ACT.49


 吹き抜けの二階部分、通路の奥に女は居た。無表情で一階を見下ろし、ため息も忘れて惚けていた。女のすぐ横は行き止まりで、そのはかつて薬の取引によく使われていた場所である。二代前の棟長の時代に監視カメラを取り付けられて以来、ヤクは直接の受け渡しから、何処かに隠し、誰かが取りにいくという方式に切り替わった。ドラッグの蔓延を大して気にもかけていないファントムが、そのような対策に打って出る程、このどんつきは重宝されていたのである。

 つまりは普段はあまり人が寄りつかない場所だった。意味もなく監視カメラに映りたがる者は居ない。ファントムにはそういったスポットがいくつも存在するが、ここはその中でも、ちょっとした内緒話をするのに最適な穴場だ。


 黒塗りの塗装が剥げ、ぼろぼろになった柵に肘をついて、行き交う人を見下ろす金髪の女。近くにはつり目の長身の女が立って居た。クレにはエドが誰かを待っているのか、ただ一人になりたくてやって来たのか、判別できない。

 確かめるように近付くと、気配を察知したのか、エドは一瞥もくれずに大袈裟に息を吐いた。


「何してんだよ、こんなところで」

「こっちの台詞だ。消えろよ」

「たまたま見かけたから」

「そうかよ。消えろ」


 エドは徹底的にクレを拒んだ。声を聞く度に、数時間前に嫌というほど聞いた甘い声が頭の中でリフレインする。それを振り切るように、エドはただクレを拒み続けた。


「てめぇ」

「消えろ。なんべんも言わせんな」


 拒絶はまだ分かる。しかしこの落ち着き払った態度はなんだ。クレは未体験のエドのリアクションに困惑した。

 独房から戻ってきて以来、違和感を感じていたのはエドだけでは無かった。クレもまた、エドがどこか変わってしまったように感じていたのだ。しかし、互いに踏み入れられない事情があり、クレの立場から言えば、態々エドと関わり合いになる必要はない。蹂躙された日々を思い出すと、彼女自身もより強くそれを感じる。だというのに、しおらしい態度のせいか、今日はこの女が妙に気になった。

 かと言って何の理由もなしに話しかけることなど出来はしない。クレは言い訳をするように、話しかけた本題について告げた。


「……さっきそこで聞いたんだ。ゴトー生きてたってよ」


 顔色を窺うように、クレは言葉を切る。少し待ってみるが、反応はない。


「たまたまお前の後ろ姿見かけて」


 きっともうこちらは見ないだろう。それを確信したクレの語気が若干弱まった。


「伝えようと思って」


 どうでもいいんだな、そうだろうな。オレもどうでもいい。

 クレはそう観念し、本当に伝えたかったことを口にすることにした。


「あのときは、お前にも助けられたのに、礼を言ってなかった」


 "お前にも"、エドはその言葉に引っ掛かったが、上手く言語化できず、ただ黙っていた。

 しかし、この女が憤るのも無理はない。あの場にすぐに駆けつけたのも、エラーに声をかけたのも、セノを呼べと指示を出したのも、ムサシの凶行を強引に止めたのも、全てエドなのだ。


「……消えろ」


 食い下がろうとしたクレであったが、性的に弄ばれていた自分がここまで惨めな思いをして礼を言う必要があるだろうか、という思いが過ぎる。

 いつか謝意を伝えなければいけない、と決めていた筈なのに。やっと独房から出てきたと思えば妙に冷めた態度で振る舞い、意を決して話しかけると、今度は”消えろ”である。エドよりいくらか忍耐強いクレであるが、この対応はさすがに堪えた。


「……あと、礼の他に詫びもある」

「だぁからいらねぇっつってんだろ! てめぇの自己満だろーが! あたしを巻き込むんじゃねぇ!」

「でも、その……昨日は、悪かったと思ってる。エラーはたまたまエドがどこかで寝ることになったなんて言ってたけど、違うんだろ? どうせエラーが無理矢理お前を追い出したんだ」

「うるせぇ死ね」


 追い出しただ? そうだったらどんだけ良かったか。こちとらてめぇの喘ぎ声聞きながらベッドの下に潜んでたんだよ、一睡もしてねぇんだぞ、殺すぞ。

 口まででかかった言葉を、エドはなんとか飲み込む。本当は捲し立てたくて堪らないが、流石のエドもそこまで浅慮ではない。外泊していたことにした方が全てにおいて都合がいいということは分かっているのだ。しかし、クレの言う事を肯定する気にもなれなかった。


