ACT.79
体を揺すられる感覚に、徐々にエドの意識が覚醒していく。上半身を起こそうとしたが、顔面に鋭い痛みが走り、動きを止める。”よく分かんないけど、多分冷やした方がいい”と、適当なアドバイスを受けていたにも関わらず、この女は腫れ上がった顔に何の処置もせずにそのまま寝たのだ。
上手く開かない瞼をなんとか上げると、そこには入眠前に顔を冷やすよう忠告した女が居た。腫れた顔を見つめて、そら見たことかという表情を浮かべている。
外はまだ暗い。もしかすると、この女は一睡もしていないのかもしれない。そんなことを考えてながら身体を起こしたエドに、何かが差し出される。
「これ、顔に当てときなよ」
「……おう」
エドは受け取ってから、それが冷水を絞ったタオルであることを知った。顔を埋めて覆うように全体に当てながら、そのままの姿勢で彼女は言う。
「今日、やんのか」
「そうだって。っていうか気まずいでしょ。そんだけ派手にやり合っといて、ムサシちゃんと食堂とかで顔合わせるの?」
「うっせぇ」
エドはタオルで顔を覆ったまま、くぐもった声でラッキーに反論した。あまりにもか細く頼りない反抗に吹き出しそうになるのを堪えながら、ラッキーは静かに息をした。エドが異変を感じて顔を上げないように。にやつく表情までは制御できそうにない、ラッキーのせめてもの気遣いである。
空気が沈黙にも慣れた頃、ラッキーはエドからタオルを受け取る。部屋を出てすぐに戻ってきた彼女の手には、今にも凍りつきそうなほど冷えたタオルがあった。
冷たい冷たいと文句を言いながらラッキーはそれを手渡したが、エドにはその冷たさが心地良かった。むしろラッキーが言うほどの冷たさを感じない。顔面はもちろん、手も浮腫んでいるのだろう。加減をせず全力で殴り合ったのだ。固く絞られたタオルの全てがエドの心と体を冷やしていった。
ラッキーは格子付の狭い窓から、空の色を見つめる。エドのタオルを三度ほど替えてやったが、それ以外の時間はずっとそうして過ごしていた。
声をかけて顔を上げさせると、エドの顔の腫れも随分と引いた様に見える。それを確認すると、ラッキーはいよいよ立ち上がった。
「今更だと思うけど、もし持っていきたい物があるなら、ポケットに入るサイズまでね。音が鳴ったり極端に重たいものもやめて」
「あぁ。これっきゃねぇ。他はファントムに寄付してやるよ」
エドはそう言ってポケットから丸めた紙幣を取り出した。ラッキーに見せつけると、すぐに元に戻す。彼女が持ち出すのは、ここで稼いだ売上だった。
金しか持ち出すものがないというのは、何とも虚しいことのように思えるかもしれないが、エドに言わせれば、金に綺麗も汚いもない。これは彼女が文字通り汗水たらして手にいれたもので、この借り物の部屋の中、唯一価値あるものなのだ。
ラッキーは弐の部屋のドアを開け、エドはすぐに続いた。隣のサタンの部屋に向かうとばかり考えていたエドだが、ラッキーは迷いなく参の扉を目指す。面食らいながら後に続くと、二人はノックも無しに侵入した。
鼻の頭まで布団を被り、布の端を掴んだまま目を閉じている。あまりにも可愛い寝姿に驚きながら、ラッキーが指を差す。
「……クレちゃんって、いつもこんな可愛い寝方するの?」
エドはその問いには答えず、ベッドの柱のパイプを蹴った。金属が軋む音を立て、大きく鳴る。肩をびくつかせたラッキーは慌ててエドを睨みつけるが、視線の先の女は意に介さない様子で小さく怒鳴った。
「おい、起きろ」
「ちょっと、静かにしてよっ」
「うっせぇ。おい、クレ」
蹴りの振動とベッドが立てた音で目が覚めたクレは、眉間に皺を寄せたまま、おうと返事をして、さらに続けた。
「なんだよ、お前ら」
目もまともに開いていない状態で、クレは体を起こす。少し前の自分を見ているようで複雑な気持ちになったエドだが、彼女はそんなこともつゆ知らず、首を掻きながら欠伸をしていた。
