ACT.60
吹き抜けの二階部分で、小さい身体が頭を寄せ合っている。ムサシは真っ当に当番をこなし、エドは自分が当番だったのかすら知らずにそこにいた。もしかするとどこかのグループが、今日も今日とて見当たらないエドの顔を思い浮かべては呆れているかもしれないが、彼女にとってはどうでも良いことだ。
エドは何をするでもなく、時たまここを訪れていた。そして、ムサシは当番が終わり、居住区画に戻る前に、必ずこの通りに立ち寄る。ほとんどの場合は、その時間にはエドは居らず、そのまま踵を返して自室があるB-6区画まで戻ることとなるのだが、今日は違った。
何をしているのかと問うても、いつも以上にそっけなく”別に”と言い、それ以上は決して話そうとしない。何もないはずがない。ムサシは自分自身について、人に甘えることが苦手な人種だと思っていたが、エド程ではないと自負している。
というよりも、これほど他者への頼り方を知らない者をムサシは見たことが無い。プライドが高いなどという次元ではない。元より、他人がいるということを知らぬような振る舞いでいるのだ。
この通路は区画に戻るだけならば通り掛からない。だからこそ、かつてムサシが待ち合わせ場所に指定したのである。一人になりたいだけならば、自室に戻ればいい。わざわざここにいるということは、誰かに会いたいのではないか。
本音は違うかもしれない。だが、その可能性があるのならば見逃せなかった。ぼんやりと向こう岸を眺める姿を、一階から見上げた時のことは、今でもムサシの記憶に深く刻まれている。階段を二段飛ばしで駆け、足音を立てないように吹き抜けへと繋がる通路に入る。そして角から顔を出してエドの名前を呼ぶと、エドはうぜぇと言って笑ったのだ。
あの顔が忘れられなくて、ムサシはここでエドが一人寂しい思いをしていないか巡回するのが日課となっている。だから、これからムサシが言おうとしていることは、自身のポリシーに反する行為になる。エドが嫌がることなど、極力したくないのだ。
「……エドさん、ちょっといいですか」
改まった声色に、エドは眉を顰めた。その気配はムサシも察したが、全く気にかけない素振りで続けた。
「……一つ、確認したいことがあるんです」
「んだよ、めんどくせー。今度にしろ」
「それ言うの、何回目です?」
逃れられる訳がなかった。エドはこれまでに三度、同じようにムサシを撒いていたのだ。上手くしてやられた振りをしていたムサシだが、そろそろ精神的にリミットを迎えている。
言いたくないならここに来なければいいのに。尤もな主張を頭の中で響かせ、瞬時に視線を凍てつかせると、彼女は再度口にした。
「確認したいんですけど」
これはもう逃れられない。エドは観念して”確認したいこと”とやらに耳を傾ける覚悟を決めた。彼女がこれほどこの話題を避けているのは、後ろめたいことがあるからだ。エドの行動の九割は褒められたものではない。こういった切り口で揉めなかった例はすぐには思い付かない程に稀だ。
「クレさんとのこと。説明してもらえます?」
——あぁ、来た。やっぱりコレだ。
エドは表情で既にうんざりしていることを伝えると、別にいいだろ、と言って視線を落とした。下のフロアの囚人が右から左に移動するのを見ても、ざわついた心の平穏は取り戻せないが、彼女は決して顔を上げようとはしなかった。
「良くないです」
「そもそも、クレもお前も。あたしにとってはなんでもねぇよ」
「……そうやって逃げるの、もうやめません?」
呆れたようなムサシの声色に、下手に責められるよりも気が重くなったエドは何も言えなかった。
「エドさんにそのつもりがないのは分かりました。でも、私……多分、エドさんが好きです。だから、知りたいです。教えたくないっていうならちゃんと振ってください」
どの言葉がエドに響いたのかは分からない。しかし、ムサシの言葉は確実にエドの心を抉った。放心した表情でムサシに向くと、何かを思い出したかのように、エドは突然激高した。
「お前らなんなんだよ……! いい加減にしやがれ!」
「なんでそんなに怒ってるんですか?」
ムサシは、エドがクレに妙な要求を突きつけられたことを知らない。当然、エドはそれを彼女に伝えるつもりはなかった。なかったのだが、それよりも告げるべきではない事実を、怒りに任せて最悪の形で露呈してしまう。
