ACT.55


 壁に据え付けられた頑丈な箱を、少し離れたところから、壁に凭れて腕を組み、じっと見つめる一人の女が居た。

 クリーム色の堅牢そうな鉄箱の中では、いくつかのランプが赤と緑のセットで並んでおり、多くは緑が点灯している。それが時折赤に切り替わり、またすぐに緑に戻る。

 箱の正面の一部はガラスになっており中が見えるようになっているが、惰性のような微かな光は、目を凝らさないと捉えられない程に弱々しいものだった。

 女はその様をずっと眺めているのだ。かれこれ三十分はそうしている。何が楽しいのかは本人にしか分からないだろう。


「あー」


 壁に凭れて佇んでいるのはラッキーだった。

 見つめる先の箱には、これまた頑丈そうな南京錠がついており、万が一にも開けられそうにない風格を漂わせている。しかし、それには目もくれず、彼女はただランプを見つめていた。それが三つ同時に切り替わると、彼女は楽しそうに目を細めた。

 ラッキーはこうして、所内の設備を定期的に観察しているのだ。通りかかる囚人や看守達も、まさか彼女がそんなものの為に立ちつくしているとは思わないだろう。


 彼女を咎める者も、声を掛ける者もいない。誰も彼もが、特に気にも留めずに通り過ぎていく。だらだらと移動する人の流れに気を取られると、突然置き去りにされるような感覚に陥ることがあったが、彼女はそれも込みで楽しんでいた。


 はいつだって彼女を置き去りにしていく。彼女は一般人のほとんどが気にかけないものばかりに気を引かれ、挙げ句皆がこぞって身を滅ぼす一般的な感覚は理解できない。

 ラッキーが持ち合わせているのは、とある”どうでもいい”とされているものに対する興味と、人並の性欲くらいである。恋や愛を知らないその女は、確実に普通ではない。

 息苦しい世界の中、”どうやら自分は頭がおかしいらしい。”そう割り切ると、全てが楽になった。頭がおかしいから浮気をすることも厭わないし、そもそも付き合うという感覚に共感できない。独占欲というものも持たないし、セックスとはただの気持ちいいだけの行為である。そう考えただけで救われた気がした。

 まだ学生だった頃、誰かに言われた”同性愛者なんじゃない?”という言葉。その言葉の通り、適当な女を見繕ってみたものの、やはり”愛”というものは分からずじまいだった。その時に初めて自覚したことと言えば、同性の方が相性が良さそうだ、ということだけである。


 ランプが切り替わる。緑、赤、緑。ラッキーが見つめるその光は施錠、解錠を示している。壁に据え付けられている箱はこのフロアの各格子扉の制御盤だった。見かけたことのないデザインで、おそらくは特注だろう。サイズも普通のものより一回り大きい。それは造形だけでラッキーを楽しませた。


 自分が何者なのか知る為に、随分と無茶をしてきた。複数プレイやゴム無し等は十代のうちに済ませ、成人してからも様々なそれに手を出し、一通りは済ませた。そこでラッキーは導き出した結論は、プレイの好き嫌いはあっても、それを飛び越えて人を愛することはやはり無いということ。

 当時を振り返って、馬鹿なことに時間を費やしてしまったと、彼女は反省している。


 付き合っているつもりだったらしい女が言っていた言葉を、ラッキーはふと思い出す。それは”どういう人が一番強いだろう”という、一種の謎掛けである。その女は”どんな時でもしっかりと食べて、寝て、身なりを整えていられる者が強い”と答えた。当時、ラッキーはそれを、なかなかに賢い回答だと思った。

 しかし、彼女には別の答えがあった。それは「どこにでも行ける人」である。聞かされた女は大笑いして馬鹿にしたが、今でもラッキーはその回答をおかしいとは思わない。

 どこにでも行ける、それはつまり、どのような環境にも順応する強さを持ち合わせ、飛び込む勇気がある者である。しかし女は言ったのだ。どこにでも行けるというだけなら、失う物が何もない者や、無鉄砲な馬鹿だって該当するかもしれない、と。ラッキーはそうだねと同意した。

 その類いの輩を、ラッキーはある種”強い”と評しているのだ。強いというよりも、厄介であるという意味合いが濃いかもしれないが。そんな連中で溢れ返っているのが、ここファントムだ。昔の他愛もない思い出が、絶海の孤島であるこの場所とリンクすることを不思議に感じながら、ラッキーの瞳は緑と赤を追い続けた。 


 どれほどそうしていただろうか。何度目になるか分からないランプの切り替わりの瞬間、突然声を掛けられる。聞き覚えのある声だった。


「何をしてるの?」


 振り返ると、そこには唯一無二の友であるサタンが居た。いや、彼女は保留と言ったので、厳密にはそう呼ぶには早いのだが。少なくともラッキーはそう思っていた。

 気安く掛けられた言葉に浮遊感を覚える。ただタメ口を利かれただけでこれほど喜ばしく感じた事はないだろう。ラッキーはサタンを見てしばし惚ける。

 しかし、はっきりとしない反応はサタンを苛立たせた。彼女は訝しんで、再度質問を投げかける。


「何かあるの?」


 一向に答えようとしないラッキーに向けられた言葉は、僅かにだが確実に怒気を孕んでいた。腕を組んで首を傾げると、一歩踏み込む。そうして催促するように顔を見上げると、ラッキーはやっと言葉を発した。


「えっと。わかんない」

「はい?」


 あまりに情けない発言である。ラッキーは自分自身に失望しながら、視線を泳がせた。ドラッグでもやっているのか。サタンはラッキーの挙動に違和感を覚えながら、所作を注意深く観察した。

 とりあえず、発言が妙であること以外に異常なところは見受けられない。目の前の女の場合、存在自体が異常なのだが、今ばかりはそれについては不問として。どぎまぎした態度はやはり普通ではないが、ただそれだけのようである。


 サタンには想像もつかないだろう。ラッキーは動揺していたのである。彼女は長い間、世間から取り残されたと思っていた。そしてそれを悲しむこともせず、ただ仕方がないことと割り切っていたのだ。

 どうせ自分のことなど、誰も気にかけない。諦めすら感じず、ただの事実として受け入れていたというのに、そんな自分に声を掛けてくれた人がいる。

 ただ話しかけただけで、それほどの感動を覚えられているとは誰も思わないだろう。顔色を窺うような視線を物ともせず、ラッキーは呟いた。


「もしかしたら、サタンに話しかけられるの、待ってたのかも」


 冗談や嘘ではない。理由は分からないが、ラッキーは本気でそう思っていて、ありのままを言葉にした。サタンにはすぐに分かった。

 しかし、それがなんだと言うのだ。サタンは切り捨てるように、率直な感想を述べる。


「きっしょ」

「え、ひどくない?」


 サタンはラッキーの横を通り過ぎるように歩き出す。ラッキーはすぐに振り返ってその後を追うと、長い腕を伸ばしてサタンの腕に絡めた。ビジュアル的には逆の方がしっくりきそうな二人であるが、当の本人は周囲の目を意識できるほどまともではない。

 振り払いそうになるものの、人前であることを思い出すと、サタンは大きくため息をついた。


「そこの格子まででいいから。ね?」

「ほんまに無理やわ」


 小さくそう呟くと、サタンは柄にもなくポケットに手を入れて、足早に廊下の突き当りの格子を目指す。その様子はじゃれ合う女子高生のようであった。

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