どうにかして眠気を吹き飛ばす必要がある。後がつかえており、時間がないのだ。エドとラッキーはアイコンタクトを取ると、頷き合う。そうして淡々と告げた。
「娑婆に出るぞ」
「はぁ? 寝ぼけてんのか?」
「それはクレちゃんでしょ」
目を開けたクレが見たのは、エドとラッキーの姿だった。ラッキーはちらりと小窓を見やると、空は白み始めていた。
「意味がわかんねぇ。ちゃんと説明してくれ」
「……まぁいいか。脱走は私が考えたの」
「脱走……? 色々聞きたいことはあるけど、成功率は?」
「さぁ?」
ラッキーは両手を上げて肩を竦めて見せる。無責任なその所作に一言言いたいエドとクレであったが、二人が口を挟む前にラッキーは真面目な顔を作った。
「っていうか急いで支度してくんない?」
「いや……えぇ……」
「とっととしやがれ。犯すぞ」
「なんでだよ」
エドはラッキーの計画を聞かされていない。ただ、この女が只者でないことだけははっきりと分かる。それは彼女の主観ではなく、ファントムという施設が彼女をある種のVIP待遇で迎えていることからも明白であった。可能性があるならそれに賭けるしかない。クレを多少脅迫しても、計画の遂行の為には仕方がないと、本気で考えていた。
ラッキーの表情は至って真剣だ。腕を組んで何かを考えている様子で呟く。クレとエドは聞き逃さないように耳を傾けた。
「問題はあの二人なんだよ。もしかしたら、エラーちゃんは置いてくかも」
「どういうこと?」
「死体持ってってもしょうがないでしょ」
「……は?」
エドは絶句し、クレはぴたりと手を止める。すぐに支度を再開するが、エドはその背中に声をかけた。
「おい、てめぇセフレだったんだろうが。何か知らねぇのかよ」
「あいつ、最近、ずっとリスカしてた」
「あ?」
ふざけてんのか。そんな言葉が喉まで出かかったが、暗い表情で身支度を整える女の横顔が嘘をついているようには見えない。
「ちょ、ちょっと待て、知らねぇぞそんな話」
「お前はそりゃそうだろ。ムサシで手一杯だったもんな」
「……うるせぇ」
「……ま、とにかくだ。支度、終わったぞ」
「そう? 今更だけど、一緒に来る?」
「乗らねぇなら支度なんかしねぇよ」
そうして三人は参の部屋を出た。エドは苦い表情を浮かべたままである。看守が廊下を通らないことを確認すると、素早く肆の部屋へと駆けた。
ラッキーとサタンの間にただならぬものを感じていたのは、エドもクレも同じだ。自然と二人は遠慮するようにドアの近くに立ち、彼女を起こすのはラッキーに任せる形となった。
彼女はベッドの横に立つと、寝顔を覗き込み、優しく声を掛ける。後ろでその光景を見せつけられていたエドとクレは目を見合わせ、打って変わって優しくなったラッキーの声に驚いていた。
「おはよ」
「……なんや。最悪の目覚めやん」
「そう? 最高の間違いじゃない?」
サタンは体を起こすと、早々に布団から脱出し、ベッドの縁に腰掛けた。寝起きは先の二人に比べるとかなりいいようだ。時間に余裕を持ったままこの部屋を後に出来るとエドとクレが確信した直後、彼女はため息を吐いて、側に立つラッキーの脛を蹴った。
「いっ!!」
「こんな半端な時間に起こしといてホンマなんなん。朝ですらないやんけ」
「サタン」
ラッキーがこっそり指差す。クレとエドは信じられないものを見る目で、やり取りを眺めていた。エドは二人のやりとりを目の当たりにしたことがあったので多少耐性がついていたが、クレは目を丸くして固まっていた。以前、盗み聞きのような形で二人の会話を聞いてしまったことがあるとはいえ、まさか暴力まで振るうとは思っていなかったのだ。
二人と目が合ったサタンは、再びため息をつく。このキャラで二人と接することになるのかと思うと、少し気が重かったが、過ぎたことを嘆いても仕方がないと割り切るしかなかった。
