ACT.59
ムサシは食堂のテーブルに腰掛け、どこか遠い目をしていた。その姿を見かけたショートカットの女はふらふらと隣の席を目指す。そして、椅子を引くと同時に声をかけた。
「ムサシ」
「あぁ、エラーさんじゃないですか」
いつもの快活さがない。その理由はエラーにも明らかだった。
「ササイさんの件は、残念だったね」
「……えぇ。でも、セノさんが手紙書いていいって言ってくれたんで」
手紙という単語を聞いたのはいつ振りだろうか。もしかすると、そんな言葉よりも死ねだの殺すだのといった罵詈雑言の方が耳に馴染んでいるかもしれない。エラーは非日常的な生活に突如現れた、久しく耳にすることがなかった単語にはっとした。
「手紙……そういえば、一応禁止されてはいないっけ」
「ここに届けてもらうのは難しいらしいですけど。セノさんが本土に行った時に渡してくれるって」
「あぁ。どっちにしろ、セノは医療刑務所にはよく行ってるみたいだしね」
これは気休めではなく事実である。セノには医療刑務所に移送されることとなった囚人のその後を観察する義務などは無いが、本土に行く度に足を運んでいると聞く。恐らくは彼の個人的な時間を利用したものであり、一度ファントムに関わった者への愛着のようなものとエラーは解釈していた。
実を言うと、愛着というよりは、長を勤める中で起きてしまった暴動による被害者と接することで、自身が未熟であることを再認識しに行っている、と言い表す方が正しかったりするのだが。
そしてムサシには、手紙についてよりもエラーに聞きたい事があった。腹の探り合いをするような趣味はない。彼女は端的に言った。
「……エラーさん、最近どうしちゃったんですか」
「何が?」
「変ですよ、色々と。ゴトーのリンチだって」
リンチという処罰。結果としてあの巨体が頑丈だったので大事には至らなかったが、過去を見るとかなりの確率で人が死んでいるのだ。ムサシはサタンと同じく、エラーの判断を疑問視している囚人の一人であった。
しかし、当の本人は全く意に介さないと言った様子で、鼻で笑って言い返す。
「鉄パイプでぶん殴った人がよく言うよ」
「それは……でも、ボスとして、今までとは違う感じがするっていうか」
「別に。いつも通りだよ。ちょうど良かった。私もムサシと話したかったんだよ」
これ以上無用な問答を続けるつもりはない。そう言う代わりに、エラーは話を変えた。囚人がまばらな食堂の中、エラーは一つ声のトーンを落とす。
「エドと何があったの?」
「何もないですけど」
ぶっきらぼうな即答。エラーはあまりにも分かりやすい応対を微笑ましくすら感じた。きっとこの返答は彼女が用意していたものではない、即座にそう断定できるような不自然さしかなかった。
「ふぅん、そういう風に言えって言われてるんだ」
「……別にいいじゃないですか」
「うん。ムサシが落ち込んでるかもと思ってたけど、エドのおかげで気が紛れるなら、良かった」
穿った見方をすれば、ムサシは常に誰かに寄り沿いたがっている。見たところ明らかに毛色の違うムショなどという場所にブチ込まれ、信頼できる誰かがいないとやっていけないという気持ちは理解できないものではないが、ただその場に立つ為だけに他者を必要とする辺りはエラーにとって不可解であった。
ムサシは無自覚な依存体質である、これがエラーの見解だ。依存という点においては、最近のエラーも大して変わらないが、残念なことに彼女は、自分はムサシとは違うと考えていたのだ。そして答え合わせをするように、一つ問う。
「ねぇ、もし私がエドを傷付けたら、ムサシはどうするの?」
「……どうもこうも、そんなことしないって信じてますし」
「そういう話じゃなくて。もしそうなったらって話」
ここを出れたら。大金持ちになれたら。そんな類いの有り得ない例え話に聞こえるのだろう。ムサシの表情は険しいままだ。しかし、もし、万が一そんなことがあったとしたら、答えはたった一つだ。
「……今度は私がエドさんを守りますよ」
「私、他人の生き方に口出しするのって嫌いなんだけど。っていうか、そもそも興味ないから、言いたいことって普段は特に無いんだけど。一言だけ言わせてくれる?」
そうまで言われれば、どうぞと促さない訳にはいかないだろう。ムサシは少し釈然としない顔でエラーの一言とやらを待った。
「そんな生き方してたら、いつか身を滅ぼすよ」
ムサシの猫のような目が大きく見開かれる。しかし、彼女は怯むどころか、すかさず迎撃した。
「その言葉、そのままエラーさんに返しますよ」
「へぇ。言うね」
