ACT.52
B-4区画、参の部屋。エラーはベッドに腰掛けて、情報屋の女に言われたことを思い出していた。”最近のボスの無能っぷりは歴代を振り返ってみても類を見ない程だと噂されてる”。
おそらく嘘ではないのだろう。しかし、エラーには分かっていた。わざわざそれを伝えるということは、情報屋の女もまた同じように感じているのだと。しっかりしろ、そう言われているようで息が詰まりそうだった。ボスとして生きる理由を失ったエラーには響かない言葉であった。
ハイドからもらったという煙草に火を点けて、エラーは煙を吐き出す。その光景を見て、隣に座るクレは唖然としていた。一応、携帯灰皿の準備はあるらしく、エラーは囚人服である作業着のポケットをごそごそと漁っている。
クレが気にしているのは、煙草の始末ではない。普通、他人の部屋で吸うか? という部分についてである。多くの者が無視しているルールではあるが、当然喫煙はご法度だ。蔑ろにされている規則とはいえ、犯してもいない罰について刑務官に詰問されるのはまっぴらである。しかし、声を掛けたが最後、彼女もフィルターを咥える羽目になった。
別にいいけどと零し、ライターを受け取る。慣れた手付きで火を点けると、用済みのオイルライターをエラーに返した。
「意外。普通に吸えるんだ」
「……昔、吸ってみろって言われて、それからしばらく、な」
「……ごめん」
クレと話すと、何が地雷になるか分かったものではない。エラーは何度目かになる爆薬との接触に肝を冷やした。
しかし、いたずらに女に喫煙させるとは。強盗団というのは、随分と趣味の悪い連中らしい。吸ってる間は玩具にされなくて済むかもしれないという期待があれば、恐らく自分も同じようにするだろうとクレを哀れみ、エラーは肺まで煙を巡らせる。
気まずい空気に耐えられなかったのはクレも同じで、素肌に直接囚人服を羽織ると話題を変えた。
煙草を咥え直そうとすると、腕に付いた引っ掻き傷が嫌でも視界に入る。また派手にやってくれたと、笑いながら煙を吐いた。
「ゴトーの野郎、悪運強ぇよな」
「ね。まぁどっちにしろ、しばらくは戻ってこれないだろうけど」
エラーは大して見えもしない、狭い窓の外をぼんやりと見つめている。煙草を持つ手はずっと口元を覆っている。なんとなくその仕草が気になったクレは、たまたま見つけた手首の真新しい創傷にクレームを付けた。
「お前、またワケわかんねぇ傷作って」
「いいんだよ。これは、いいの」
「……傷付け足りないのか?」
「なんでそうなるかな。クレとのそれは、傷付けるのが目的じゃないし」
エラーは”いいの”と言うが、クレに言わせれば何がいいのか、全くもって分からなかった。結果、加虐趣味が治まらなかったのでは、という解釈をした彼女に落ち度はないと言えるだろう。
話せば話すほど分からなくなる。クレはエラーとの関係に概ね満足しているが、互いに考えを理解し合っているかと聞かれれば、答えは否であった。
「じゃあなんで、いつも」
「だってそっちの方が気持ちいいでしょ」
「……変態」
「私じゃなくて、私達の話をしてるんだよ。クレだって痛くないと物足りないでしょ?」
エラーの言葉を否定できればよかったが、クレには今さらそのような反応を示せない事情があった。ただ肯定するのも恥ずかしかったのか、彼女は話題を逸らすように、エラーの手首を見ながら言った。
「オレがやろうか?」
「やめて」
これは決して人に手伝わせていいものではないのだ。自分だけで背負うべきものである。エラーは踏み込まれる事を即座に拒んだ。
適当に口にした話題に、まさかここまで明確な拒絶を示されると思っていなかったクレは、面食らって固まった。妙な空気が舞い戻るのを感じたエラーは適当に話を終わらせることにした。
「まぁ……私の傷については放っておいてよ」
「わかった」
クレは返事をしつつ、携帯灰皿を拝借する。根本まで燃え、フィルターまでをも焦がそうとしている煙草を投げ入れた。
近頃、エラーの様子がおかしいのは明らかである。何かを考え込んだような表情をしたと思えば、じっと穴が開くほど手のひらを見つめたり。すれ違いざまにぶつかった囚人の足を強く踏んだり。とにかく、痛々しいほどに情緒不安定な振る舞いが目立った。
