ACT.64
淀んだ空気の中で目を覚ましたのは数時間前のこと。エラーは気が付いてからずっと、自室に篭り、ベッドに横たわり続けていた。血に塗れたシーツも、寝癖で乱れた髪も、今の彼女にとっては取るに足らない些細なことでしかない。気怠げに辛うじて目を開け、無機質な壁を見つめていた。
二時間ほど前、ハイドとナルシスが顔を見に来た時は、エラーの顔が湛える不健康さに驚愕していた。誰にやられた? という問いには思わず吹き出したエラーだが、誤解をした二人に非はないだろう。
ノックをする習慣がないハイドだからこそ、クレとサタンに続いて、エラーの左手首の創傷を直接拝むことができたのだ。いつもはノックくらいしろと咎めるナルシスも、この時ばかりは「お前の悪癖が役立つ事もあるんだな」と一応褒めた。
「あー……いったい……」
横たわったまま、手首を視界に収める。酷い傷だ。ここが娑婆であれば、誰が見ても医者に行けと言いたくなる程の怪我であった。もはやリストカットと呼ぶのも生温いかもしれない。皮肉なことに、じくじくと痛むその傷口が、彼女に”お前はまだ生きている”と教えていた。おそらくは一生消えない痕となり、体に刻まれることだろう。
最近のエラーがボスの特権を利用することなどほとんどなかった。当番を誰かに肩代わりさせてはいるが、それはボスだけに許される行為ではない。新入りに面倒な役割を押し付ける受刑者は少なくないのだ。
エラーが自らの身体を傷付けるようになった要因、それはあまりにも自分勝手な振る舞いに対する帳尻合わせである。つまり近頃の彼女の行動は道理に合わない。しかし、本人はそのことには気付いていない、というより、元の理由などどうでもよくなっていたのだ。いつからか、自傷行為はサタンに甘やかしてもらう為の切符へと成り代わっていた。
起き上がる気力が湧かない日が増えたせいで持て余し気味ではあるが、こんな身体になっても、エラーとクレの関係は細々と続いていた。クレは会う度に、エラーの手首をちらりと見た。そうして必ず、責めるような同情するような顔をするのだ。
エラーはその視線に内心うんざりしていた。彼女が心から会いたいと思えるのは、サタンのみとなっていたのである。
彼女だけはいつも快く自分を受け入れてくれる。もし、そうしてもらえないことがあったなら、自分が何かをやらかしたということになる。そんな偏った考え方を抱くほどに、エラーはサタンを盲信していた。
彼女がそう感じるのも無理はない。厄介な事に、サタンは日毎優しくなっているのだから。その所以をエラーは知らない。本人は甘えた分だけ返してくれていると解釈しているが、実際は違う。ターゲットの死が近づけは近付く程、彼女は優しくなるのだ。
「生理なんて、要らないんだけど……」
エラーはそんな事情も露知らず、手首の痛みに加え、腰痛とも戦っていた。おそらくは一生関わることのない機会への準備。凝りもせず毎月それを欠かさない愚かな身体を、彼女は常々忌まわしく思っていた。
新しい命なぞもちろんのこと、今のエラーは、自分の生を望んでいるかも分からない有様なのだ。もし誰かが自分の死に意味を見出すことができるなら、その意味に価値を感じたなら、手放してしまうかもしれない。それほどに今の彼女は危うかった。その誰かになり得るのは、サタン以外に存在しないのだが。
死にたいと願っている訳ではない。しかし、これほど厄介な運命を背負ってまで生きなければならない理由が、エラーには見つからなかった。
深くため息をついてみても、体調は良くならない。寝返りを打つことすら億劫である。寝れればいい。エラーはそんな希望を抱いてゆっくりと目を閉じた。
直後、ノックの音が響く。ハイド達が顔を出したことを思い出し、エラーは今日はよく人が訪ねてくる日だと、できることなら一切動きたくない己の不運を嘲った。
身体を捻ってドアの小窓を見やると、そこには確かに人影が映っていたが、よくは見えない。
どうやら起き上がらなければいけないらしい。たったそれだけのことにエラーは絶望しながら、ベッドに手を付く。しかし、ノックの主はドアを開けて、そっと足を踏み入れた。闇夜のような色をした長髪を揺らし、優しく微笑む。音もなく扉を後ろ手に閉めて、エラーを見つめる。部屋を訪れたのはサタンだった。
「顔色、すっごいよ」
「……うん」
「生理?」
「うん」
ベッドに歩み寄るサタン、そちらへ身体を向けるエラー。一切の動作を面倒だと横たわっていた先程までの様子が嘘のようだった。
サタンがベッドに腰掛けようとしたところで、エラーは身体を起こして彼女の手首を掴んで引き寄せる。
「靴、脱いで」
「……えぇ」
作業着と同様に、囚人達に与えられるのが白いスニーカーである。随分と履き古され、受け取った当初は真っ白だったそれは、全体が煤けたように汚れていた。サタンはそれを、さらにくたびれたスニーカーの横に並べる。
半ば強引にベッドへと引きずり込まれてしまったサタンだが、エラーのこういった振る舞いを気にかけるとキリがない。そんなことよりも、素直に求めてくれることを嬉しく思う気持ちの方が強かった。
