腹が立っていた。


「謝ってばっかだな、てめぇは」

「オレ……」


 二人は今しがたまで肌を重ねていた。自分で抱く方が性に合っているかもしれないと宣っていたクレだが、その言葉とは裏腹に、エドに触れられる事を望むことがあった。二人に気まずい空気が流れるのはもう四度目である。止せばいいのに、利口な誰かが彼女達の愚行を知っていれば、きっとそう助言したであろう。しかし、如何としても解決したい問題に対し、クレが諦めることはなかった。

 包み隠さずに言うと、クレはエドとの行為で身体が思うように反応しないのだ。問題は、エドが相手であることなのか、エラーが相手ではないのことなのか、はたまたエドのそれが至ってノーマルであるからなのかは分からない。

 クレは正解を分かっている。ただ、それを認めたくない気持ちから、こうしてエドを巻き込んで現実から目を逸らし続けているのである。しかし、それにも些か疲れた。打開策が頭の中で漂っていることには最初から気付いていた。最初というのは、今日ではなく、初めて二人の間に妙な空気が立ち込め、この問題が露見した時からである。

 下らない茶番だ。クレは自身の策に、胸中でそう吐き捨てた。それでも、いつまでもこのままでいる訳にもいかなかった。クレは身体を起こすと、エドへと向いた。


「っつーか、てめぇが下手クソなんだろ」

「あ?」


 自分がドサドの誰かの普通に慣らされた変態なら、もうそれでいい。クレは腹を決めると、分かりやすくエドを煽った。

 体を売ることを文字通り生業としていた女に”下手クソ”とはよく言ったものである。これほど分かりやすい挑発に乗る女など、いくらここが、頭のネジが出荷当初から数本足りていなかったような女達を収容しているファントムと言えど、片手で数えるほどしか存在しないだろう。そのうちの一人がクレを睨み付けている訳だが。


「んだとてめぇ! てめぇに言われたくねーよ!」

「あ? オレって下手なのか?」

「あぁ!?」


 もはや内容などどうだって良かった。この期に及んでクレは淡々としている。それがエドを激昂させた。そもそも馬鹿のような性行為のせいで、まともに感覚が機能しなくなっているのは彼女の方だ。エドの怒りは尤もである。

 しかしクレは反省もせず、挙げ句に人のせいにして、謝罪も無しにただ首を傾げている。


 言葉を発するより早く、クレの顔面を拳で撃ち抜く。対話の必要性をエドは既に感じていなかった。

 無様にベッドに背をつけたところに飛び乗り、左手で首を掴む。エドは自身の体重をその手に掛けて、鼻で笑ってクレを見下ろす。


「あー分かった。わぁーったよ。てめぇが上手いと感じるように抱いてやるよ」


 そう言って、乱暴に胸を鷲掴みにする。エドは、ドラッグを盛って初めてクレに暴行を働いた時のことを思い出していた。思えばあの時もこんな風にしたな、と気付くと、数カ月前の自分をトレースしているような気持ちになった。

 当時、クレは静かに涙を流していた。悲しみの中にも幾許かの悔しさを滲ませ、何もできない自身を呪うような気配を感じさせた。だというのに、今はどうだ。先程までとは打って変わって、明らかにクレの身体は悦んでいた。

 彼女の身体についていた傷から、行われた行為を逆算する。爪を立て、噛まれたような傷が身体中にあった。何が楽しくてエラーがそうしたのかは分からないが、エドは見様見真似で思いつく限りのことをした。

 そうして足の付け根に手を伸ばすと、指先が濡れた。それが何を意味するのか、考えるまでもない。息を荒くして、顔を赤らめるクレなど、エドは見たことがなかった。だというのに、これっぽっちも嬉しくない。


 いや痛ぇだろ。喉まで出かかった言葉を飲み込み、次なる責めを心待ちにする女を見下ろす。

 ただの特殊なドスケベじゃねぇかと軽蔑の視線を投げ付けると、エドはやっとクレに一芝居打たれたことに気付いた。


「……萎えた」

「あ……?」

「ちくしょう。あー……ちくしょう。てめぇ、最初ハナっからあたしを煽ってたな」


 そう考えると、一転してふてぶてしい態度を取った理由にも納得がいった。エドは頭をぐしゃぐしゃと掻きながら小さく呻く。怒り以外にも感じるものはあったような気がするが、それを認めるのはあまりに癪で、結局エドは小さく吐き捨てた言葉に全てを込めた。


「ふざけやがって」

「待っ……」

「……んでだよ」


 エドは自分の中で渦巻く激情に、今にも浚われそうになっていた。理由の所在が本人にも分からず、それが居心地の悪さを一層引き立てた。

 エラーに体を作り変えられてしまったクレが哀れだった。見えない枷を付けられたようで鬱陶しい。そうしたエラーが羨ましくてたまらない。一瞬ムサシの顔が脳裏に浮かんで、エドはキレた。


 加減など彼女は知らない。

 どこぞのド変態のように上手くできるかは分からない、こちとら至ってノーマルだ。ただ殺してやりたい気持ちでなら負ける気がしない。

 エドは怒りを滾らせ、片手でとはいえ、力任せにクレの首を締めた。枕に頭を押し付けられる格好となったクレに逃げ場はない。元より、彼女に逃げる意志など無かった。

 血管に働きかけるような触れ方のエラーとは違い、彼女は気道ごとクレの首を圧し潰すように力を込めた。血流がゆっくりと引き潮になるような、いつもの具合とはまるで違う。息ができない苦しさよりも痛みが先に立つ。だというのに、クレの身体は易々とその痛みを受け入れた。


 クレの反応が明らかに変わる。反比例するようにエドのフラストレーションは堪っていく。空いた方の手がクレの中に侵入すると、これまでとは別人のような具合だった。

 根元まで咥え込ませても何の抵抗も感じない、むしろ誘うように指が沈み込んでいく感触すらあった。上半身の体重を首に置かれた片手で支えながら、エドは憤る。

 まるでエラーを代わりをさせられているようだ。ムカつく。ふざけんな。これじゃてめぇのオナニーを手伝ってるだけじゃねぇか。彼女は去来したそれら負の感情を、そのまま首を握る力に変えた。


「なぁ、あたしの名前、呼んでみろよ」


 口をついて出た言葉に、エドは苦虫を噛み潰したような表情を見せる。口にしてしまった以上、返事を期待する気持ちも生まれたが、クレは達するまで、言葉らしい言葉を何も発しなかった。


 呼吸を整え終わる前に、エドはクレから離れて膝を抱えた。馬鹿みたいだ。こんなの普通じゃない。今更普通がどうこう言う権利がないのは分かっている。それにしたって、こんなのあんまりじゃないか。

 エドの手のひらには、細い首を絞めた感触がまだ残っている。こんなこと、したくない。想い人を傷付けることを良しとしない至極まともな女は、今にも泣き出しそうである。歯を食い縛り、喉の奥に広がる衝動をなんとか噛み殺した。

 逃げ出したいが、安息の地など何所にもない。枕に視線を移すと、そこには微睡むように蕩けた表情の女が浅い呼吸を繰り返しながら、取り留めもなくどこかを見つめていた。


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