ムサシは元々生意気なタイプではない。エラーも身に沁みて分かっていたからこそ、この反撃に意味を感じた。
ゴトーを殴った時のように、理由があれば彼女は誰にでも牙を剥く。例えそれがボスであったとしても。かっとなったクレやエドが他者に手を上げることは間々あったが、ムサシの敵意は二人のそれとは性質がまるで違う。後先考えない二人とは違い、ムサシは敵意を向けたその後についても考慮している、つまり覚悟を持って対峙するのだ。
なるほど、一筋縄ではいかない。エラーはそう認識すると、ムサシへの評価を改める。そうして、何を言われるのか、大体の見当がついた頃、ちょうどムサシが口を開いた。
「クレさんのこと、ちゃんとしてくださいよ」
「ちゃんとって?」
「本気で言ってるんですか? それ」
エラーを見つめる鋭い眼光は、鉄パイプを持った時のそれだった。なかなかお目にかかれない、剣士の眼光である。そんな目に見つめられてもなお、エラーは飄々としていた。
まさか。心の中でそう呟く。ムサシの言いたいことはシンプルだ。何がどうなってそうなったのか、エラーにはさっぱり分からないが、何故かこの生真面目な後輩は、ファントムでも指折りの阿呆に恋慕しているのだ。
そして、クレとエドの過去については何も知らされていないのだろう。正義感の塊のような彼女がそれを知れば、一体どうするのだろうか。エラーは好奇心の赴くままに口を開いた。
「そもそも私達、付き合ったりしてないし」
「だからちゃんとしろって言ってるんですけど」
「……ムサシって結構生意気なんだね」
「そうですか?」
割とね。そう言ってエラーは歯を見せる。あいつがクレに何をしたのか、教えてやりたい。そう考えるエラーに、チャンスはすぐに舞い込んだ。
「あの、エドさんとクレさんって、何があったんですか? 前からよく喧嘩してましたけど、最近はそれがないっていうか。関係が悪化したように見えるっていうか」
「エドに聞いたら?」
「答えてくれると思います?」
「答えたくないって言われたらそれまでなんじゃないの? 本人が知られたくないってことでしょ」
早く知って欲しい。けど、きっと自分が言っても意味が無い。アレはあまりにも突拍子のない話だ。ムサシが信じるとは思えない。
エラーは逸る気持ちを押し殺して、確実にムサシがエドに質問するように仕向ける。元は素直な女だ。上手く持って行くのは雑作もなかった。
「……その口ぶりだと、何があったか知ってるようですね」
エラーはまぁねと返事をすると、椅子を引いて立ち上がった。難しい表情を浮かべるムサシ一人を残して、B-4区画へと戻ったのだ。
エラーは自室のドアを閉めると、手首の包帯を外した。血に染まるそれを見つめながら、引出しにあるストックが少なくなっていた事を思い出す。近い内に調達しなければならない、その事実はエラーを鬱屈な気分にさせた。ハイドに頼めば大体のものは手に入ったが、こればかりは誰かに知られてはいけない。
特にボスが医療品を欲しがっている等と知れれば面倒なことになるのだ。それはつまり、ボスが負傷している、もしくはこれから怪我をする予定、つまり抗争が起こるかもしれないと囚人達に思わせることになる。
こういった治安に関わる部分で、ハイドの口が軽いとは思ってないが、情報はどこから洩れるか分からない。用心したエラーは、自身で包帯を医務室から調達しているのだ。
「いった……」
左手首を横に走る、肉色の歪な口。ぬらぬらと血を滲ませるそこは、醜く歪んだ女の唇がルージュに濡れているようにも見えた。今回は深く切り過ぎたかもしれないと反省して、それを眺め続ける。
ノックの音が響く。視線を動かすと、そこには黒髪がちらりと映っていた。それだけでエラーは扉を叩いた人物がサタンであると理解した。
扉まで歩いていき、窓ごしに目を合わせると、サタンはノブを回した。周囲に人がいないことを確認して、傍から見れば半ば強引に押し入ったような形で部屋の中に入った訳だが、部屋の主であるエラーは彼女を歓迎していた。
二人は一言も交わさないまま、ベッドへと向かう。エラーが窓側、サタンが扉側。定位置と化した場所へと腰を下ろした。ちなみに、深い意味は今のところ無い。ただ、囚人達の部屋では椅子の代わりとして機能するものが、ベッドか便座くらいしか無いのだ。
エラーは体を落ち着けると、再び手首へと視線を落とした。
「潤」
名前を呼ばれると、エラーは嬉しそうに目を細める。しかし、視線は傷口から離れない。縫い付けられたかのようなその頑なさを不審に思いつつ、彼女につられる形でサタンも赤く腫れた創傷を見つめた。
「大丈夫?」
「あ、う、うん」
