ACT.48

 エドに屈辱的な罰を与えた翌日、エラーはサタンの部屋を訪ねていた。

 結果的に制裁はかなり上手くいったと言える。先にクレを部屋に帰してから、エラーはベッドの下を覗き見た。薄暗く狭い空間で、息を殺して潜んでいる女が確かに居た。目を凝らすと、白み始めた空の助けを借りて、彼女の眼球が光を返す。恨めしそうな視線が突き刺さる。しかし、エラーは鼻で笑って一蹴した。そうして「上使いなよ、私もう戻るから」と言い残して、部屋を後にしたのだ。


「で、話って?」

「……注射器の件」


 エラーは言葉を切って隣を見た。そこには、微笑む女が居た。はずだった。注射器と声に出すと、漂っていたどこか甘ったるい雰囲気は消散し、サタンは大きく目を見開く。


「どうしたの?」

「……エドの部屋、使わせてもらった」


 その一言だけで何に使用されたのかを察したサタンは、そうとだけ呟いた。

 エドが独房から帰ってきた日、部屋に戻ってきた時の様子を思い出す。血まみれのシーツに包まる小さな背中を。相手がクレだと知った時の揺れる瞳を。エドがクレに抱いている気持ちはやはり慕情であったらしい。サタンは噛み締めるように、小さく頷いた。


「エドって、クレのこと」

「うん」

「そう……どうしてエラーは知ってるの?」

「クレから、聞いたから」

「え?」


 惚れられている本人が知っている、ということは、告白でもしたんだろうか。いや、あのエドに限ってそれは有り得ない。サタンは特段エドと親しい間柄ではないものの、それだけははっきりと断言できた。あの女はそもそも己のそんな感情を、絶対に認めたがらない。彼女を知る人間ならば容易に導き出せる答えであった。


「あいつ、クレの弱味を握って犯してたんだよ」

「あら。じゃあ今のエラーと一緒ね」

「人聞き悪いよ。私は弱味に付け込んだだけ」

「そっか」


 サタンは適当な相づちを打ち、エラーを見る。視線を向けられた彼女はというと、こちらも淡々とした表情を浮かべていた。弱味について何かと問われればエラーは答えるつもりだったが、サタンは追求しなかった。

 エラーはクレが必死に過去を隠していた事を分かっている。理解した上で、サタンに話そうとしているのだ。それは相手がサタンだからという理由だけではない。

 クレは変わった。トラウマとも呼べるそれを、ほぼ完全に振り切ったのだ。さらに、所内で最もタチの悪い連中として知られていたゴトー一派の瓦解。万が一、彼女の過去が広まったとしても、エドの愚行の模倣犯が出るとは考えにくい。

 全てを考慮した結果、それはサタンに対して隠匿すべき過去ではなくなった、という結論に至ったのだ。勝手に判断を下して行動に出ようとしているのが実にエラーらしい。


「ま、エドは自業自得だね、色々と」


 彼女にも原因はある。そもそも、エドがクレを追いつめなければエラーと関係を持つ事もなかったのでないか、それがサタンの見解であった。


「今日、エドには会ったの?」

「会ったも何も、クレとしてる時から下に居たし」


 そう言ってエラーは、自身が腰掛けているベッドの下を覗き込むようなジェスチャーをした。サタンは言葉を失う。

 あまりに残酷な仕打ちである。悪趣味な嫌がらせを考えるのは不得意ではないだろうと感じていたものの、これほどとは。同情の念を禁じ得ない。


 しかし、エラーは笑った。

 とっておきの馬鹿話を聞かせるように続ける。


「覗いたらさ、ベッドの下ちゃっかり綺麗にしてんの。吹き出しそうになったよ」


 自業自得。ファントムではよく耳にする言葉である。法律によって裁かれた者達が集まっているというのに、この場所には司法が有って無いようなものだ。どう立ち回るか、それらは究極、全てが自己責任なのだ。

 所内にはさらに悲惨な例がごまんと転がっている。誰かの怒りを買うようなことをせずに過ごしていても、慕っている囚人がトラブルを起こしたという理由でついでのように暴力を振るわれたり、その近くを通っただけで巻き込まれたり。しかし、それらも全て、ここでは自業自得ということになる。トラブルを起こす輩とつるむ方が悪い、リンチに使用される一帯を不容易に通る方が悪い。それらと比較すると、エドが受けた罰は、実に単純明快な自業自得であった。


 そして、それはエラーに当てはめて考えることもできる。サタンは慎重に言葉を選んで発言した。


「ボスとしてけじめをつけさせたのね」

「まぁ、ね……ボスなんて、もうどうでもいいのに。ただ、私が好き勝手に振る舞う為には、ボスでいる方が都合がいいし。なんだろう、あれについては有耶無耶にしたくなかったっていうか」