「うるせぇな! あークレとヤったよ! あいつがヤらせろっつーから股開いたよ! だったらなんだよ! 金なんて受け取ってねーよ! これで満足かよ!」
喚くエドとは対象的に、ムサシは静かに問いただす。
「……それ、いつの話ですか?」
「あ!? 三日前だよ!」
そしてエラーの言葉を思い出す。おそらくはムサシが聞き出したがっていたものとは別件だろうと理解した。
「……私は前に何かあったのかって聞いたつもりだったんですけど」
「ああ?」
眉間に皺を寄せた馬鹿女は、自身がどれだけ愚かな事を口にしたのか、未だに分かっていない。恫喝するように牙を剥き、今にも噛みつかん勢いで目の前の女を睨みつけていた。
「エドさんの過去に何があっても、私が口出しする権利なんてないですし、そんなの平気だって思える自信あったんですけど」
淡々とした様子でいたムサシだが、エドが告げた事実に傷付かなかった訳ではないのだ。
「私にあんなことしておいて、クレさんと……」
エドはムサシが何について言っているのか、分からなかった。裏を返せば、見当が付かなくなるくらい、特別な間柄の二人がするようなことをしてきたということだ。
漸く自身の失態に気付き、四面楚歌であることを知ったエドは、拳を固く握る。ムサシは震えるそれに、すぐに気付いた。
「殴るんですか」
振り上げた拳を止め、一度は躊躇したものの、人はすぐには変われない。いや、変われればいい方だ、大抵の人間は変わらないまま死ぬ。
結局、エドはムサシの顔面を殴った。エドに自分よりも小さい年下の女を殴った経験はない。妙に心がざわつく理由を、そのせいだと思うことにした。
エドは勢いのまま、ムサシを押し倒して覆い被さった。人通りが少ないとは言え、いつ人の往来があってもおかしくない空間でそうするのは、気が触れているとしか思えない程の愚行である。
「クレが羨ましいってんなら、てめぇともヤりゃいいんだろ?」
「……私、抵抗しませんよ」
「……あ?」
エドが思っていた以上に、ムサシは肝の据わった女であった。言葉の通り、彼女は一切の抵抗を示さない。拳を受けた頬の内側は、出血していた。重力に引っ張られ、じわじわと広がりながら喉の奥に落ちてくるそれを、ものともせずムサシは続ける。
「嫌がってほしいんでしょ。分かるよ。訳わかんないまま、勢いで全部終わらせたいんでしょ」
図星を突かれ、拒絶すらしてもらえない。エドは自分が組み敷いている女を空恐ろしく感じつつ、しかし視線を反らすこともできなかった。
「私、クレさんのことなんて羨ましくないよ。ただ、エドさんがいつまでも逃げ回ってるのが、間抜けに見えるだけ」
心底憐れむようにそう告げると、ムサシは手を伸ばして、エドの頬に触れた。
「エドさん。可哀想」
一階からダイレクトに響く囚人達の喧騒が、二人の間を通り抜ける。刑務官特有の高い靴音が遠くに聞こえた頃、何かがムサシの頬を濡らした。それが自身の涙であることに遅れて気付くと、エドはゆっくりと彼女の上から退いて膝を抱えた。
このところの自分は泣いてばかりだ。そんなことを考えて丸くなると、口が勝手に言葉を紡いだ。
「……なぁ、雅」
何故彼女の名を呼ぼうとしたのか、それはエドにも分からない。唐突にその名が頭に浮かんできたからとしか言いようがなかった。呼ばれた本人はというと、身体を起こしながら瞳を揺らして、ただエドを見ていた。
ムサシはエドのしたことを許した訳ではない。しかし、今はこの小さな背中に寄り添いたかった。半ば強引に名乗った名前をエドがきちんと覚えていたことすら、初めて知りながら、彼女は小さな肩を抱いた。
膝に顔を埋めて、腕で囲うように覆う。泣き顔を見られたくないのか、厳重に隠された顔を、ムサシは覗き込む。そのせいで声はくぐもっていたが、ある単語がムサシの耳に届く、
「……呼んでいいの?」
「……好きにしろ」
エドは鼻をすすると、ぶっきらぼうにそう答えた。そう答えることしか、できなかった。
****
「オレ達って、なんなんだ?」
唐突に問うたのは赤髪の女だった。碌に仕事をしなくなったと評判のボスの部屋で、どこを見るでもなくクレは言った。
「……なに? 急に。なんでもないでしょ」
「なんでもないってのは、オレとサタンみたいな関係のことを言うんだよ」