「ねぇサタン」
「はぁ。何?」
「迎えに来たよ」
「……唐突やわ」
サタンはさっと髪を払うと、ラッキーを睨みつけた。しかし、ラッキーは動じずに優しく笑う。
「慣れてよ。これからずっとこうだから」
「……エラーは?」
「これから」
「……そう」
ラッキーから事前に聞かされていたようで、サタンの身支度はすぐに済んだ。引出しから一枚の写真を取り出し、それをポケットに入れて終了である。淀みないその動作を見るに、あらかじめ持ち物は決めていたであろうことが窺える。他に持っていく物がないのかと、彼女に問う者はいなかった。
ラッキーがドアの隙間から様子を確認し、誰もいないことを確認する。看守の気配がないことが分かると、静かに壱のドアへと駆け寄り、三人がそれに続いた。扉の前に辿り着くと、クレとエドがずかずかと部屋に押し入った。
「起きろ」
「おい聞いてんのか」
寝ている相手に聞いてるのかとは随分な物言いであるが、声を発したエド自身はその矛盾に気付いていない。サタンとラッキーの二人は、その光景に呆れながら軽口を叩き合った。
「なんか借金取りみたいだね」
「さすがに失礼やろ」
「……え、なに?」
普段よりもワントーン低いエラーの声にエドは面食らったが、どうやらクレは聞き慣れているらしい。寝ぼけ眼の女を見下ろしながら、「よく分かんねぇけど、ここから出られるらしい」と、簡潔に現在の状況を述べた。
「ふぅん」
エラーはそう言って布団を被り直すと、寝返りを打つ。体を起こそうとしないエラーに、キレたのはエドだ。肩を掴んで自分へと向かせると、胸ぐらを掴んで強引にその体を起こした。驚くほど軽い体に、場違いな心配がエドを襲ったが、それをいちいち口に出したりはしない。
「起きろっつってんだろ」
「……あー、ちょっと頭揺れるからそういうのやめてくんない?」
「舐めてんのかコラ。急げよ」
「いや意味分かんないんだけど。何? エド。夜這?」
「あぁ? 誰がてめぇとヤるかよ。ふざけたこと抜かしてんじゃ」
エドが絡むと、事情を説明するどころかややこしくなる。そう確信したクレは、頭を掻きながらエラーに言った。
「エラー。とにかく起きてくれ」
「クレ……? って、ラッキーとサタンまで」
「やっほー。生きてて良かったよ」
「ごめんね、こんな早くに」
投げかけられたわざとらしい標準語に嫌気が差すのを感じながら、エラーはサタンを睨みつけた。
「騙されたと思ってるなら、エラーちゃんって思ったより馬鹿だね」
「は?」
「サタンは騙してなんていない」
ラッキーは語気をやや強めて、ベッドに座ったままのエラーを見つめていた。しかし、エラーも怯むことなく、ラッキーとサタンを冷たく睨み返す。
「サタンを殺したら、マジで殺すから。わかる?」
これほど感情を顕にするラッキーを、サタン以外の三人は見たことがなかった。サタンですら片手で数えるほどしか知らない。静かに、そして強くエラーを威圧するラッキーに、エドとクレは怯えたように小声で話した。
「オレには何がなんだか、さっぱりだ」
「こいつらもこいつらで大概ややこしいよな」
「私を交えないで欲しいんだけど」
「てめぇが中心だろーがよ」
エドがエラーにクレームをつけると、彼女は反論するでもなく、ただため息をついた。ラッキーの眼は鋭さを湛えたままである。
「ねぇ、脱獄さ、明日でもいいよ。エラーちゃん、もしその気があるなら今日死になよ。娑婆で死なれると面倒だからさ。ここなら適当に弔われて終わり。サタンの罪にもならない。最高じゃん?」
「まぁ、ラッキーの言ってること、理屈は通ってるね」
「待てよ。オレ、めちゃくちゃ急いで着替えさせられたのに」
「あたしなんてムサシと話つけてきたんだぞ」
ラッキーは鼻で笑って振り返った。エドとクレ、それぞれと眼を合わせると、呆れたように呟く。
