ACT.51

 その日の脱衣所は久々に大勢の囚人で賑わっていた。というのも、一時的な対策であった少人数での入浴の期間が終わった為である。彼女らの与り知るところではないが、刑務官達はやっと面倒なシフトから解放される事になり、この厳戒態勢の解除を心から喜んでいた。


 囚人達がひしめき合うようにして並ぶ中、エドは眠たそうな顔をしたまま、身体を洗っていた。彼女がこのような表情で時間を気にかけず過ごせているということが、この場につかの間の平和が戻ったという、何よりの証拠であった。

 強引に石けんを渡してくる者もおらず、背後を気にかける必要もない。ゴトー達から誘いを断り続ける日々は終わったのだ。今は商売を再開する気にはなれない、それがエドの率直な気持ちだった。いつかは再開するだろう、おそらく。しかし今はどう足掻いてもそれをイメージすることができない。とにかくエドはウリに対して前向きに検討する気持ちを失っていた。

 身体の泡を流しきるところで、背後から誰かがエドの肩を掴んだ。嫌な予感に振り返ると、そこには濡羽色の長髪をまとめた女が立っていた。


「あ……?」

「これ、落としましたよ」

「誰かと思ったらムサシかよ。てめぇ、どういうつもりだ」

「えー……と、いつまで経っても拾わないから声かけたんですけど……」


 二人の会話は噛み合わない。

 身体は求めないと宣言して数日でコレかよ。エドはがっかりしたような、呆れたような視線を向ける。一方でムサシはというと、偶然にも女を買う手順を踏んでしまっている事に気付かず、突如向けられた敵意に、訝しげに眉を顰めていた。

 徐に持ち物を確認したエドは、バツが悪そうにムサシから視線を逸らし、舌打ちをする。ムサシはそれをエドに手渡すと、自身が陣取ったスペースへと消えていった。


「エド……ムサシがそんなこと、するワケないでしょう?」

「るっせぇ」


 隣から掛けられた声には目もくれず、吐き捨てるように黙らせる。サタンは八つ当たりのようなエドの態度を快くは思わなかったが、エラーから受けた仕打ちを知っていた為、静かに同情の視線を向けるのみである。

 何をされても、大概のことは許してしまいそうだ。あまりにもエドを哀れむあまり、サタンはそんなことを考えたりもした。


 無駄な会話をしていたせいか、周囲の囚人達は続々と湯船へと体を沈めていく。エドも慌てたが、もう後の祭りである。

 いつか、ラッキーに「面倒なことになる前に上がれ」と教えたことを思い出す。人に忠告しておいて、まさか自分がヘマをするとは。そう、風呂場で最後だった者は大浴場の清掃係を任命されるのだ。

 長風呂好きの変わり者が、ゆっくり湯船に浸かれるならと、嫌な顔一つせず引き受けることもあるが、エドが見渡したところ、その筆頭であるナルシスは入浴日ではないらしい。

 がっくりと肩を落とすと、視線の先に移動する赤いものが見えた。その赤い何かが引っかき傷であることを脳が知覚した後に、その傷の持ち主が見慣れた赤髪であることに気付く。女は気だるげに足を動かし、湯に浸かろうとしているところだった。


「おい……サタン……あれ……」

「あぁ……気になるなら本人に聞いてね」


 エドを煽ろうか逡巡したサタンであったが、どう考えてもこの場は何かを打ち明けるのに適していない。一旦は様子見をすべきだと判断したのだ。サタンは返事を聞く前に湯船に足を向ける。そんな女の背中をエドは見つめた。少しばかり、縋るような気持ちがあったのかもしれない。


 正面から腹部を薙ぐようにしてできたその傷は、おそらく真新しいものである。胸騒ぎに駆られ、エドはそれから手短かに泡を流すと、ようやく湯に浸かった。浴槽の奥、ちょうどクレの背中が眺められる場所に、小さな体を滑り込ませる。


「あーあ……」


 ”やっちまった”なのか、”見ちまった”なのか。エドはたったいま自分が零した声が、どちらに掛かっているものなのか、分からなかった。

 見たくなかったと言えばそうだろう。しかし、呆れる気持ちが無いと言えば嘘になる。エドはクレの傷だらけの背中を見て、確かに莫迦を見たような気持ちになったのだ。


 彼女は知っている。アブノーマルに溺れた者の末路を。育ちのせいか、普通の人間よりもそんな愚か者を多く見てきた。彼女が慕っていた、茜という少女もその被害者と言えるだろう。