含みのある言い方に、エラーは苦々しい表情をする。こういったやり口はクレの柄ではなかった。妙な話になりそうだというエラーの予感は、見事に的中することとなる。
「どういう意味?」
「……はぁ。お前、サタンにまで手出すなよ。暗黙の了解みたいなモンがあんだろ」
クレは困った子供を諭すようにそう言った。浮気をされたなどと、面倒な方向に話を持って行くつもりはなさそうである。エラーはまずそのことに安堵した。
「あー……まぁすごい恨まれそうだよね」
「ふざけんなよ。オレが見てたってことは」
「……ラッキーも見てたかも、か」
一緒に眠っていただけで、体の関係はない。そう弁明しても良かったが、どう見ても必要なさそうだ。エラーはあえてクレの誤解を放置すると、ラッキーの他にも目撃したかもしれない人物について思い当たる。
「そういえばエドは?」
「はぁ!?」
「いや、エドは居たの? って」
「あ、あぁ、知らねぇよ」
エラーは顔を壁側に向けて苦笑いした。分かりやすー……と呆れているのである。
「ねぇ。クレさ、エドとまたなんかあった?」
「……なにもないっつの」
浮気だななんだと咎めない訳だ。エラーはどこか納得したように目を細めた。
「私が言うのもなんだけど、あいつは止めといた方がいいよ。ムサシと付き合ってるみたいだし。あ、もしかしてそういうの興奮するの? そういう性癖?」
「そんなんじゃねぇよ!」
これ以上からかうと拳が飛んできそうである。勢いよく否定する様を見て、エラーはそう判断すると、話を変えることにした。
元より、クレとエドの間に何があろうと、昔ほど気にならなくなった。ボスとして、二人にしてやりたい事や、させなければいけない事が思いつかなくなったのだ。
「っていうかさ、クレってどんなのが好きなの?」
「はぁ? 言えば一回でもオレの趣味に合わせてくれんのか?」
「まさか。気になったから聞いただけ」
だと思った、とクレは呆れる。ことセックスにおいて、エラーは譲歩というものを知らない。それに、あれがいいこうしたいなどという要求をクレは持ち合わせていなかった。この女は一方的に齎される何かを、ただ享受しているだけなのである。あるとすれば、それらに関する感想だけだ。
「で? どんなの?」
「そういうのよく分かんねぇよ……お前とするのは好きだけど」
予想外の発言に、エラーはクレを見つめてほんの少し顔を赤らめる。しかし、クレがエラーの表情の変化に気付くことはなかった。何気なく口にした言葉に気恥ずかしさを感じ、顔を伏せていたのである。
「んだよ、恥ずかしくなってきただろ」
「だって……じゃしようよ」
「せめて出血が治まってからにしろよ」
この日もエラーは自傷していたようで、出来たばかりの傷がだらしなく血を吐き出し続けていた。血液がシーツに垂れるのは、どうでもよくなったらしい。クレがそれを悟ったのは、滴る赤の着地点をエラーが一瞥もしなくなったからである。
クレの視線に気付いたエラーは、いいことを思いついたとでも言うように、彼女の目の前にグロテスクな手首を差し出した。
「舐めてよ」
「お前がお前の体に何かしろって言うの、珍しいな」
身体に触れようとしても嫌な顔をされるし、その傷を増やすのを手伝おうかと提案しても激しく拒絶される。クレはエラーのことを、自身の体に何かされる事を嫌う女なのだと認識していた。事実、それは当たっている。
そんな女が珍しくねだったのは、常人には到底こなせなさそうなことだった。クレに言わせれば、エラーの要求は断って当然のものである。
「ま。しねーけど」
「えー?」
する訳ねーだろ。クレは嘆息交じりにそう言って、すぐに思い至った。
「もしかして、サタンは舐めてくれたのか?」
「……うん」
信じられない。ナイフで脅したりしたんじゃないか。クレはどうしても、ここに口を付けてその血を啜った人間がいるとは思いたくなかった。
やってみると案外イケるのかもしれないと、馬鹿な考えが湧いて、少し顔を近付けてみる。
「おえ……悪ぃ、やっぱ無理だ」
「おえって……普通に傷付くんだけど」
クレはデリカシーがない。明らかに彼女に非は無いが、エラーはそう結論付けると、ベッドに転がって天井を仰いだ。
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