ACT.57

 囚人にすら刑務作業の一斉免業日がある。刑務官達にも同様に、何もしない日があってもいいんじゃないか。そんな下らないことを考えながら、扉の前に並んだのはエドであった。

 要するに、彼女は朝の点呼なぞたまにはサボってくれと願っているのだ。早朝にムサシの部屋を抜け出してこっそりと戻ってきた女は、頭をゆらゆらと動かしながら、なんとかそこに立っていた。


 それぞれの囚人番号が呼ばれる。返事にはかなり個人差がある。ムサシやサタンのような者は「はい」と短く答え、ラッキーは少し間延びしたように「はーい」と、頼んでもいない手まで上げる。クレは「おう」、エラーに至っては無言である。

 そしてエドは自分の囚人番号が呼ばれると、けだるげに「うぃーす」と答えた。きびきびと歩く刑務官の後ろ姿を見て、あいつは本当に人間か、ロボットか何かじゃないのか、と勘ぐっていると、背後から声を掛けられる。


「エドちゃん、昨日どこ行ってたの?」


 今にも散ろうとしているが、B-4の面子はまだ全員が扉の前に立っている。その中で投げかける質問にしては、随分と空気が読めていない。エドはラッキーの配慮の無さを視線で咎めた。しかし、その類いの無言の圧力をものともしないのが、ラッキーという女である。


「帰ってくる時、ドアの音聞こえたよー」

「てめぇ、あんな時間に起きてんのかよ」


 エドが戻ったのは時刻にして五時頃。朝型の人間であれば起床していてもおかしくない時間帯だが、この女にそんな印象はない。むしろかなり夜型に偏っていることを、B-4の面子は知っている。ラッキーが起きていたと知ったエドは、初めから寝ていないのだと瞬時に理解した。


「そそっ。これから寝るんだー」


 からからと笑うラッキーだったが、談話スペースのテーブルを挟んで投げかけられた言葉に固まることとなる。


「今日が刑務作業の日なの、忘れてませんか?」


 柔らかい笑顔でそう告げるのはサタンだった。しかし、あえて敬語を使ったところをみると、静かに怒っているようである。ラッキーはぎこちなく半歩退いた。


「え……あれ……? 明日じゃ」

「今日ですよ」


 僅かに語気を強める。サタンはおそらく嘘をついていないということを察すると、ラッキーの顔から血の気が引く。


「え……無理無理無理、めっちゃ眠いよ!?」

「夜更かしすっからだろ。確か今日の作業って、部品の組み立てだろ?」

「えぇ、それもペアの」


 どこに居たのか答えたくなかったエドは、チャンスとばかりにサタンの話に乗った。嘘はついていない。数日前に予定表を見た時に、面倒くせぇと悪態を吐いた記憶があったのだ。


「……てめぇ、休んだらサタンに殺されるぞ」

「わざわざ殺さないよ。汚らわしいもの」

「え!? 殺されるより悲しいんだけど!?」


 コントのようなやりとりをぼんやりと眺めるのはエラーとクレである。二人はラッキーが大袈裟に騒ぐ中、どちらからともなく目を合わせ、三人の雑談が一段落したと見ると自室に戻った。


 クレは部屋に戻ると、ベッドに腰掛ける。朝食後の予定を考えてみるが、したいことも、しなければいけないことも思いつかなかった。ふと、エド達の声が聞こえなくなったことに気付く。

 ドアを開けると、それぞれが食堂や自室に移動したようで、談話スペースは嘘のように閑散としていた。妙な胸騒ぎを覚え、クレは右隣の部屋、つまりエラーの部屋を訪ねる。


 そこには便座に肘をつくエラーの姿があった。手首から流れたそれは、腕を辿って肘から便器へと、赤く軌跡を描いている。腕まくりしているところを見ると、服の汚れを気にする程度の理性は持ち合わせた状態で行為に及んだようであった。


「はぁ……またか」

「あぁ。クレ。来てたの」

「朝っぱらから何やってんだよ……他の奴に見られたら」

「朝っぱらだからだよ。あの様子だと、デバガメ女も今は余裕なさそうだしね」


 初めて聞くあだ名だが、クレは一瞬で”デバガメ女”というのがラッキーを指していると理解した。彼女の妙な聴力の良さを、クレは身を以て体験している。エラーの判断には納得しつつも、やはり自傷行為自体が解せない彼女は難しい顔を崩さなかった。