 つまり、エドはそういった行き過ぎた性行為が、本人達に何が齎すかを理解していた。ゴトーやゴクイ達にも妙な癖があり、エドは金を払わせて乱暴させてやった。吐いているところが見たいというゴクイのリクエストにだって、追加報酬が支払われれば応えた。しかし、それでエドは快楽を得ていない。得たのは金銭で、交わされたのは事前の契約である。ゴトー達とエドは、あくまで対等な立場なのだ。

 しかし、クレとエラーはどうだ。割り切る為の口実も、終わらせるきっかけも、何も持たないまま真っ暗闇の中でそれを貪っているだけである。

 危険だ。エドは本能的にそれを察知した。もちろん、自分にはそれを指摘する資格がない事も、同時に理解していた。

 それならせめて、あの傷に触れたいと思った。手を伸ばすことすら敵わないと知りながら、無惨な背中を舐めるように見つめた。


 どこから間違えた、という思いが過ぎっては、考えるだけ無駄だと吐き捨てる。どう足掻いたって時間は巻き戻せない。その結論に触れる度に、もう二度と下らないことは考えないと、心に誓うのだ。

 しかし、ここ最近の彼女はそれを繰り返していた。エドは過去の過ちを認めたくないのである。自分の行動は全て正しかったと、己を肯定していたいだけなのだ。

 そんなエドでも、やっと気付き始めた。そもそもどこから間違えただなんて、選択を誤ったと後悔している人間以外は考えない、と。そうして、初めて目の当たりにする、赤く彩られた背中が彼女の懺悔を後押しする。


「……ちっ」


 あんなことしなければ良かった。普段からもう少し穏やかに接すれば良かった。できることなら出会う瞬間からやり直したい。エドは初めて、自身の中で溢れるように湧く願望を認めた。

 そうしてしばらく呆ける。エドが気が付いた頃には、囚人はほとんど脱衣所に移動していた。クレですら姿を消している。どうせ今日は掃除を担当すると覚悟していた日だ。せっかくだからと、エドはすりガラスの向こうで蠢く影を見ながら、もうしばらくゆっくりしていくことを決めた。

 隣には、そんなエドの様子を窺うように顔を覗き込む女がいた。


「んだよ。上がれよ」

「掃除、手伝いますよ」

「いらねーよ。出てけ」

「っていうか、エドさんって、掃除の手順知ってます?」

「うっ……」


 手を抜き過ぎれば刑務官に呼び出されることはもちろん、囚人からも顰蹙を買う事になる。入浴に癒しを求める囚人は少なくないのだ。

 だからエドは避けていた。今まで、一度も当番をこなしたことはない。ローテーション制である通常の当番と違い、風呂場の清掃は避けることができるのだ。元々雑用を好かない女が、経験したことがある筈がなかった。


 エドは気まずさを誤摩化すかのように、話題を変えた。さきほどのやりとりについてである。


「あんな石けんの渡し方すんなよ」

「そうそれ。なんでです?」

「お前、ここでしばらく生活してる癖にそんなことも知らねぇのかよ……ウリの合図だろうが」

「あっ、言われてみれば……ごめんなさい。それであんなに怒ってたんですね」


 しかし、エドの怒りはそれだけでは収まらない。妙に引っ掛かる言い方をされた彼女は、責めるように捲し立てた。


「っつかてめぇ、あたしが石けん落としたことと、しばらく拾わなかったこと、なんで知ってんだよ」

「はい?」

「見てたのかって聞いてんだよ、オイ」


 ラッキーが見ていれば、何を怒っているのだと茶化していただろう。しかし今のエドは些細なことすら流せなかった。観察されているようで気分が悪く、二度目が起こらないようにしたかったのだ。

 どんな言い訳をされようが、場合によっては実力行使してでも咎めるつもりだった彼女だが、ムサシの意外な反応に、すっかり毒気を抜かれることになる。


「別に、いいじゃないですか」


 視線を落として赤面すると、ムサシはぶっきらぼうにそう答えた。


「……そういう反応やめろよ」

「もしかして、困ってます?」


 ムサシはエドの顔を覗き込むと、不思議そうに訪ねる。


「ばっ! 近ぇーよ!」

「……ウリやってるくせに、妙なとこで神経質なんですね」

「今のは売春婦全員を敵に回したぞ」


 この日、エドは大浴場の清掃手順を初めて知ることとなったが、結局ほとんどの作業をムサシが担当した。こき使われているというのに、妙に嬉しそうな彼女の横顔を見て、エドは呆れ果てた。

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