ACT.69

 ファントムにはかつて、小さな図書室が存在した。しかし、ここに収容されるような人間で、読書を好む者は稀である。ドラッグの取引や、レイプやリンチのスポットとして使われるようになってから、つまりはかなり初めから、そこは一般的な図書室として機能していなかった。程なくして図書室は職員専用の準備室へと姿を変え、所蔵されていた本は行き場を失ったのである。

 ほとんどの本は廃棄されたが、職員が頻繁に出入りする区画の近くに、百冊程度の生き残り達がいる。腰ほどの高さの本棚が三つ並んでおり、そこを新たな住まいとして久しい。

 ここの受刑者達が借りたものをまともに返すとは思われていなかったのだが、少なくとも本を読みたがるような者は、最低限の礼節を弁えている者が多いらしい。返却率は職員の想像以上に高く、最近では本土で調達した文庫本や新書をこっそり追加する職員まで現れた。それはこの施設の中で最も健全な、囚人と看守のコミュニケーションと呼べるかもしれない。


 ムサシはそれを楽しむ者の一人であった。この度追加されたのはミステリー小説らしい。彼女は読み始める前に、奥付のページを開く。666と手書きの文字を確認すると、小さくため息をついた。

 誰が始めたのかは分からないが、借りた本に囚人番号を振るのは、読書を嗜む受刑者の暗黙のルールとなっていた。おそらくは自身が読んだことを見分ける為の、ただの目印だったのだろう。しかしそれが広まり、この掃き溜めのような空間で、律儀に規則を守る者が一定数存在するのだ。ムサシはそれを嬉しく思い、同時にこの文庫に一番乗りできなかったらしいという事実に肩を落とした。

 よく見かける666という数字を持つ女を、彼女も知っている。夏の間はムサシが先んじることもあったが、冬になると本を借りる度に”666”という数字と対面していた。かつてエラーから聞いた話では、冬期は花壇の世話がないので、本を読む時間が増えるのだと言っていた。

 そうして居住まいを正すと、やっと表紙を開く。隣で何度目とも分からない呻き声を聞きながら。


「何かありました? って聞いた方がいいです?」

「……いや、いい」


 その日、夕食を終えるとエドはある場所へと足を向けた。入浴日でもなかった彼女が迎える本日のイベントは、消灯前の点呼くらいだったのだが。退屈を蹴り飛ばすように、ムサシの部屋を訪れていた。そうして何をするでもなく、ムサシの隣に座り、時折深くため息をつくというサイクルの真っ最中である。

 初めのうちは心配して声を掛けたムサシであるが、どうせ考えているのはクレとのことだろう、話したがらないのならできることは無いと、あえて普段通り過ごすことにしたのである。そして手に取ったのが、棚にあった文庫であった。


 何かあったか。この問答は三度目である。その度にエドは覇気なく適当な言葉を返した。

 薄いページを捲り、冒頭の数行を追ってみたが、全く頭に入ってこない。目が滑るような感覚に見舞われ、やはりこの状況で読書するというのは無理があったようだと、頭の片隅では分かっていたようなことを身を以て実感してエドに向いた。


「せっかくなんだから楽しい話でもしましょうよ」

「こんなところでか?」

「それを言ったら、出所するまで笑えないじゃないですか」

「まぁこんなところにブチ込まれる時点で相当笑えねぇかんな」

「年単位で鬱屈としてなきゃいけないなんて、性格変わっちゃいますよ」


 ムサシはただ正しくシンプルな理屈を用いて、ひねくれたエドと対峙する。しかし、エドが当惑の色を見せているのはそのせいではない。彼女は、ムサシは強いと、敬意を込めて見直していたのだ。

 入所からずっと、心から慕っていたササイという女が居なくなってからまだ間もない。エドは彼女のような執着を他人に感じた事は無いが、仇討ちに殺人も厭わぬほど大切に思う人が、手の届かないところに行ってしまう人間の、心中を察するくらいのことはできた。

 気丈に振る舞うムサシと目が合うと、エドは自身を少しだけ情けなく思った。何故このタイミングで、それを伝えようとしたのか、本人にもよく分からない。気が付くと口がもごもごと動いていた、としか言いようがなかった。


