ACT.53

 区画を区切る格子、二つの人影がそれをくぐる。その影は繋がっていた。心底嫌そうな表情を浮かべて歩くのはサタンである。しばらく前にエドとクレが科せられた罰を思い出しながら、何も悪い事をしていないというのに、この仕打ちはなんなんだと眉間に皺を寄せる。サタンと指を絡ませ、対照的にニコニコしているのはラッキーだった。まるで母と買い物に来た幼い少年のように無邪気な表情で、サタンの手を引く。


「いやー、若い頃を思い出すね」

「おばさんですか」

「やだなー、まだお姉さんでしょ?」


 年齢をネタにされてもラッキーは上機嫌のままだ。おそらくは二十代半ばから後半であろう女に向かって、おばさんと宣ったサタンは、涼しい顔でラッキーから視線を逸している。顔を覗き込まれているような視線を感じたものの、あえて無視する。つれない様子のサタンに、ラッキーは臆せず続けた。


「まー、サタンちゃんに比べたらおばさんかもだけどさぁ」


 サタンはラッキーと会話する気を既に失っていた。罪状にまつわる重要な資料を、要求を飲めば明け渡すと脅され、このような馬鹿げた茶番に嫌々付き合っていたのだ。

 手を繋いで目的地まで歩きたいと言われた時、サタンは耳を疑った。元々おかしい奴だとは思っていたものの、ここまで狂っているとは。流石、娑婆から直接ここにブチ込まれる重罪人は違う、と呆れ返った程だ。


「手が腐り落ちそうなので早く離していただけます?」

「えーいいじゃん。食堂の方回ってこ」


 勘弁しやがれ。普段の柔らかい物言いは何処へやら、サタンは吐き捨てそうになった言葉を堪えて足を動かす。


 食堂に着くと、雑談に興じていた囚人達は視線を奪われたままざわついた。たむろしているのは、お世辞にも女性らしいとは言えないような連中であった。墨を入れたりモヒカンだったりといかにもな輩だったが、見た目に反して噂話が好きらしく、こうして集まっては井戸端会議のような真似をするのが習慣であった。

 視線の先にいるのは、他でもないサタンである。あの難攻不落とも言われた女が、他の囚人と手を繋いで歩いている。口を半開きにさせて、それぞれがラッキーに羨望の眼差しを向けた。

 二人はあえて気付かないふりをして食堂の別の出入り口に向かう。この先は囚人の居住区になる。


「サタンちゃんってかわいいのに浮いた話がないからああなるんだよ」

「そんな話があったら誰か死んでることになりますけど」


 尤もな指摘に対し、サタンは声を抑えて憎まれ口を叩いた。ラッキーと話すのは好きではないが楽ではある、彼女はそう感じていた。唯一性癖を知る人間の前でなら取り繕わずに済むのだから、そう思うのも当然である。


 このままでは居住区に差し掛かるが、ラッキーは一体どこを目指しているのやら。サタンはこの女の思考回路を読み取ろうとするだけ時間と脳細胞の無駄だと結論付け、好きに連れ回させる事にした。時折かけられる言葉には生返事をして黙らせる。


 そして辿り着いたのはB-4区画。伍の扉の前である。入って入ってーと声をかけながらノブを回す。手を繋いだままサタンを引き寄せると、ラッキーは扉を閉めた。


「とうちゃーく!」


 楽しげに告げるラッキー。サタンはそんな女の頬に向かって、右手を開いて振り抜いた。風船が破裂するような音がラッキーの悲鳴とほぼ同時に鳴る。


「いったぁ!?」

「あんまり私を怒らせない方がいいですよ」


 サタンが怒るのも無理はない。資料の存在をちらつかされたのは他でもない、ここ、ラッキーの部屋だったのだから。つまり、手を繋いで外を連れ回されたのは全て無駄だったということになる。目的地に向かうなんて、大袈裟な言い方をされたことにも、サタンは腹を立てていた。

 被虐趣味の者であれば土下座してでも乞いたくなるような、完璧なビンタを受けたラッキーは目に涙を浮かべながら弁明した。


「ご、ごめん……連れ回したのは悪かったけど、渡したいものがあるは本当だから……」


 しかし、サタンの反応は冷ややかだ。まさにゴミを見る目をラッキーに向ける。


「で、これで「私の愛がプレゼント」なんて言ったら……どうなるか分かってますよね?」

「そんなこと言うわけないじゃん! ほら、これ! あげるよ!」


 ラッキーがほとんど空のような引き出しから取り出したのは、一枚の写真だった。一人の女性がベッドに横たわっており、顔には布がかけられている。ベッドシーツの一部には赤茶けた液体が飛び散っており、致死量の出血があった事が窺える。素人であっても、よく見ればその女性が既に絶命していると理解できる、極めて取扱いに困る写真であった。


 しかし、サタンは頬を赤らめ、半ば強引に奪うように写真を手に取った。

 捕まる決定打となった、電話に出たの写真。忘れはしない、この写真を撮影したのはサタンである。遺体に触れる直前に、一番愛しい瞬間をと写真に収めたのである。


「これ……なんで……」

「言ったでしょ、サタンちゃんのデータ見ちゃったって。その時に手に入れて、本当はずっと渡したかったんだけど……サタンちゃんが私に敬語使うのやめてくれたら、渡そうと思ってた」


 ラッキーは偽りのない事実を述べる。納得いかないのはサタンの方だ。彼女の言う条件なら、まだ満たしていない。

 しかし、ラッキーは困ったように笑った。


「うん。いいんだ。多分ずっとこうなんだろうなって気がしたから。でも、私がそれ持っててもしょうがないし。っていうか言っちゃ悪いけど普通にグロいし」


 この素晴らしさが分からないとは。というか、仲良くしたいというものが、そこまで本気だったとは。サタンはなんと言い表してよいのか分からず、馬鹿を見るような目でラッキーを見た。


「わがまま言ってごめんね」


 ——こいつは、なんなんだ。

 ——何がしたくて、こんな。


 サタンにとって、これほど不可解な行動は他に例がなかった。まるで、心の成長がストップしている、子供のようだ。仲良くしたいのに、その術が分からない。下手に頭と顔が良くて大人なものだから、裏があると疑われる。

 ラッキーという人物は、他人の心の機微に疎いだけの、幼稚で存外素直な女なのでは?