「で? 抱かれに来たの?」

「はっ、馬鹿じゃねーの。イヤな予感がしたから寄ったんだよ」

「へぇ。クレの勘は当てにならないね」

「大当たりだろ」


 クレはエラーを抱きかかえようとしたが、手を突き出して拒まれてしまう。こうなることを予測していたと言わんばかりに、しゃがみ込む。


「落ち着いたら自分で移動するから」

「マジで落ち着けよ。そんな顔色しといて移動する気にならないってヤバいぞ」


 再度背中に手を回すと、エラーは観念したようにクレの首を片腕で抱き寄せ、それを受け入れた。そうして怪我人を持ち上げると、クレはできる限り丁寧にベッドに横たえさせ、ため息をつく。

 普段は包帯で隠されているがちらりと視界に入る。腫れ上がるようにばっくりと開く傷口と目が合うと、肌が粟立つのを感じた。


「今日はもうやめとけ。いいな」


 クレは便器の傍らに落ちていた鋏を手に取ると、壁に据え付けられている鏡の上部の隙間に挿した。長身の彼女だから成せる技である。

 あれをエラーが取り戻す為には、台か、協力してくれる背の高い女が必要になる。しかし、今はそのどちらかを手配する気にはなれない。手の届かないところでぬらぬらと光る鋏の持ち手を見ると、エラーはとりあえず一眠りすることにした。


 ”壱”の部屋を出ると、クレは格子をくぐり、廊下に出る。とりあえずは食堂に向かえばいい。臭い米でも咀嚼してみそ汁で適当に流し込めば、それなりに血肉になる。クレを動かすのは空腹感ではなく、義務感であった。



 食事を終えようとした頃、クレはエラーのことを考えていた。万が一、別の刃物を使ってまた手首を切っていたら、と懸念していたのである。エラーに突き立てられる刃物はあの鋏以外に見たことがないので、おそらくは問題ないだろうと分かっていても心配だった。

 あれは性急に自傷しすぎである、というのがクレの見解だ。顔色の悪さだけではない。数が減ってきた性行為の中で、縋るような必死さが窺えるようになり、彼女はずっと訝しんでいたのだ。しかし、傷口を目の当たりにしてしまい、その思いはさらに強まった。確信を得たと言ってもいいだろう、あれを放っておくのは危険だ。


 遠くのテーブルがなにやら騒がしい。目を向けると、そこにはなんとゴクイがいた。頭に包帯を巻き、肘に装着する杖のような支えを「カッコイイだろ」等と言ってのんきに自慢していた。幸い、ゴクイはクレの視線には気付いていない。

 自分を襲った犯人の片割れ。憎しみ以外に持つべき感情など無いというのに、後遺症が残るような怪我をしても尚、気丈に笑う姿を見ると、なんとも言えない気持ちにさせられる。

 皆、環境や状況に適応して変わっている。その思いは僅かに、しかし確実にクレの心を駆り立てた。



 クレは食堂を出ると、部屋に戻った。そして、たまにエラーの部屋を覗く。エラーは寝息を立てるばかりで、動く様子は見られない。近くにいると必要以上に気にかけてしまうことに気付き、全く気乗りしない散歩を開始することにした。そういえば、エラーがまだまともにボスをやっていた頃、こうしてよく見回りをしていた、と思い出しながら。


 食堂ではゴクイがまだ仲間達に囲まれて談笑している。久々に見るその光景を尻目に廊下を歩き、医務室の前を通り、二階に上がる。吹き抜けの上部フロアに辿り着くと、クレはエドのことを思い出した。ここは少し前、クレがエドにこっ酷く拒絶された場所である。

 あの時はムサシが割って入り、結局逃げるようにその場をあとにした。比較的新しい記憶だというのに、クレの中では既に思い出したくない出来事として、苦々しくこびりついている。

 あの日、エドが立っていたところまで歩いていく。そして、彼女がしていたように、手すりに体重を預け、囚人達の往来を見やる。人の頭ばかりがうようよと交錯していくばかりで、何も無い。エドも同じ気持ちだったのだろうか。それを確かめようにも、二人の関係はこじれにこじれてしまった。これ以上考えたくない。そう言う代わりに、クレはその場を離れた。


 気付けば滅多に使われない階段に腰掛けていた。掃除が行き届いていないようで、隅には埃が溜まっている。それらを適当に手で払うと、小さくため息をついた。

 何も考えたくない。ということすら考えたくない。クレは、理由の分からない羞恥に顔を伏せていた。自分の何かを、とにかく強く恥じていたのだ。膝を抱えてしばらく、部屋に戻って寝るしかないと思い立つが、重い腰がなかなか上がらない。


 そんな時だった、二人の声が聞こえたのは。


「ねぇ、いいよね?」

「あかんって」

「なんで?」

「逆に、いいと思った理由を教えて欲しいんやけど」

「えー」

「アホなこと言っとらんと、はよ戻らんと」


 恐らくは階段の上からだろう。足音もあっただろうに、ぼんやりとしていたクレはまるで不意を突かれたかのように驚いた。

 聞き慣れた声と、聞き慣れない方言。なにやら聞いてはいけないものを耳にした気がする。あらゆる要因が心臓の鼓動を早くさせる。咄嗟の判断で、クレは二人が降りてくる前に物陰に身を隠して、そこに座り込んだ。