「……舞?」

「なぁ雅。例えば、あたしが」

「嫌」

「あぁ?」


 ムサシは聞きもせずにエドの言葉を遮る。突然の対応に、反射的にエドは隣の女を睨み付けた。しかし、鋭い視線は困ったような笑みにいなされてしまう。


「今、クレさんの話しようとしたでしょ」

「違ぇよ」

「分かるよ。いつもと表情違うもん」

「……マジであいつは関係ねぇよ」


 何を言おうとしたのか、この流れでムサシが察することはほぼ不可能である。エド本人ですら、何故それを告げようとしたのか説明ができない程なのだから。

 しかし、ムサシは表情だけでクレの話だと判断し、それ以上聞くのを拒んだのだ。これが何を意味するか、エドは朧げに理解していた。敬語とため口が入り交じる言葉に、僅かな気恥ずかしさを覚えつつ、全てを振り切るように、本の上に置かれたムサシの手を握る。腹を括ってみると、言葉は存外簡単に口を突いて出た。 


「お前は嫌だって言ったけど……あたし、やっぱしたい」

「……は?」


 想定外の言葉にムサシは固まる。いくらデリカシーの無いエドとはいえ、これを冗談とするほど人として終わってはいないだろう。疑う気持ちはほとんど無かったが、顔を見て真剣な発言であることを確認する。ムサシにとってはそれくらい信じ難い言葉だったのだ。

 しかし、エドはその反応を拒絶として解釈する。きっとまた自分が怒らせるようなこと言ったんだと、以前叱られたことを思い出しながら俯いた。


「ちっ……はぁ……言わなきゃよかった」


 落ち込むエドを尻目に、ムサシは頭の中を整理して考え始めた。クレに向けたものであると見間違えた表情で、エドは自分を抱きたいと言った。形勢が傾きつつあるなら、これほど喜ばしいことはない。諭すような声色で、エドに問いかける。


「どうして?」

「だって、お前、変な顔するし」

「そうじゃなくて」


 ムサシの問いに対して、エドは”言わなければ良かった”という言葉についてであると解釈したようだ。会話が噛み合わないことに気付くと、ムサシは改めて言い直した。


「なんでしたいなんて言うの? 前に言ったでしょ。別にしたくないって」

「あのときはそうだったんだよ」

「なにそれ」


 ムサシはくすくすと笑い、エドの肩に頭を乗せた。しかし、エドの心中は穏やかではない。相手にされていないような気がして、立つ瀬が無かった。

 エドとて、このまま引き下がるつもりは毛頭ない。道理や理屈で動くのは得意ではない彼女は、もっと単純なものを原動力にしていた。


「なぁ」


 エドはムサシの顔を覗き込む。鼻先が今にも触れそうになったが、前ほど気にならない。むしろ、エドはそうなることを望んでいた。自身の変化に戸惑いつつも、それを受け入れるように声を発する。


「あたし、聞いたんだ。やぶさかじゃないって、言葉の意味」

「……そうだったんですか」


 それを聞くと、ムサシはエドが何故こんなことを言い出したのか、少しだけ分かった気がした。自分が何をすべきかを理解し、目を細める。


「だから」


 ムサシはエドの顎を、優しく押し返すように制止する。そして人差し指でエドの唇に触れた。


「……んでだよ」

「舞があのときと違う気持ちだったのは分かったよ。でもそれは私も同じ」


 無理矢理にでもやればいい。過去のエドはそう考えたかもしれない。しかし、柳 舞として彼女と対峙している女はそうではなかった。

 諦めて顔を伏せてみせると、ムサシの胸に縋るように抱きついた。


「んでだよ……訳わかんねぇ……」

「さぁ。私も」


 だって、しちゃったら他の人と同じだ。

 ムサシはエドには伝えられない本音を、心の中で呟いた。


 彼女のその肌に触れるほど気安いことはない。名前も知らぬ他人とすら床を共にし、対価として金銭を受け取ってきた女だ。

 ムサシにはなんとなく分かっていたのだ。自分とエドが結ばれないということを。気付いたのは昨日今日ではない。クレを交え、医務室で三人で話をした時に確信した。

 エドは無自覚だろうが、これは甘やかす側の人間だ。ムサシも同じ。恋敵がどこまでも甘ったれなクソ女となれば、ムサシにとってこれほど分が悪い相手はいない。


 ならばせめて、彼女の特別になりたかった。エドがこれほどありのままの自分を見せられる相手など、他にいない。彼女は既に特別なのだ。それくらい分かっている。だけどまだ足りない。ムサシは貪欲に、エドに求められる事を求めた。


「なんでしたいのか、言ってよ」

「……分かんねぇ」

「そうなの?」

「分かんねぇけど、雅の声が聞きたい、体に触りたい。多分あたしは、お前のこと、全部知りたいんだ」


 エドはムサシの胸に頭を擦りつけるように身じろぎする。抱きたい、抱かれたい、よく分からない。だけど、エドが望む事ならなんだって許したかった。ムサシはそうとだけ言い、その頭を撫でた。


