ACT.65

 窓の外には粉雪がちらついていた。ファントムの敷地内に雪が降るのは決して珍しいことではない。むしろ、晴れた空を確認できた日には、比較的過ごしやすい一日になるだろうと、胸を撫で下ろす者もいるほどだ。

 本日は厚い雲が陽を遮り、まだ昼だというのに、所内の一部は照明が必要なほど陰っていた。その暗さが囚人達にも伝染したのだろうか、建物全体が昏い雰囲気を湛えている。普段は壁に寄り掛かって雑談をする囚人の姿が見える廊下も、その足を止める者はいない。誰もが作業場や自室へと、足早に目的地を目指している。


 しかし、朝の点呼を済ませてから食堂にも行かず、部屋に籠りっぱなしの阿呆二人は、所内全体がどことなくどんよりしている、などという事を知らない。興味もない。何せ、視線を少し外せば見えるはずの雪にすら気が付かないのだ。部屋の外のことになど、気が回る筈もなかった。

 冬季特有の鬱屈とした雰囲気など、微塵も持たない。寒さどころか、女達が感じていたのは熱だ。どうしようもない熱が、吐き出しても吐き出しても、内から沸き上がってくる。白い息となってそれは目視できる形で空間に現れるが、温度を上げる事もできず、無意味な存在のまますぐに消えた。

 首の横をするりと通り過ぎて、項にかけられる手は、この寒さの中でも汗にまみれていて滑りそうだった。指先に力を込めて見ると爪がその柔肌を抉ったような気がしたが、確認をする余裕などない。絡まる舌の音に、内側から弄られ意味深に蠢く作業着。衣擦れと吐息と、それらに呼応するようにベッドのスプリングがたまに鳴った。


「昼飯、もう時間過ぎたか」

「知ら、ね……気になるなら、てめぇが見てこい、よ……」

「エドが行かねぇなら、オレもいい」


 エドの体に埋まっていた二本の指が、更に根本まで挿し込まれる。中指と薬指が中で折れると、嬌声が漏れた。クレはそれを聞くと、楽しげに目を細めた。


「オレ、どっちもイケるんだな。この間お前とヤッて確信した」

「は、はぁ……? んの話だよ、急に……」

「抱く方と抱かれる方の話だよ」


 問い掛けに対する回答はあったにも関わらず、本人は会話どころではなかった。エドはクレの指に翻弄され、艶かしく腰をくねらせては快楽を貪っている。

 商売で散々自身の体を使っていた彼女だが、雑談もできないほど行為に没頭するのは稀だ。未だかつてなかったと言ってもいい。とにかく余裕が無かった。クレの首を掻く指先が、それを証明している。


「お前もそうだろ?」


 首に爪が刺さる程度、エラーの責めで慣らされたクレが気にかけるはずもない。答えられないと知りつつも、彼女は無遠慮にエドに問いかけた。




「あたしは多分、抱かれる方がいい」


 エドがそう答えたのは一際大きな波を迎え、呼吸を整えた後だった。かなり時間が空いたため、唐突に告げられたその言葉の所以を、クレはすぐには理解できなかった。ふぅん、そう言って指を引き抜くと、クレはエドの隣に体を横たえる。

 あまりにも無配慮なその問いに、エドは今更ながら苛ついていた。どっちもイケる、どの口が言うんだよ、と。


 実を言うと、二人がこの形に落ち着いたのは今日のことだ。ムサシを交えた奇妙な三者面談の末、その彼女の提案により、各々が好きにすればいいという結論を導き出した日の夜。エドは人目を盗むようにクレの部屋を訪れた。

 何かが始まりそうな雰囲気を互いに感じる中で、両者がそれを意識しすぎていて上手く切り出せない。過去に二人がしてきたことを考えると、この程度のことで足が縺れるのは、ちぐはぐとしか言いようがないのだが。

 何かを言いたくて言えない自分にも、上半身を起こしたまま布団から出ようとしないにも腹が立つ。そうしてエドは言葉を放棄したのだ。どちらが上か、そもそもそういった取り決めが必要なのか。そこからエドは分からなかったが、過去に抱いた体だ、全く勝手が分からないという事もない。