 ボスというものに執着がなくなった為か、エラーはサタンの言葉を素直に受け止めることが出来なくなっていた。しかし、それを上手く言葉にできない。


「あー……ごめん、その……」


 エラーはこの瞬間、漸く自身の強烈な欲求に気が付いた。いや、元より存在は理解していた上に、弱いものではないと自覚もしていた。にも関わらず、それは自身の想像を遥かに上回っていたのだ。つまり、サタンにもっと認められたい。ほぼその一心でエドに制裁を与えたのだと、気付いてしまったということである。

 ”ボスとしてけじめをつけさせた”等という言葉だけでは、彼女が求めるそれには程遠かった。しかし、エラーはどんな言葉を受け取れば、自分が満足出来るのか分からない。まるで迷子の子供のような気持ちだった。


「すっきり、しないんでしょう」


 心を見透かされているようで、サタンの言葉が少し恐ろしかった。エラーは無言で、彼女の目を見つめる。


「かもね。この中で好きに動ける。いい玩具も手に入った。心配事もとりあえずは無い。なのに……」

「多分、エラーはどうとでもできて、何も制限が無い今の状態に違和感があるのよ」

「そうかな」


 そうじゃないと思う。声にはしなかったが、エラーは頭の中でサタンの言葉を否定した。話していると浮き彫りになっていく。自分が欲しいのは、恐らくサタンの肯定、ただそれだけなんだ、と。


「だって、ズルいもの。好きな時に好きなことしてるだけじゃない。野生の動物以上に勝手気ままよ、今のエラーは」


 ズルい。サタンの何気ない言い回しが、エラーの心に深く刺さる。この状態をサタンは快く思っていないのかもしれないと思うと、すぐにでもどうにかしなければいけないという気になった。

 エラーの傷付いた表情に気付きながらも、サタンは話を続ける。


「あなたを戒めることのできる人物は立場上、看守、主にセノさんだけね」

「……セノに何かされるのは嫌だな。刑期に響くし」

「じゃあもう一人しかいないわね」


 サタンがもったいぶって言う。それだけでエラーは期待してしまう。これほど弱さも自分の過去も、全てを曝け出した人間は、他にいないのだ。


「もしかして、サタン……?」


 何かを乞う視線。この視線にサタンは見覚えがあった。歴代の被害者達も同じ目をしていたのだ。

 そうして、彼女は淡い期待を打ち砕くように、まさかと鼻で笑った。


「あなた自身よ」


 予想外の人選に、エラーは驚く。自分でどうしろというのだ。つまりは、勝手過ぎる振る舞いを最初から自制すればいいだろうと、そういうことなのか。混乱しつつも、サタンの言葉の意味を考える。それは理に適っているようで、彼女にとって全く支離滅裂だった。

 欲望の自制が出来ていれば、元よりこんなところに来ることは無かったのだから。


「人はそれを馬鹿げていると言うけど、こんな馬鹿げた場所にいるんだもの。解決法が馬鹿げていても、何ら不自然じゃないと思わない?」


 エラーにはサタンが何を言おうとしているのか、見当がつかない。とりあえず自制云々ではなさそうだという事は分かったが、それだけだ。

 彼女の隣に座っていた女は、立ち上がって扉近くの引出しを開け、何かを探している。そして時間稼ぎをするように、エラーに問い掛けた。


「元の性格というのは滅多なことじゃ変えられないって、聞いたことある? それは性格だけじゃなくて、例えば忘れ物をよくするとか、そういう部分にも関わってくるの」

「は、はぁ……聞いたことあるような、ないような」

「忘れ物をしないように気をつけるよりも、してしまった時に備えて対策しておく方がよっぽど有意義だって話」

「矯正よりもフォローに回った方がいいって話ね。私もそう思う、けど」


 言いたいことが分かりかけていた気がしたのに、急に見えなくなった。引出しを漁る手を止めた女の後ろ姿を眺めながら、エラーは問う。なんの関係があるの? と。

 疑問を背中で受け止めると、サタンは引出しを閉じて答える。


「エラーはね。何も我慢する必要はないの。ただ、やりすぎたときに自分を戒めればいいだけ。そう思わない?」


 サタンはゆっくりと歩み寄ると、エラーの隣に再び腰を降ろした。先程よりも少し近い。互いの膝が触れ合うような距離感に、エラーははっとしながら会話を続ける。


「……でも、どうやって?」

「はい」


 手渡されたのは鋏だった。何故このタイミングで刃物を。厳密に言えば、囚人には刃物の所持自体が禁じられている。が、大半の囚人は施設側が定めたその掟を無視している。むしろ通常の刑務所の方が、この辺の規制はしっかりしていると言えるだろう。