 この女は気付いていない。クレと自分を天秤にかけて、本当にその重さが釣り合っていると思い込んでいる。クレとは嫌な事ばかりで衝突が耐えないというのに、それでも肌を重ねる事の意味を、分かっていないのだ。

 ムサシは本人よりも先にそれに気付いてしまった。ただそれだけのことだ。だから、爪痕を残そうと、目先の欲求を抑え込んでエドと向き合える。


「うん。嬉しいけど、もうちょっと待って欲しい」

「無理だ、今がいい」


 吐き出された真直ぐな要求に、ムサシは驚いた。まさか、これほど性急にエドが体を求めてくるは思っていなかったのだ。


「なぁ、雅」

「……駄目だってば」


 エドは今にも泣きそうな顔をしていた。慰められるのは地球上で自分しかいない。ムサシはそれを確信すると、胸の中が暖かい何かで満たされる気がした。

 エドは止まらない。ムサシを押し倒すと、耳元に口を寄せて名を囁く。耳に息がかかると、ムサシは己の決断が酷くくだらないものに感じた。流されそうになった寸前のところで口を開く。


「もし今するなら、私はもう舞には会わないし、今までのことも全部なかったことにするから」

「んでだよ……そんなこと、言うなよ……」


 ムサシの発言で救われた者は誰一人としていなかった。本人ですら、口にした事を愚かしく感じる程に、理のない言葉に思えた。


「ねぇ」

「なんだよ」

「私のこと、本当に好きならもう少し我慢してみてよ」

「……もうした」

「もっと」

「……お前、結構ひでぇな」


 切羽詰まった表情を見ていると、ムサシは不意に、それがすごく不思議なことに思えた。自分は何もしていない。にも関わらず、彼女は顔を上気させ、熱っぽい視線で縋るように見つめてくる。開いた口からは犬歯が覗き、何かを言う度に舌が動いた。


「なぁ、ちょっと、触るだけ」

「嫌だってば。舞のスケベ」

「……もうそれでいいから。なぁ。頭おかしくなりそうなんだ」

「だめ」

「……あたしに触られるのが嫌なのに、あたしのこと好きって、おかしくねーか?」


 焦らされ続けたせいか、遂にエドはムサシを責めた。しかし、エドの言葉は間違いだと言い切れるほどおかしいものではなかった。好意を抱いているというのであれば、拒む理由はない筈なのだ。


「本当のこと言ったら、我慢してくれる?」


 可愛らしく語尾を上げるムサシの問いに、エドは答えられなかった。

 彼女は「もしかして、愛想を尽かされたのか」と肝を冷やしていたのだ。前ほど好きだと思えないから時間を欲しいと、そう言われてもおかしくない状況ではある。

 心の片隅には、誰かに引導を渡され、この泥沼のような状況を強制的に終わらせてくれることに、安堵するような気持ちもあったかもしれない。


 気が付くと、エドは「分かった」と声に出していた。やけに掠れた自分の声が妙に耳につく。


 しかし、ムサシはエドの期待と予想を裏切り、底なし沼よりと性質たちの悪い泉へと彼女を迎え入れた。脱出しようと藻掻くことすら許さず、粘度の高い水のような何かが体にまとわりつく。口から侵入したそれは同じように彼女を弄び、外と内の両方から身体を蹂躙する。ムサシの告げた言葉はそういう類のものだった。


「私ね、舞としたいよ。舞が触りたいところ全部触って欲しいし、したいこと全部されたい。舞にだったら、めちゃくちゃにされてもいいよ」

「なっ……は……?」

「言ったよ。だから、我慢してね」

「うっ……そだろ……てめぇ……」


 ムサシはエドの頭を抱きよせると目を閉じた。髪の感触を確かめるように手に絡めると、ゆっくりと息を吐く。

 エドは観念した。いま自分にできることは、このまま目を閉じてムサシの心音に耳を傾け、点呼の前に部屋に戻る。それしかないのだと確信させられたのだ。


 優しい浮遊感に身を委ねながら、ムサシは短い眠りに就くことにした。意識を手放す間際、エドへの言葉が頭の中に響いた。それは、愛の囁きのようでも、呪詛のようでもあった。


 いつまでもあなたの中の私は生き続けて。

 忘れようと思っても忘れらんないくらい。

 そうして、舞と一緒に死んだらいい。

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