ACT.62
トレーに食事を取り分け、適当な席に座る。多くの囚人は決まった面子でそれを並べたり突き合わせたりして、食べ終わったあとは少し雑談をする。それは毎日、いや、毎食毎に繰り返される受刑者達のサイクルである。しかし、この日のムサシは違った。
食事を載せるところまでは普段と変わらなかったが、次に赤い頭を探して食堂を見渡したのだ。身長がかなりその高い女は、周囲と比べて座高が少し高い。少し高い、で済むところがその女のスタイルの恐ろしいところなのだが。加えて鮮やかな髪色のその女は、すぐにムサシの目に留まった。
隣の席が空いていることを確認しながら、脇目も振らず真っ直ぐに歩み寄る。そして声を掛けることなく隣に座ると、挨拶もそこそこに語り出した。
「クレさん、エドさんにちょっかい出すの、もうやめてくれますか」
「……聞いたのか」
「はっきり言いますけど、邪魔です」
可愛い妹分に、かつてこれほど敵意をむき出しにされたことがあっただろうか。クレはあまりに性急なその要求に驚かされる。ただ、要求の内容は、彼女の立場を考えれば頷けるもので、至極真っ当な言い分だ。食事の手はいつの間にか止まっていた。
「私、エドさんが好きです」
「……知ってる」
「じゃあ」
「ごめん」
これ以上話したくない。そう言う代わりに、クレはムサシの言葉を遮って謝罪した。
会話をして生まれるのは理解や共感などではなく、軋轢のみである。クレは互いの為にもこの無意味なやりとりを終了させようとしたが、ムサシの口撃の手は緩まない。
「……私よりもエドさんのこと、好きだって言えます?」
我ながら陳腐な台詞だ、ムサシは口にしてからそう思った。彼女は今しがたの発言を後悔しているが、その問いは間違いなく、彼女がいま最もクレに問いたい事であった。
肯定されたからといって邪魔を許すつもりはない。すぐにでも消えて欲しい、これがムサシの偽らざる本心なのだから。それでも、想いの強さが拮抗していると主張するのであれば、土俵に上がる資格くらいはあると思ったのだ。
ムサシという女はどこまでも対等であることを重んじる。しかし、そんな彼女の気持ちを踏みにじるようにクレは言った。
「そもそも、エドのことなんて好きじゃねぇよ。オレ、多分レズじゃねぇし」
「……だったら!」
「でも、悪ぃ。上手く言えない。あいつじゃなきゃ、駄目なんだ」
今さら綺麗事は無しだ。そんなことはクレも分かっていた。だからこそ、矛盾しているようにしか聞こえない言葉を平然と言ってのけたのだ。
彼女の言葉を聞くと、ムサシは「意味分かんない……」とだけ呟いた。怒る気力すら湧いてこないと言うべきか、いっそ哀れというべきか。自身の気持ちの所在が分からないというのは、これ程までにもどかしいものかと途方に暮れていた。
クレは俯き、箸を握ったままだ。半分程度の食事がまだ手付かずの状態だが、平らげられそうにない。自身を情けないと嘲る気持ちが渦巻き、それでも引きたくないという衝動が湧き上がる。二つの感情はせめぎ合い、彼女がすぐに何らかの考えを口にすることは難しそうだ。
そんなクレの心中を知ってか知らずか、ムサシはぽつりぽつりと語り出した。
「エドさん、ササイさんが居なくなった日、側にいてくれたんです」
「そうか」
「医務室の外で、待っててくれた」
語られる出来事は、クレにとって未知のものだった。あのエドが、まさか。どうしてもそんな考えが拭えない。
ただ、ムサシがこの期に及んで嘘をつくとも思えないので、クレはそうやって語られる内容を事実として受け入れようとしていた。
「辛いから、優しくしろって、甘えてくれた」
エドにとって、ムサシという女はかけがえのない存在であるらしい。それを充分過ぎるほど突き付けられ、痛いほど思い知らされる。悲しみなどは感じない。ただ、エドにとって特別な女が隣で喋っていると思うだけだ。
「本名も、教えてくれた」
いくら聞いても、違う誰かの話を聞かされているような感覚が抜けきらない。それくらい、クレの中のエドと、ムサシが語るエドという女は乖離していた。
「私も、まさか自分がって思ってましたよ」
ムサシは続ける。クレの顔は見ずに。視線の先にある飯は、冷えてさらに不味くなっていく。しかし、構わなかった。元より昼食にありつく気はなかったのだ。
「でも、多分、そうなんです」
言葉を切ると、ムサシは顔をあげた。いつか、木刀を握り締めた時と同じ目で、クレを射抜いて宣言する。
「だから、こんなに貴方が憎い」