「やっぱサタンだ……」


 まさか、こんなところに人がいるとは、思わなかったのだろう。また、彼女はかなり憤激していた。あれほど不機嫌なサタンを見たことがなかったが、もしかすると、怒りでつい方言が出てしまったのかもしれない。クレはそう考えてなんとか納得することにしたが、姿を見ながら声を聞いても、他人が声を当てているような違和感は拭えなかった。


「……っつか、あいつらどういう関係だよ」


 いい加減、頭がパンクしそうだ。クレは周辺の関係を整理しようとした。しかし、事実だけを述べれば、どうということはない。ラッキーとサタン、エドとムサシ。ただ身近に二組のカップルが出来たようだ、ただそれだけのことである。

 クレがやけにややこしく感じたのは、サタンの人柄やラッキーの来歴、エドとムサシの元の関係などに起因する。まさかという組み合わせの二人が、いつの間にか距離を縮めているのだ。彼女がついていけないと思うのも無理はなかった。


 再びその場で膝を抱えてみると、何について恥じていたのか、クレはようやく気付いた。他でもない、逃げてばかりの自分自身を恥じていたのだ。


 クレはじっと手のひらを見つめる。エラーとは恐らく、これ以上の関係は望めない。というよりも、お互いに望んでいない。クレは心のどこかで、それを強引なエラーのせいにしていたが、自身の持つ何かが彼女を煽っていることには、とっくに気付いていた。

 気付いた上で二人きりになったのなら、それはもう共犯だろう。クレはクレで、エラーも利用していた。本人がそれに漸く気付いたのである。

 エラーが変わらぬ調子で居れたなら、クレがこのように自分が置かれた状況を見つめ直すことも無かったのかもしれない。しかし、今のエラーは自傷行為にかまける死に損ないだ。


 物思いに耽り、自らの膝を見つめるクレは、歩み寄る気配に気付かない。誰かが近くにいると知ったのは、声を掛けられてからであった。


「クレさん、何やってるんですか?」

「……ムサシか」


 顔も上げずに応える。

 間違いなく、彼女がいま一番会いたくない女であった。


「お前、なんで」

「作業の部品を置きに行くのに通りがかっただけですよ。立てます? また具合悪いんですか?」

「いや……大丈夫だ」


 しかし、ムサシはクレの事情など知らない。いつもと変わらぬ調子で、気の良い後輩としての役割を全うしようとした。クレはそれをどこか疎ましく感じながら、膝を抱える手に力を込める。


「……なぁ」

「なんですか」

「昨晩、エドがそっち行ってたか?」

「……来てましたけど。点呼の前に戻りましたよ」

「……そうか」


 ムサシの返答が一瞬遅れる。その理由はあまり考えたくない。二人の間柄を考えると、当然心当たりはあるものの、どうにも受け入れ難かったのだ。生々しいやりとりを想像すると気分が悪くなった。どう足掻いても自身とエラーのそれに比べると可愛いものである筈だろうに。


「買ったのか」


 何故そんなことを口にしたのか、クレは自分の言動が信じられなかった。ムサシがエドに対価を支払った上で取引したと思いたいのか、気分が悪くなった腹いせをしたかったのか。恐らく前者だ、クレはあいもかわらず膝を見つめたまま思った。


「……どうでしょう。じゃ、私作業に戻るんで」


 むきになって否定されれば、クレはまだ救われたかもしれない。ムサシは顔を上げようとしない女の、赤い髪に軽蔑の眼差しを向け、すぐに背を向けた。


「……オレ、マジでバカだな」


 クレは自身の言動に心底嫌気が差していた。先送りにしていた問題にやっと目を向けようとしたが、あまりにも遅過ぎた。いつの間にか周囲に取り残されていることに気付き、挙げ句この有様である。

 更に、この状況の逃避先として、エラーの顔が思い浮かぶのだから救えない。それは駄目だと、過ちを繰り返そうとする自身の弱さを何とか振り払う。霞がかった意識の中、クレの足は自室へと動いていた。


 夜。どれほどそうしていただろうか。クレは窓から灯りが差さなくなった事で少なくとも数時間、ベッドに横たわっていたことを知覚する。おもむろに身体を起こすと、本日何度目とも分からない”どうしてこうなった”という思考を繰り返す。

 ドアの小窓の向こうも真っ暗で、どうやら夕食はおろか、夜の点呼すら無意識に済ませたらしい。あとは寝るだけだというのに、クレはドアを開けて談話スペースに顔を出した。そして、”弐”の扉のノブに手をかけた。




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