サタンの視界に飛び込んだ光景は想像以上に酷いものであった。加減が上手いのは流石というべきか、素人目にみれば、サタンが過去に自殺に追い込んだ所謂メンヘラのそれよりも酷かった。
密集した傷口は合体して、大きな赤黒い何かに化けているようだ。最も大きな口を頂とし、周辺の皮膚というべきか、肉というべきか、それらは腫れ上がり、今にも噴火しそうななだらかな火山のようにも見えた。
おそらくエラーは、クレにしたことも、これからしようとしていることも、言ってしまえば過去にしてきたことすら、大して悪いとは思っていない。自分に認められ、同情され、正しいと言わしめる為だけに手首を切っている。それがサタンの見立ててであった。
要するに、サタンに対するアピールであり、パフォーマンスなのだ。これはサタンの言うことに、心からの同意はしていないことを意味する。そして、彼女はエラーのこの行動を非常に好ましく思っていた。
これほどの我の強い女が、認めてもらいたいが為に、趣味でもない自傷に走る。つまりエラーはとっくに、サタンの手中に深く落ちていたのだ。
「このまま死にたいって、思ったこと。ある?」
「さぁ。別に、死にたい訳ではないから」
「そう」
本当に? サタンは心の中で問う。言葉を短く切って傷口に視線を落としていると、エラーは続けた。もしかしたら、彼女自身、声に出すつもりはなかったのかもしれない。それほど、ふわりと吐き出された言葉だった。
「サタンが私を殺してくれるなら、それはそれでいいかもしれないけど」
「そんなのだめよ」
サタンは間髪入れずに否定する。頭の中では、あなたが自分で死なないと、と最終目標がちらついていた。
彼女が発した言葉は、エラーに正しく届かない。こればかりはエラーではなく、サタンの特殊な要求のせいだ。エラーは気を良くして、すぐ近くにある肩に凭れ掛かると、さらに甘えてみせた。
「くっついて寝ていい?」
こんな大きな子供を生んだ覚えは無いのだけど。そう言いたくなる気持ちを抑えて、サタンは優しく微笑む。
エラーはサタンより年上なので、サタンが飲み込んだ言葉すらちぐはぐだったが、互いに実年齢を知らない彼女達はそれに気付かない。
「いいけど。それ、つかないようにしないと」
「あぁ……」
已然赤い涙を流す手首を見ながら、サタンは言う。血液は服に付着すると面倒だ。包帯を手に取ろうとエラーが体を動かすと同時に、サタンが服を脱いだ。
「え!?」
「いいよ。いちいち包帯するの、面倒でしょ。もったいないよ」
明言したことはないが、どうやらサタンはエラーが自身で包帯の工面をしていることを知っているらしい。歯切れ悪くサタンの行動を受け入れた彼女であったが、再び悪女の発言に困惑する事となる。
「エラーも脱いだら? 汚れたら困るでしょ。それに、裸でくっついたら暖かいよ」
「いいよ。お風呂でもないのに。人前で脱ぐのって、なんか好きじゃないし」
「ふぅん」
言葉とは裏腹に、サタンはエラーを冷たい視線を浴びせる。勇気を出して彼女の提案を断ったエラーであったが、この目つきは堪えたようだ。
「……分かったよ」
観念したエラーは滅多に人前で脱がない作業着のボタンを外すと、手早く上半身の衣類を全て脱ぎ去った。そして恥ずかしさを誤摩化すように、所々既に赤茶けてしまっている布団に潜る。
「潤、いい子」
サタンは漸く満足したようで、エラーの腕を頭の下に敷いて目を閉じた。傷が付いていない方の腕を枕にしたのは、サタンのせめてもの優しさである。
サタンはこうして、気まぐれにエラーの本名を口にするようになった。人前で呼ばないのは当然として、二人きりの時でも思い出したようなタイミングでしかその名を使わない。それすら計算だということに気付かず、名前を呼ばれる度に絆される女がいた。
困ったように、そして安心したようにエラーは息を吐く。サタンの方を向いて、彼女を抱き抱えるように手を回すと、エラーも続いて目を閉じた。
程なくして、その現場をドア越しに目撃した者がいる。刑務作業だったものの体調が優れず、看守の疑うような視線を背に受けながら、その女はB-4区画に戻ったのである。
「うわ……」
目の当たりにしている光景をにわかには信じられず、思わず声を発する女は、自身の長い髪に触れながら自室へと足を向けた。部屋に戻ってから考えようと先延ばしにしてみたが、どうにも気が進まない。何もかもが面倒になった女は”参”と書かれた扉を閉めると、ベッドに寝転がり、眠りに就いた。
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