 言い訳をするように言葉を紡ぐラッキーを見つめながら、サタンはそう感じた。


「最初にも言ったけど、サタンちゃんのプロフィール見たとき、びびっときたっていうか……本当に、ただ友達になりたかっただけなんだ」


 先ほど頬を強かに打ち付けた手が、サタンよりも大きい手の中に収まっている。顔の印象とは裏腹に、その手は随分と無骨であった。

 離して。そう言おうとしたけど、そうしたい訳ではない。ただそうしなければいけない気がして、サタンはラッキーの手を振り解こうとしたのだ。


「……この人以外いないって思って、それでサタンちゃんのこと」


 ——あ、泣く。


 サタンは声に出なかったのが不思議なくらい、ラッキーの表情の虜になっていた。別に、勝手に泣けばいい。そう思ったはずなのに、サタンは結局、ぎりぎりのところで根負けした。


「サタン」


 自身の名前を呼び捨てにすると同時に、優しく包んでいた手を抜け出し、その手首を掴む。がっちりと掴まれた手首にラッキーは顔を歪めたが、サタンはそれを無視する。こんな気まぐれを起こした自分自身に驚きながら、サタンはもう後には引けないと観念した。


「え」


 強く握られた手首に、突如変わった目付きに、ラッキーは動揺を隠しきれない。


「人に敬語使うななんて指図しといて、自分はちゃん付け? ふざけるのも大概にしいや」


 サタンは呆れた顔でため息をつき、掴んでいた手首を、床に捨てるように無造作に離した。呆気に取られたラッキーの言葉を待っていたら、いつになるか分からないと判断した彼女は構わず続ける。


「こない終活みたいな真似されたら堪らん言うとるんよ」


 そう言ってラッキーの諦めを茶化す。それはおそらくラッキーがずっと欲しがっていたものだというのに、あまり嬉しそうにしていない様子を見咎めると、サタンは少し笑った。


「今なら、友達を欲しがったラッキーの気持ち、ちょっと分かるわ」


 彼女はエラーの顔を思い浮かべていた。比較的仲が良いと思っていた友人すら、より掛かられれば簡単にターゲットになってしまう。罪悪感なんて何も感じない。この世で最も尊いのは愛を”完成”させることだと、再認識してしまう。

 エラーの行いを基本的に責めないサタンだが、好かれる為の振舞いを心がけている以外にも、もう一つだけシンプルな理由がある。自身も似たようなものだから強く言えないのだ。

 己のさがには抗えないと打ちのめされ、友達と呼べるような人間など居ないと、改めて思い知る。その気になれば、あの粗暴なエドですら可愛く見えるかもしれない。

 絶対に人を愛せないと断言し、自分の思い通りに動きそうもない変人は、もしかすると唯一無二の存在に成り得るのではないか。最近の環境や人間関係の変化のせいか、サタンは少し、ラッキーの言葉に耳を貸すつもりになったのだ。


「……え、関東出身だよね?」

「ちゃんとプロフィール見とらんのやね。母の出身地のせいや。半端な方言やから、外では喋らんようにしとったんよ」

「……そう、なんだ」


 彼女がその言葉を喋る理由を聞いても尚、実感が湧かない。それほどに、サタンという女と西の言葉はマッチしなかった。


「なんよ」

「いや、すごいギャップだなーと思って」


 それはそうだろう。その土地を深く知らぬまま、聞き覚えた方言を話しているのだ。話者である本人すら違和感が拭えないため、こうして封印されてきたとも言える。

 しかし、ラッキーが言いたい本題はどうやらその先にあったらしい。


「なんかすごいムラムラする。ね、さっき友達って言ったけど」


 あけすけに情欲を伝え、あろうことか距離を詰めるラッキーだったが、サタンの恐ろしい提案により、すぐに閉口することとなる。


「スプレー缶貸そか?」

「あ……いや、結構です……」


 ラッキーは詰めた距離を即座に戻し、いや、これまで以上に距離を取るように大きく一歩下がる。目を合わせないように顔を伏せるラッキーを観察しながら、今度はサタンがゆっくりと距離を詰める。


「私はラッキーが何をしようと知らん。そっちも同じように、深入りせんようにね」


 サタンはラッキーの返事を待った。つまりこれは協定である。少しずつサタンがそう言った意味が分かってくる。これはもしや。ずっと望み続けていた願望が実現しようというのか。ラッキーは唖然とした表情で惚けた。


「なんや」

「友達に、なってくれるの?」

「……まぁ、考え中やね。印象よりも、誠実なんやなって感じたし」

「あーーー」


 ラッキーはだらしない声をあげてサタンを抱き寄せた。身じろぎをしたものの、全く抜け出せる気配がなかったサタンは、観念したようにラッキーの背中に手を回した。


「苦し」

「ねぇ、キスしていい?」

「あかん。友達言うたやろ」

「自分はしたくせに!」

「それはそれや」

「法則が分かんないよ!」


 サタンはラッキーの背をつねって怯んだ隙に腕の中から抜け出すと、痛がるラッキーを無視して部屋を出た。自身の口角が上がっていることに気付いて自己嫌悪に陥るまでに、それほど時間は掛からなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る