最近どうした、なんて自分が聞いても答えてはもらえないのだろう。そう思ったクレは、ふと思い出した事柄を話題にすることにした。
「エドに部屋借りた日、あいつから泊まってくるって言ってたんだろ?」
「あー。どうだったっけ。どっちでも良くない?」
「良くねぇよ。思い出してくれ」
この件について、エラーはクレに真実を告げるつもりはなかった。実は同じ空間に居たと知られれば、いくらエラーといえど、数発は殴られるだろう。
クレがここまで拘る理由が分からない。まずは確認してからでも遅くないだろうと気付いたエラーは短く言葉を発する。
なんで? と問うと、クレから告げられたのは、エラーにとってあまりに突拍子の無い話であった。
「お前、エドとムサシがデキてるって言われて信じるか?」
「どうしたの、クレ。今晩はえっちしないで寝よっか」
「別に体調不良じゃねぇよ」
っていうかさっきヤったのに、まだヤる気だったのかよ。エラーの欲求の強さに呆れ返ったクレは、乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
クレが呆れている間、エラーは考える素振りを見せていたが、すぐに馬鹿馬鹿しいとばかりに思考を放棄した。
「いやぁー……ないでしょ」
「あいつ、ムサシの部屋にいた」
「そうなんだ」
いや、それは有り得ない。エラーは声に出さずに否定する。どこでどうやって拵えた勘違いかは分からないが、それは間違っているのだ。もちろん、諸々が発覚すると面倒なので、エラーは黙っているしかないのだが。
前提が間違っている話に、真面目に耳を傾けざるを得ないとは、なんとも苦痛である。エラーは内心うんざりしながら、短くなった煙草の先端を見つめた。
「吹き抜けの廊下あるだろ。あそこで待ち合わせしてたし」
「……まぁ、二人共、元々顔くらいは知ってただろうし。エドに助けられてお礼を言ってたとかじゃない?」
「今更か?」
エドが独房から戻ってきてしばらく経つというのに。彼女はそういった意味で”今更”という言葉を使ったが、あの日あの場でエドに礼と詫びを伝えたクレにそれを言う資格はない。エラーの与り知らぬ事情であった為、指摘こそされなかったが、クレは自分を棚に上げた発言であることに気付くと、居心地が悪そうに煙を吐き出した。
「随分と気にするんだね。エドにあんなことされたのに」
「妙な言い方すんな。ただ、オレはムサシが心配なだけだ。後輩みたいなヤツだから」
「そっか。別にいいけどね。私は、クレが誰のこと好きでも」
「冗談でもやめろよ」
エラーは話半分に聞き流していた。新しい煙草に火を点け、煙と一緒にため息を吐き出す。むしろ今のは、ため息のついでに煙を吐いたようなものなのだが。
相手を目の当たりにしても尚、堂々と呆れることができるアイテムとして、煙草は有用である。普段あまり煙草を嗜まないエラーにとって、それは新しい発見だった。
「だってさ、気にかけすぎなんだよ。決定的な何かでもあるんなら別だけど」
「……あいつら、手繋いでくっついてたんだよ」
万が一肉体関係があったとしても、意外だというだけで何もおかしいことではないと思っていた。もしかしたらエドが営業再開した上で、ムサシが買っただけかもしれないと。
ササイのことで胸を痛めているムサシが同じ立場の女を買うかと言われれば可能性は限りなく低い上、そもそも同性愛者という噂すら聞いたことがないが、考えられない事ではない。ここに長年いると、その気がない者すら染まってしまうのは、ありがちな話である。とにかく、エラーは元々それを生業としていたエドが誰と肉体関係を持とうと、あまり驚かない。
しかし、手を繋いでいたとなると話は別である。同性愛を毛嫌いする彼女がそうする意味は、股を開くよりも遥かに重いのだ。今の話が事実であれば、もはやクレの考え過ぎだと笑い飛ばすこともできない。
「……マジで?」
半信半疑といった表情で、そう言うのが精一杯だった。
ぽろりと落ちた灰がベッドの上に着地し、珍しくエラーはクレに叱られたのであった。
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