ただならぬ空気を感じ、クレは多くを語らなかった。それでもこの会話の中で、一つだけ分かったことがある。それは、口にすべき言葉を探して彷徨っていた彼女の思考が、唯一見つけた絶対的な答えであった。
「オレもいま気付いた」
クレは遠くを見つめたかと思うと、殺気立ったムサシの眼光を迎え撃つように、視線を交錯させる。睨み合う瞳が放つ熱量は、今この瞬間も増幅し続けていた。
「お前、ムカつくな」
「それはこっちの台詞ですけど」
かちゃんという、平時であれば聞き逃していたであろう、箸を置く音。それが合図だった。
二人はほぼ同時に拳を作り、目の前の女の顔面めがけて腕を伸ばしていた。
唐突に始まった喧嘩に気付くと、周辺に座っていた者たちが席を立つ。面倒くさそうに声をあげる者、遠巻きに発破をかける者、刑務官の姿を探す者。反応は様々であるが、二人が所内の平穏を壊したのは間違いなかった。
いくら剣道を嗜んでいると言っても、丸腰ではムサシもただの小柄な女だ。素手での喧嘩となるとフィジカルに圧倒的な差があり、それが直に反映される。
振り下ろすような右が深く入り、ムサシの視界をぐらつかせた。やはりクレに軍配が上がるかと勝負の行方を理解した気になった野次馬共が静かに一息ついた頃、ムサシは近くにあった椅子を豪快に投げつけた。
一際大きな歓声が上がり、流れが変わる。クレはというと、腕で椅子を受け、肘から先の感覚を一時的に失っていた。間髪入れずにムサシはその懐に飛び込む。踏み込む音が警告するように鈍く響く。姿か音か、どちらに反応したのか曖昧なまま、クレは感覚のない腕でムサシの拳を受けた。
囚人達の多くは突然の喧嘩に驚き、役者の一人がムサシであることに気付くとまた驚いた。一度も問題行動を起こしたことのない囚人が、喧嘩の強さで名を馳せる狂犬と互角にやりあっているのである。これ以上にない見世物であった。刑務官ですら動きを止め、成り行きを見守る。
「お前、ちょっと前までは、可愛い後輩だったのにな!」
「そっちこそ! 少し前までは頼れる先輩でしたよ!」
二人は罵り合いながらも手を休めない。美人二人の顔に痣が増えていくのを、なんとももったいないという、お節介な気持ちを抱きながら見物している者も少なくはないだろう。しかし、本人達は当然、自分の身体の事など一切考慮していない。
「肝心な時にヘタレるし、人のものに手出すし、本当に最低な人ですね!」
「誰がお前のものだって!? あぁ!?」
この騒ぎに遅れて気付いた一行が居た。エド、サタン、ラッキーの三人である。黒山の人だかりとなっている中心から、何やら聞き覚えのある声が聞こえる。おそらく騒ぎの元凶だろう。
二人を連れ立ち、刑務作業の作業場から食堂へとやってきたエドであったが、何かを察するとまだ何も載っていないトレーをサタンに持たせて駆け出した。
「おい!? クレ……ムサシ!?」
人混みを強引に掻き分け、ひらけた場所に出ると、エドは思わず二人の名を呼んだ。まさか、本当にムサシが関わっていたとは。エドの驚愕が声となったのだ。
両者共に手加減や容赦は一切無く、派手にやり合ったらしい。顔の痣や頬のひっかき傷から、それは容易に読み取れた。
二人は鼻血を流しながら未だに睨み合っている。自分ですらここまですることは滅多にないと、エドは引いていた。
「何やってんだよ、てめぇら……」
話し掛けられ、ネジが切れたように二人は固まる。据わった目をムサシからエドへと向け、告げたのはクレであった。
「お前の取り合い」
「は、はぁ……?」
やっと二人の間に割って入った刑務官により、事態は収拾した。二人は厳重注意を右から左へと聞き流し、たまに視線をぶつけては刑務官の肝を冷やした。
どうやらこのまま各自予定通りに過ごしていいらしい。独房送りになっても構わないと思っていた二人は拍子抜けしたが、吐き捨てられるように告げられた言葉に、気を失いそうになる。
「何があったのかは分からないけど、ムサシがそんなことするなんて。話を聞かせてくれる?」
誰が痴情の縺れだった、などと言えるのだ。口が裂けても言えない。二人が黙ると、見かねたエドが口を開く。
「あー、あたしがたきつけたっつーか。三人でよく話し合うんで」
「……そう。そういう事なら医務室の奥を貸すわ。二度とこんなことがないように、しっかりと話してきてね」
医務室の奥。それは他でもない、心神喪失状態になったクレと、碌に食事もできなくなったエドが数日過ごした、あの空間である。
妙な思い出がある二人は、指定された場所に一瞬顔を顰めたが、首肯する以外、道はなかった。
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