ACT.56
きっと、これで最後だ。
ムサシはそう確信して、筋張った手を離した。
その日、既に消灯時間も近いというのに、医務室に十名程の囚人が集まっていた。皆が囲むのは一つのベッド。そこには髪の長い女が横たわっていた。
歳のわりには若く見えるが、定義としては熟女の部類に入るであろう女は、複雑な表情で自身を囲む面々の顔を眺めていた。乾燥でうねった髪を気にかけながら、「皆が来てくれたのに、こんな身なりでごめんなさいね」と冗談の一つでも言えれば良かったと、ろくに口が利けないことを残念に思っている。囚人番号331番、通称ササイは、自分を見下ろして悲しげな表情をする友人達に、心を痛めていた。
皆、ササイと懇意にしていた者達である。B棟でこれほど多くの者に慕われている囚人も少ないだろう。当然、その中にはムサシの姿もあった。やはりこの面子の中でもムサシは特別で、ベッドの横に椅子を置き、その手をずっと握り締めている。
所内は非情である。どれだけ仲のいい囚人同士であろうと、決して特例は認められない。傍らに立つセノは心苦しく感じつつも、囚人達が注目している中で、気を利かせることはできないと、己の立場と役割の残酷さを痛感していた。
特に、ムサシとササイの二人は、件の暴行事件の引き金となった可能性のある人物である。その場に居合わせた当事者達は、正当防衛でありエドの独断だったことを証言したものの、セノの中でムサシへの疑いは晴れないままだ。そんな背景が彼の心中を更に複雑なものにしていた。
「ムサシ、悪いが」
「分かってます」
セノは苦い表情で、部屋へ戻るように指示した。ササイと親しい者が一人、また一人とその場を去る中、ムサシだけは椅子に座ったままだ。手を離して顔を覗き込む。ササイは震える唇で、一言だけ告げた。絞り出されたそれは、この世に存在する他のどんな言葉よりもムサシに深く刺さった。
「ごめんね」
「どうして、あなたが謝るの……?」
ササイがそう呟いた理由は、ムサシには分からない。彼女にどんな事情があったとしても、まず先に謝らなければいけないのは、忠告を無視してゴクイを殴りつけた自分だ。ムサシはそう思ったが、背後に立つセノの存在を思い出し、口を噤んだ。
こんな場所で出会った間柄だ。ろくなものじゃない。傍目に見て、そう一蹴されるのは分かっていた。静かに見守る棟長だって、腹の中では何を考えているか分かったものではないのだ。それでも、ムサシはササイを想う気持ちを隠したくなかった。
その手にもう一度触れたくて堪らない。膝の上に乗せたムサシの指先がぴくりと動く。しかし、今度こそ離せなくなりそうだと気付いてしまい、結局ササイの手の平を見つめて俯くことしかできなかった。
二人が出会ったのはファントム入所当日のこと。右も左も分からない彼女の世話役を務めたのがササイだった。基本的な一日の過ごし方、通るべきではない通路、所内の勢力図、看守の機嫌の取り方。ムサシはここで生きて行くのに必要なこと全てを、ササイから教わったのだ。そして彼女は、何物にも染まらず過ごすようにとアドバイスもした。
ササイから見たムサシは、かなり危なっかしい生娘であった。世話役として、ファントム入所までの経緯を聞かされた彼女は、そう思わざるを得なかったのだ。
礼儀正しく聞き分けは良いが、大切に思う人間を間違えると取り返しの付かないことになる、という予感があった。
朱に交われば赤くなると言うが、ムサシが一度忠義を尽くしてしまえば、黒にも白にもなるだろう。悪い人間ではない。目を見てそう確信したササイは、出来る範囲でムサシを守ろうとしたのだ。
その結果、あろうことか、己の復讐の為に手を染めさせることになってしまった。ササイが謝罪したのははっきり言ってただの自己満足である。だが、それでいいと思っていた。そもそも謝意があって、自身が微塵も満たされない謝罪など存在するのかと、割り切ってすらいた。
ササイには、告げた言葉の理由を説明する気はないのである。静かに見つめられたムサシはそれ以上問いつめることが出来なくなり、耐え切れず再びその手を掴んだ。
「いやです、ササイさんがいなくなるなんて」
「ムサシ。元気でね」
死ぬな。笑って過ごせ。幸せになれ。無事にこの地獄から抜け出せ。短く発せられた言葉から、ムサシは様々な意味を感じ取った。
そして、”この手を離して”。そうとも取れた。独り立ちしなければいけない。ムサシはそう決心して、意味を持ってその手を離した。
ムサシは立ち上がると、扉へと歩き出す。扉の前で振り返り、一礼をして、セノと目を合わせてから部屋を出た。これから夜の内にササイは移送される。ファントムの古株が一人、また全うではない理由でここを去るのである。
医務室から出て真っ直ぐと区画へと向かおうとしていたムサシであるが、曲がり角で足を止めた。見慣れた人影が、おそらくは自分を待っていたからである。
「よう」
「エドさん」
「もう消灯だぞ」
エドはポケットに手を突っ込み、めんどくさそうにそう告げる。どちらかというと不機嫌そうな表情であったが、ムサシは満面の笑みでエドへと駆け寄った。