「はぁ? 二人がサタンと同じなわけないじゃん。この子は特別」
「前々から思ってたけど、お前ら、どういう」
クレは二人の関係に言及しようとしたが、ラッキーとサタンの関係なぞこの際どうでもいい、と言わんばかりにエラーが口を挟んだ。
「……っていうかマジで、何をするつもりなの?」
「出るんだよ」
「急すぎない?」
「事前に知らせたら、みんな絶対そわそわするじゃん」
「否定はできないけど」
四人の会話がちぐはぐに進んでいる間も、サタンは様々な事情を天秤にかけ、いち早く自身が最も楽しめる展開を導き出す。そうして彼女は、エラーにある提案を持ちかけた。
「ねぇエラー。続きは娑婆でしない?」
「……続き?」
「私達、もっと分かりあえると思う」
「まだそういうこと言うんだ……」
「言って欲しいくせに。強がらんと縋ったらええやん」
サタンがついにエラーへの方言を解禁して影のある笑みを浮かべると、エラーは堪らず目を伏せた。まるで勝てない相手と対峙しているかのようなその所作に、クレとエドは目を合わせる。
「意味分かるか?」
「あたしが分かるって言うと思うか?」
遣り取りの内容から、エラーの意識が完全に覚醒したと解釈したラッキーは、改めて今日、いや、今からここを出ると宣言する。四人はそれぞれの思惑を胸にそれを聞き届けると、窓の外を見た。
ここ数年、彼女達にとっての外とは、窓から見るだけのものであった。窓の外の景色すらもファントムの敷地内であることを考えると、完全な外などずっと見ていない。屋外の運動場に行けばそれらしい空気は吸えるが、幾重もの警備の中にある、仮染のものである。
「これからどうすんだよ」
「どうするって言っても、うーん。いま四時かぁ。半にならないと都合が悪いんだよね」
「んでだよ」
エドは不機嫌そうに理由を説明させようとするが、虫の居所が悪いわけではない。むしろその逆である。これからしようとしていることに、彼女なりに緊張しているのだ。
それを知ってか知らずか、ラッキーはいつもの調子で述べた。
「四時頃に見回りをして、四時半から五時半までの一時間、刑務官達は持ち場から動かなくなる曜日なんだよ、今日は」
「曜日?」
「毎日同じだと勘付く囚人もいるでしょ。今は土曜の朝。土曜日はそういう日なの」
「ホントかよ……」
そして最も警護が手薄なのが土日である。手薄と言っても、担当刑務官の数が少ないというだけで無人ではない。ラッキーはここで過ごした数カ月間、看守達の動向を監視していた。そうして導き出したのが今日という日で、この時間帯なのである。
ラッキーの言葉を聞くと、エドはにやりと笑った。久々に見せる笑顔で彼女は言った。
「丁度いい。ここいらでてめぇが何者なのか、説明してもらおうじゃねぇか」
「もう大体分かるでしょ」
面倒だと言うように、手をひらひらさせるラッキーだったが、彼女の話を聞きたがっていたのはエドだけではなかった。
「私も興味あるな。想像は付くけどね」
「オレも」
「えー?」
壁に凭れ、腕を組んでけだるげに声を上げたラッキーであったが、ついにチェックメイトがかかる。
「私、ラッキーに対してはあんまり気が長くないんよ。意味分かる?」
「あっ、はい……」
サタンにまで言われてしまえば、話さないわけにはいかないだろう。もう隠す理由はないので、話しても構わないのだが、いくらサタンのリクエストであったとしても、面倒であることには変わりない。ラッキーは肩を落としてため息をついた。
「おいなんだよアレ」
「知らねぇよ、ちょっと前からあんな感じだぞ」
「ラッキー、なんかうざいね」
「エラー、黙っとけ」
二人のやりとりに置いていかれた三人は好き勝手言いながら、変人が話し始めるのを待つしかなかった。
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