布団をめくると、冷たい外気がエラーの身体を驚かせたが、すぐにサタンの体温が埋め合わせる。エラーは無造作に手首にガーゼを当てると、その上から、どこかから調達したリストバンドをした。腫れあがったそこをゴムが圧迫する痛みはかなり堪えたが、一刻も早くサタンを抱き枕にしたいエラーは事も無げにその手を離した。
「あ、対策考えてくれてたんだ」
「この間、クレに裸で抱き合ってるとこ見られたみたいだしね」
できればあんまり脱ぎたくないし。エラーは内心でそう付け足すと、改めてサタンの身を抱き寄せた。
「あぁそういえば」
「何?」
「何しに来たの?」
漸くサタンが部屋を訪ねてきた理由が気になったらしい。サタンはくすくすと笑いながら、エラーっていっつもそうだよね、と言った。
「……ごめん」
サタンのそれは決して咎めるような言い方ではなかったが、エラーは反射的に謝罪していた。ことサタンに対しては、随分と気遣っているらしい。彼女はそれを、自身の拙い思いやりのようなものだも思っているが、実際は目の前の女に嫌われたくないだけである。
「いいけど。ねぇ、最近、起きてこない日多いよね」
「なんか、身体が怠くて」
「そう」
そう言ってエラーは、一層強くサタンの身体を抱き締める。サタンはされるがまま、身を預けていた。そしてエラーに自分の顔が見えなくなってからほくそ笑んだ。確実に弱っている。彼女はそれが嬉しくて堪らなかった。
「で、何しにきたの?」
「あんまり起きてこないから、顔を見に来たの。死んでるのかと思った」
「なにそれ」
そう言って歯を見せるエラーは、顔色のわりには元気そうである。サタンはそんな彼女を見て、”まだかかりそうだ”と思った。しかし、その認識をすぐに改めることになる。
「死んでればよかったかも」
「え?」
「ううん、なんでもない」
何気ない独り言のつもりだったが、今の発言を流せるほど彼女はまともではない。伏せられた瞳に映り込むように首を傾げる。逸る気持ちを押し殺して、言葉を紡ぐ。
「死にたい?」
「分かんない」
焦らされてるみたい。サタンはエラーの曖昧な返答に、駆け引きのような何かを感じた。当然、そう思うのは彼女の方だけで、エラー本人には他意は無い。
「みんな、自殺が悪い事のように言うけど、私はそうは思わない」
「え?」
「生きてるのって、そんなに偉いのかな」
サタンは透明感のある声でそう問い掛けると、つらつらと話し始めた。
「少なくとも、死ぬ勇気がなくてただ生きてる人より、決断を下して実行した人達の方が、よっぽど一生懸命に生きたんじゃないかな。その結末に死があったとしても、世間が言うほど疎まれることだとは思えない」
「……そう、かな」
「エラーは、私が死んでしまったら、どう?」
「え、やだよ」
エラーはサタンから向けられる視線にどぎまぎしつつも即答した。嫌だ、嫌に決まっている。何故そんな決まりきった当たり前のことを訊くのだと、エラーはこの意味不明な会話に嫌気が差し始めたが、サタンは手を緩めようとはしない。
「どうして?」
「……こんな風に、話したりできなくなる」
「それってエラーの都合じゃない?」
相手の生を望むことが、”都合を押し付けている”と言われればもう何も言えなくなってしまう。サタンのことをもっと知っていれば、否定する材料の一つでも挙げられただろう。しかし、エラーは彼女について、何も知らない。ここに送られてきた罪状も、本名すら。その事実に漸く思い至り、エラーは少し空恐ろしさを感じた。
「私はね、エラーが死にたいと思うなら、そうすればいいと思う」
「え……」
「死だけがエラーを唯一救うなら、仕方ないかなって」
話の行方が分からない。エラーは眉を顰めて、サタンの話に耳を傾けることしかできなかった。
「死ねって言ってるわけじゃないよ。ただ、死を選んでも、私はエラーの選択を尊重するってだけ」
「そう……」
「なんで死んだんだって責める人もいるでしょ。ああいう人には、なりたくないの」
サタンは僅かに顔を歪ませ、心無い言葉を吐く、見知らぬ誰かへの嫌悪を顕にする。それを見ると、エラーは口にしなければいけない気がして、この頃感じている事を素直に口にした。
「生きてても、面倒なことばっかりだよね」
「そうだね。ねぇ、エラー」
「なに?」
「もしかして、私に死ねって言われたい?」
「何それ。でも、分かんない、言ってみてよ」
エラーにそんなつもりは一切無かった。それでも、サタンがそう言うとそんな気がしてくる。笑いながら死を願う言葉を乞うてみると、サタンは真剣な表情をして言った。
「エラー。私の為に死んでよ。そうしたら私、一生エラーのこと愛し続けるよ」
なんだ、それ。言えといった以上の言葉を付け加えるサタンに、エラーは動揺したが、不思議と悪い気はしなかった。
付け加えられた余計な一言のおかげで、戯れのつもりだったやり取りが一気に意味深になる。言葉の意味を知りたいという好奇心が止まらない。
「……それ、ホント?」
エラーは無意識の内に口走るが、サタンはその問いには答えず、優しく微笑んでみせた。
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