 こういった背景があるにも関わらず、サタンが刃物を所持していることに、エラーは密かに驚いていた。馬鹿正直に規則を守っている少数派だと思っていたのだ。


「私が鋏持ってるの、そんなに意外?」

「ま、まぁ……でも、これってさ」

「切れ味は保障するわ。簡単でしょう?」


 そう言ってサタンはエラーの肩に寄り掛かった。彼女の言う通り、非常に簡単で、これ以上ないほどにシンプルな理屈ではある。しかし、それはどう考えても狂っていた。


「別に、ずっとそうしろとは言わないわ。ただ一度だけでも、試してみたらどうかなって」

「……そう、かな」


 人を散々傷付けてきた彼女だが、その矛先を自身に向けることはなかった。引っかき傷や噛みついた跡など、抵抗された結果できた傷は嫌いではない。むしろ好きだった。それでも、わざわざ自傷する趣味は、彼女にはなかったのである。

 逡巡するエラーの太ももに、サタンが触れるように手を乗せる。そして呟いた。


「自ら罪を贖う。それってすごく、正しいと思うわ」


 正しい。その言葉はエラーを突き動かした。注射器の件をサタンに報告したときも、欲しかったのはこの言葉だったんだと気付く。それが目の前にぶら下がっている。躊躇う理由は、もうなかった。


 切れ味がいいという言葉を思い出しながら、鋏を開く。作業着を脱いで二の腕にしようかとも考えたが、サタンが左の手首を静かに指差したので、エラーはその指を傷付けぬように、ゆっくりと鋏の刃を自身の手首に充てがった。

 指が離れると、それが合図となった。存在しない偶像からの寵愛を求める愚か者は、あっさりと右手を引いたのだ。

 切り過ぎないよう注意したとはいえ、サタンの言葉に二言は無かった。刃が皮膚に触れたと思った頃には、接地している部分は肉に埋まって見えなくなっていた。元々上等な鋏だったのだろう。それがこんなことに使用されることに、エラーはほんの少しだけ申し訳なくなる。

 そうして本来切り離される筈のない部分に境界線を設ける。光に晒されたそこは、外気に触れる前に赤い液体をだらだらと垂れ流した。不思議なもので、痛みを感じたのは血液が重力によって腕を伝い、肘まで到達しようとしてからだった。


「あー……結構痛い」

「痛くないと意味ないでしょ」

「まぁね」


 エラーは溢れる己の血液から、目を逸せないままでいた。痛みを確かめるように傷口を見て、流れる血液と共に、サタンの言う罪とやらが一緒に流れればいいと願う。彼女自身は自分の役回りについて、あまり”ズルい”等とは思っていない。それだけの努力を過去にしたと考えている。

 しかし、サタンはそうは思わないらしい。贖罪の為という動機に同意してみせたが、エラーはただ、サタンに受け入れられ、肯定されたいだけだった。そうすれば、自分を振り回してばかりの妙な欲求も何もかも、どうでもよくなれる気がしたのだ。


「すっきりした?」

「……分からない」

「そう。でも、やっぱりこうすることが、私は正しいと思う」


 サタンはエラーの手を取ると、血を吐き出してばかりいる、新しいに口づける。唇が触れると、新たな痛みの波が押し寄せた。それでも僅かに息を吐いて、その光景から目を離さないようにした。


 一度だけ試してみなよ。本当にこんな言葉に唆されて、自傷するなんて。おかしくておかしくて、笑い出しそうだ。

 サタンがエラーの傷口に触れたのは、すぐにでも釣り上がりそうな口角を誤摩化す為であった。それ以外に理由など無い。しかし、こうしてしまった以上、何かはしなければいけないだろう。

 サタンは開いたそこに舌を這わせると、傷口をなぞるようにゆっくりと舌を這わせた。エラーの痛みに耐えるような、慌てるような声が響く。吸い付いてみると、いつの間にか鋏を手放していたエラーの右手が、サタンの肩を掴んだ。


「ちょっ、サタン……」

「いっぱい出してね」

「……なんかエロいね」


 エラーがそう言って笑うと、サタンはやっと口を離した。そして、口内に血液が残ったまま、エラーに迫ったのである。

 断る理由なんて無かった。エラーに抵抗する意思がない事を悟ると、サタンは向かい合うように彼女の腰の上に乗って、唇を重ねる。

 後ろに倒れないよう、エラーが左手を後ろにつくと、傷口が吐き出す血液の量がまた増えた。だけど、今はそんなこと、どうだっていい。自分の口の中を蹂躙する、自分の味を纏った何か。それが動く度に、エラーは脳が痺れていく気がした。


 静かな部屋で、二人の息遣いだけが蠢く。

 ねぇエラー知ってる? あなたは興味無いって言ってたけど。麻薬の売人も同じような口説き文句で、最初の一回を勧めるのよ。

 背に手を回しながら、サタンは心の中でそう呟いた。

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