「んだよ」
「迎えに来てくれたのかと思ったんですけど」
「はぁ? 違ぇよ」
「そう、ですか……」
寂しげな表情を浮かべる横顔に、堪らず「ササイと会えるの、最後だったんだろ」と述べると、エドは歩き出した。その背中を見つめながら、ムサシは微笑んだ。本人は認めないだろうが、エドはやはり自分を待っていてくれたのだと確信する。
どうせ駄目元だ。ムサシは甘やかされたついでに、もう一つ甘えてみることにした。
「部屋、行っていいですか」
「ぜってーダメ。お前なんか連れてったら冷やかされるに決まってんだろ」
「そうなんですか?」
そうなんですか、じゃねぇよ。エドは頭の中でそう吐き捨てると、ため息をついた。エラーだけならまだしも、先輩にまでつっつかれているのだ。彼女がこれ以上薪を焼べるような真似を避けたがるのは当然である。
しかし、あれほど慕っていた囚人と別れたばかりのムサシを放置するのも気が引ける。エドは自分の中に芽生えた同情心に驚きつつも、ある提案をした。
「……あたしがお前の部屋に行くなら、いいぞ」
口にしてから、本当にいいのかよと自問自答する。答えは分からない、ただ分かるのは、いずれにしても自分は後悔するということだけである。実を言うと、通路でムサシを待っている間にも葛藤していたのだ。考えることが億劫になってきたエドは、どうとでもなれと、ムサシの前を歩いた。
格子の向こう、B-6区画の談話スペースを覗き込むと、そこには幸運なことに誰もいなかった。誰かに見つかる前にとっとと入るぞ、と声をかけて、ムサシに扉を開けさせる。どうにか人目に触れずムサシの部屋に上がり込むことに成功すると、エドはやっと安堵した。
声も掛けず、靴を脱いで勝手にベッドに寝転がる。ムサシも気にしていないようで、にこやかにその様子を眺めてから、そっとベッドの淵に腰掛けた。これではどちらが客人か分からないが、気に留める者はこの空間に居なかった。
エドの視界の隅には、やけに嬉しそうな表情のムサシがいる。はっきりと目を合わせる気にもなれず、天井をぼんやりと見つめる。
ここにきて初めて、こういった時にどのような言葉を掛ければいいのか知らない、と気付いたのである。エドに心当たりがあるとすれば、店で働いていた頃、男に浮気された相部屋の女を適当に慰めたことくらいだ。
誰かを思って言葉を探すことは難しく、正解を探し続けることは億劫だった。そして、これまでまともにしてこようとしなかった事をしようとしている自分が滑稽に思えた。ただ、自分の心はムサシを特別扱いしたがっている、という自覚はある。
「ササイ、元気になるといいな」
結局あたり障りのないことしか言えなかった自分に呆れ返るエドであったが、声を掛けられたムサシは対称的に嬉しそうだった。まぁいいかと、自責の念を放棄すると、エドは頭の下に腕を敷いて、ムサシに向くように身体を横にした。
しばらくして消灯時刻になると、暗い部屋にムサシの話し声が響いた。
「ササイさん、ここにくる前からササイさんって呼ばれてたの、知ってます?」
「は? なんでだよ」
「笹井さんだからですよ」
「……すげぇな」
すっかりいつもの調子を取り戻したムサシは、ここではタブーとされている本名の話をした。もうここを離れるのだから、時効ということで。彼女はそう判断したのだろう。エドはその話を聞いて、間抜けな顔をしていた。
「ササイさんは、剣道を嗜んでた子がムサシを名乗ることになるなんて、と笑ってましたが、私から言わせてもらえば、笹井さんがササイさんと呼ばれることになる方がすごいですよ」
「だな」
そこでエドははたと気付く。
「っつかお前、ササイの名前聞かされてたんだな」
「はい。普通教えないものだとは知ってましたけど。私の名前を、ササイさんには何故か知っていてもらいたくて。打ち明けたら、お返しに」
思い出話はムサシを苦しめるかもしれないと躊躇したが、杞憂だったようだ。むしろ気が紛れていいのかもしれない、と思い直すと、エドは少しほっとした。
「マジで仲良かったんだな」
「そうですね。私、雅っていうんです」
「はぁ!?」
飛び起きるように体を起こす。いくら音が響きにくいとはいえ、もし誰かが談話スペースに居たなら、確実に聞こえていたであろうボリュームである。しかし、エドにそれを気にかけている余裕はなかった。
「聞いてくれますか? って聞いたら、どうせ断られると思ったんで。先に言っちゃいました」
「てめぇも大概強引だよな」
いたずらっぽく笑うムサシは少しあどけなく、少年のようであった。そして、告げられた言葉から、やはり雅というのはムサシの本名であると認識したエドは肩を落とした。
「でも、エドさんの名前は、言わなくていいですから。私の自己満足ですし」
「ったりめーだろ」
エドが本名を知る囚人は、クレに続き二人目となる。といっても、クレの場合はラッキーが勝手に明かしてしまったという経緯があるので、本人から進んで本名を告げられたのは今回が初めてだ。