「でもお前、一晩どこに居たんだ?」

「……答えたくねぇ」


 これ以上話をしても互いの為にならないだろう。そう思い、クレが踵を返そうとした時だった。


「クレさんでしたか」

「え、ムサシ?」


 背後からかけられた声に、驚いて振り返る。そこにいたのは、従順な後輩であった。惚けるクレに構わず、ムサシはその奥で下を眺める女に話しかけた。


「エドさん。怒鳴り声、下まで響いてましたよ」

「てめぇが早くこねーからだろ」

「すみません、当番があったもので」


 どうやら二人はここで待ち合わせていたらしい。二人の会話を聞いて事態を把握したクレであったが、思い当たる節があったようで、すぐにエドを睨みつけた。


「なんでムサシが……てめぇ、まさかムサシに何か」

「私が呼び出したんですよ」


 その華奢で小さな体躯からは想像できないほど、ムサシはクレの手首を強く掴んだ。

 自分がエドに脅迫されたと誤解している気がしたのだ。ムサシは自分とエドの対外的な評価を客観視している。つまり、何も知らない人間がクレのような勘違いを起こすことは、むしろ想定内であり、当たり前のこと。

 だから大事になる前に、エドが誤解をさらにややこしくする前に、自分が対処する。エドに関わると決めた日の内から考えていたことだ。


「……エド、どういう」


 しかし、ムサシの返答は、クレの誤解は解いたものの、混乱を解くものとは成り得なかった。向き直って今度はエドに質問を投げかけようとする。が、その気安い振る舞いを、彼女が受け入れる筈がなかった。エドは目を血走らせながら、冷たく言い放つ。


「てめぇがあたしに関わろうとすること自体、気色悪くてイラつくんだ。もう何も聞いてくるんじゃねぇ。礼も詫びも、何もいらねぇ。わかったら消えろ」


 下らない売り言葉に買い言葉とは違う。クレは、今の発言が明確な絶縁宣言だと認識した上で声を発した。


「……昨晩、居たとこって」


 信じられないという表情を向けられたムサシは、少し面食らう。否定した方がいいのか、肯定した方がいいのか。逡巡しエドを見たが、彼女の表情からそれを判断することは難しかった。結局、何かしらの返事をする前に、邪魔して悪かったなと言い残し、クレがその場を去ったのである。


 クレの背中をしばし見つめたあと、ムサシはエドの隣まで、つまり通路の最奥まで歩み寄る。


「……よく分からないんですけど、お二人ってなんなんですか?」

「うるせぇ」

「そうやって、私のこともクレさんみたいに突き離すんですね」

「うるせぇって」


 元より他人への対応が丁寧とは言い難いエドであったが、それにしても妙な様子である。ムサシはいつもとは違う何かを感じ、それでもあえて隣に立ち、肩がぶつかるくらい、体を寄せた。

 沈黙は、気まずくも心地良くもなかった。ただ静かなだけだ。何も言えないムサシと、言いたくないエドがいて、それでもとりあえずはその場に留まりたいと思い合い、なんとか成立している距離感である。ムサシは、今はそれで充分だと思った。

 エドから言葉を引き出すのを諦めてしばらくした頃、ムサシの耳に意外な弱音が飛び込んだ。


「胸クソ悪ぃことばっか起こりやがって」

「それについては同情します」


 何も分からないけれど、本心からエドの為に心を痛めている人間がいる。ムサシはそれをきちんと知っていて欲しくて言葉にした。

 同情なぞ如何にもエドが嫌いそうなものだが、今はそんな端切のような哀れみすら有り難いらしい。


「今朝から?」

「まさか。独房から戻ってきてから、ずっとだ」

「そうですか」


 探るように問われた言葉に素直に返答してみせると、どうやら相当参っているらしいと、ムサシも事態の深刻さを察した。

 頑張れ等と無責任に言うことも、助けになるなんて余計なことも言えない。せめてSOSを出してくれれば、自分はどこにだって駆けつけるのに。ムサシはもどかしい気持ちで、憔悴しきった女の横顔を見つめた。