 しかし、それからしばらくして、二人はそれぞれ俯いていた。腰から下のみに布団をかけ、裸体の上から作業着を肩にかけるという、妙にフィティッシュな格好で膝を抱えているのはクレだ。エドは気まずいような苛立っているような複雑な表情で、自身の指を舐めていた。ぴちゃぴちゃというはしたない音は場違いで、どこか滑稽でもある。

 クレは顔も上げずにただ一言、汚ぇからやめろ、とだけ言った。もちろん、それを聞き入れるエドではない。うるせぇと返すと、一際大きく水音を響かせた。

 要するにクレはこの時初めて、エラーとの行為の後遺症に気付かされたのである。全く何も感じないという訳ではない。ただ、エドとのそれは決定的に物足りなかった。


「……指、ふやけてやがる」

「そりゃあんだけヤりゃあな」


 経験があるのか無いのか。なんとも間抜けでアンバランスな感想を鼻で笑うと、エドはクレの胸元に顔を寄せて、背に腕を回した。本人が気色悪いと一蹴しそうなその所作にクレは目を見開き、しかしそれを口にすることはなかった。


「……ムサシ、いいのかよ」

「……聞くなよ」


 柔らかい髪の感触がクレの胸元に留まり、互いに声を発せず惚けている。エドは呼吸の音しか聞いていないし、クレはそれに加えて規則正しく胸にかかるエドの息しか感じていない。

 そうやって何十回か呼吸というサイクルを繰り返した後、ようやく二人は今日という日の冷え込みを感じた。おい、寒ぃぞ。クレにはどうしようもないようなクレームをつけると、エドはもぞもぞと更に布団の中に深く潜る。

 クレは自分が同じことをすれば、足が布団から顔を出しそうだと思った。チビにしか為せないだと内心で彼女をからかうと、その体を軽く抱き締める。薄くてそのくせ狭くはない肩を、まるで男のようだと思う。熱を吐き出したかと思えば、貪欲に熱を求めるその女性は、これほどまでに女なのに。

 ついさきほどまで、彼女が女性であるからこそ存在する器官を本能の赴くままに蹂躙した自分がそんなことを考えるのがなんだかおかしくて、熱に浮かされたようにクレは呟いた。


「なぁ」

「んだよ」

「例えば、オレがお前と付き合うからムサシと関わるなって言ったら、そうするか?」


 寒い、エドは改めて思った。しかし、他人である以上、肌という隔たりが存在する。これ以上近づくことはできない。彼女はそれをどこかもどかしく感じながら、あまりにも自惚れたその質問の答えを、目の前の鎖骨を噛むことで返した。


「いってぇ!」


 随分と可愛らしくない声を上げて、クレは軽く上を向く。偶然格子に遮られた小窓が視界に入り、そうしてようやく、雪が降っていることに気が付いた。あぁ雪だ、言う間もなくエドが吐き捨てる。


「お前、あたしがそうするって言うと思ってんだろ」


 馬鹿にしやがって。そう続けると、エドは大きなため息をついた。しかし体は離そうとはしない。図星をつかれて何も言えなくなったクレに、エドは追い打ちをかける。


「お前ってそうだよな」


 軽蔑するような声色。いや、実際エドはクレを軽蔑していた。自分を強く求める訳でもなく、ただ拒絶されないのを知っていて、決して自分が傷つかないところから、甘い汁を啜ろうとしている。

 あまつさえその対象の気持ちを推し量ろうとしているのだから、実にいやらしい。上手く言語化はできないが、エドの心にはそんな気持ちがあった。


「おい、今のうち言っとくぞ」

「んだよ」

「ムサシに手ぇ出したら、マジで殺すからな」

「なんでそういう話になるんだよ」


 何故そう言われたのか、理解が及ばないクレは突然向けられた殺意にたじろぐ。エドは大真面目だった。おいとドスの利いた声で約束を催促する。成す術もなく、クレは分かったよ、とする必要のない返事をした。

 雪が降っている。彼女はそれを告げる機会を完全に失い、一人窓の外を眺め続けた。

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