ここまで特定の誰かと深い仲になると考えていなかったエドは放心したが、慌てて考え直した。深い仲ではなく、向こうが無遠慮に距離を縮めているだけだ、と。
「寝るか」
エドは誤摩化すようにそう言ったが、ムサシは歯切れ悪く応えるのみであった。ようやく告げられた、おやすみなさいという言葉を無視できるほど、エドは人が出来ていない。
「おい、変な間やめろよ」
「いえ、そんなつもりは」
「本当か?」
「は、はい」
追求されるとは思っていなかったのだろう、ムサシは狼狽えながら顔を背ける。エドに背を向けるように体を横たえると、顔が見えないことにほっと一息ついた。
このまま寝てしまおう。ムサシは目を瞑って心を落ち着けようとしたが、背後から爆弾を投げつけられ、それどころではなくなってしまう。
「例えばあたしがしたいって言ってもか?」
この人は一体なにを言っているのだろう。あまりにも突拍子のない発言だった為、羞恥はなかった。ただ、予想外の言葉に戸惑うのみである。
返答に困り、言葉を探していると、さらにエドは言った。いや例えばだぞ。そんなこと言わねーし、と。
あまりの無神経さに怒りを覚えながら、ムサシはゆっくりとエドに体を向ける。
「……そういうの、ズルくないですか?」
「あ?」
目の前のアホ女は困ったような、苛立ったような顔をしている。この一言でピンとこない、それはムサシの怒りを倍増させた。
「相手の気持ちを事前に確かめておくなんて卑怯です、フェアじゃないです」
「……よく分かんねーけど、答えたくねーってのはよく分かった」
あぁめんどくせぇ。エドの顔にはありありとそう書いてあった。むしろ、ムサシの強い言い方に引いてすらいた。どうやらこの女は火に油を注ぐのが得意らしい。
「そういう話をしてるんじゃないですよ! 私の意向は問題じゃないんです! エドさんの今の質問って、された時点でこっちが不利になるっていうか」
「やっぱわかんねー。不利とか有利とか。てめぇはどっちが上かとか、競ってるつもりなのかよ。てっきり対等を望んでるのかと思ったぜ」
「だから! そうじゃなくて!」
「んだよ、あたしにも分かるように言ってくれ。多分、お前が想像しているよりも馬鹿なんだ、あたし」
適当に言い逃れようとしたが、ムサシはなかなか離してくれそうにない。観念して話をきちんと聞こうと、姿勢を改めたエドであったが、いざ向き合おうとすると、ムサシの方が視線を逸らしてしまった。
それでもエドは、ムサシが話すまで待った。適当なことを言うとまた怒らせるかもしれないという懸念があり、激昂する訳を知りたかった彼女には、他に選択肢が無かったのだ。
「その、エドさんとするのは……やぶさかじゃない、んですけど……そういうの、私から言わせないで欲しいっていうか……」
耳まで真っ赤にして、ようやくムサシは気持ちを言葉にした。最後まで聞いたエドであったが、それにしてはまだ納得がいかないような顔をして、こう宣った。
「悪ぃ、やぶさかってなんだ?」
「もう! ばか! 知らない!」
「いってぇー! はぁ!? てめぇいきなりなんだよ!」
もしかしてわざとやってるのか、と言いたくなる程にエドは鈍感で、あらゆる意味で馬鹿であった。ムサシは手加減無しでばしばしと目の前の肩を殴る。それだけでは気持ちが収まらなかったムサシは、再びエドに背を向けて不満を噴出させた。
「大体、こういうときって胸を貸してくれたりするんじゃないですか」
「泣いてねーじゃん、お前」
「泣きたいですよ」
ムサシの発言に、エドは言葉を詰まらせる。それってつらいんじゃないか。そう思ったエドは、脳裏を過った可能性について、単刀直入に問うた。
「もしかして、あたし邪魔か?」
「そんなことないです、でも、なんでか泣けないんです」
本人にだって理由が分からないのだ。強がりや嘘ではない事は、普段のムサシを見ていれば察しがつく。そうして、泣くとササイが居なくなるという事実に負けたような気持ちになるのかもしれないと思い至った。
「……胸じゃなくて、腕貸してやるよ」
ならば無理に泣く必要はないだろう。エドがムサシの髪に触れると、軽く頭が浮いた。存外素直なその動きに吹き出しそうになったエドであったが、また怒らせると面倒だと、なんとか堪えて、ムサシの首の下に左腕を滑り込ませる。
枕が小さい為、密着しなければどちらかの頭が落ちてしまう。そうしてぴったりとくっついてみると、エドからは自身の左腕がほとんど見えなくなった。視界に映るのは、ムサシの後頭部のみである。
「今日、エドさんが迎えに来てくれて、嬉しかったです」
「別に迎えに来た訳じゃ……っせぇな、どうだっていいだろ」
首に敷かれた細い腕は、枕としてはあまりにも心許無い。それでも必要かと聞かれれば、ムサシは要ると即答するだろう。居心地が悪そうにぱたぱたと動く左手を握ると、ムサシは目を閉じた。
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