 突然、くっと視線を上げたかと思うと、エドは真っ正面、対岸の廊下を見つめながら呟いた。


「……もうたくさんだ。早くしろよ」

「何がです?」

「どうせ、ただでヤりてーとかだろ。いいよ、好きにしろ」

「何言ってるんですか?」


 何かを聞き逃していただろうか。ムサシは直前の会話を振り返るが、やはり心当たりはなく、頭の中のハテナマークは消えるどころか、大きくなる一方である。

 そんなムサシの状態を知ってか知らずか、エドは吐き捨てるように言った。意味なくあたしに近付くワケねーだろ、と。


 そうですねと、ムサシがその言葉を肯定しても、エドは顔色一つ変えなかった。分かってた。そう言うように、ただ眠そうに誰もいない吹き抜けの向こうの壁を見つめている。

 ちょっとは怒ってくれてもいいのに。そんな気持ちに見舞われながら、ムサシは続けた。


「私にはエドさんの役に立ちたいっていう、用事があるんで。意味なくあなたに近付く人の気持ちは分からないですね」


 エドは呆れたように鼻で笑って、それでも視線は動かさない。ムサシの方を見ずに、柵に腕を乗せ、凭れたままだ。

 下を見ると、誰もが自分達に気付かずにここを通り過ぎている。それがなんだかおかしくてムサシもつられて笑いそうになった。


「下心がないと、人を信用できないんですか?」

「……人間なんてそんなもんだろ」

「そうじゃない時もありますよ」

「そうじゃない”人”とは言わないんだな」

「誰だってそういう心は持ってますよ、それに従うかどうかは別として」


 エドは心底驚いていた。もしかすると、ムサシに纏わりつかれるようになってから、彼女に対して最も強く興味を引かれた瞬間かもしれなかった。

 エドはムサシのことを、もっと幼稚な偽善者だと思っていたのだ。しっかりと彼女を見ていれば、本来そういった分析が得意なエドが見誤るはずがない。彼女は自身の認識を改め、最近の体たらくな自分を少し恥じた。

 そして、やっとムサシの方を見ると、目を合わせたまま口を開く。


「お前さ、あたしの役に立たなくていいよ。消えろ」

「いやです」

「礼はもう聞いた。あたしはお前にしてほしいことなんてねーよ」


 エドは王手を掛けたつもりらしい。少し間を置いて、終わりだろ? と言って笑うと、視線をまた対岸へと戻した。


「終わらせたくないです」


 凛と張り詰めた声。切実で、どこかみずみずしさを感じるその声は、エドを再び振り向かせた。

 なんでだよ。うざったそうに理由を聞かれると、ムサシは何も言えない。自分でも分からないのだ。ただ、側に居たいと思った。守ってもらって嬉しかった、このまま関係を終わらせたくないと思っている。そのつもりだけど、口にしてしまえば、嘘になる気がした。

 そして、エドは沈黙を確認すると、吐き捨てたのだ。


「おい嘘だろ。なるほどな、下心ある人間のこと、否定できねーわけだ」

「別に、そういうことしたいとは思ってませんし」

「嘘だろ」

「本当ですよ。本当。でも、恋愛感情自体を、下心って言われたら、その……自信ないんです」


 馬鹿かよ。ここはでもでもねぇんだよ。そんな青臭ぇモンをあたしに向けてんじゃねぇ。

 エドはムサシにもっと性的な下心があると責め続けた。


 ない訳ない。子供みたいなこと言うな、いや、子供か。

 いや、未成年はここに入れないんだからやっぱ大人か。

 つーかコイツいくつだよ。


 動揺も手伝ってか、エドの思考は飛び飛びだったが、とにかくムサシを信用できないという気持ちに変わりはなかった。


「ぜってー嘘だ」

「疑うなら確かめて下さいよ」

「どうやってだよ」

「私と過ごして見極めたらいいじゃないですか」


 勢いに任せて告白まがいの発言をするムサシだが、エドはバーカと言って笑い、まともに取り合おうとしない。

 このままでは埒があかないと判断したムサシは、一度言葉を切って、間をあけてから会話を再開させた。


「その、別に、そういう意味じゃないですよ? 本当に」

「……まぁ、ここにいる連中全員がレズって訳じゃねーかんな。その可能性もあるのは分かってる」


 ムサシの真摯な視線に絆されて、エドも真面目に応えた。しかし、その返答を聞いて目を輝かせるムサシに、エドは不意打ちをする。


「でもお前、なんとなくそっちっぽいし」

「えぇ!?」


 あまり言われ慣れていないのだろう。ムサシは肩を落として、眼下の人々の往来を眺めている。

 自分よりもいくらか背の低い女がうなだれる姿を見つめていると、エドは彼女が自身に関わろうとしている理由が更に分からなくなった。分からないことを考えるのは無駄だし、好きじゃない。いや、無駄だから好きじゃない。彼女はムサシの肩に軽く頭を預けて、独り言のように呟いた。


「……役に立ちてぇなら、少し優しくしろ」


 耳元で響くその声を聞くと、ムサシはエドの手に触れた。彼女の声を聞いた耳だけがいつまでも熱い。恥ずかしさを振り切るように、柔らかい手を強く握る。


「気色悪ぃことすんなよ」


 エドは嫌悪するようにそう言ったが、その手が振り解かれることはなかった。


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