ACT.47
女は一人、自室で項垂れていた。ぐしゃぐしゃと頭を掻いては嘆息と舌打ちを漏らし、気まぐれに顔を上げては忌々しそうに唸る。うねった金髪が無造作に乱れているが、まるで気に掛けていない。薄汚いスニーカーの踵が何度も床を踏みつけ、膝が忙しなく上下に揺れる。その女、エドは全身で余裕のなさを体現していた。
履き潰された靴は入所時に支給されたものである。それがまだ真っ白だった頃まで遡って見ても、今日以上の屈辱を味わう日はなかったと断言できる。彼女の身にこれから降り掛かかろうとしている出来事は、凡そ正気の沙汰とは思えない仕打ちであった。
今日遊びに行くから、よろしくね。朝の点呼の直後、エラーに耳打ちされた内容は、シンプルながら死刑宣告のようでもあった。
反抗するという選択肢もあった。むしろ好戦的な彼女がその発想に至らない方が不自然だと言えるだろう。当然考えた、が、すぐに闘志が消え失せたのだ。
B棟のボスであるエラーと事を構えて、その後どうなるという不安が無いと言えば嘘になる。しかし、エドはいざとなれば、その辺の事情なぞ二の次にできるような女だ。上手く立ち回ろうと打算で動くのは、彼女の性に合わない。
つまり、エドはクレとの関係が拗れに拗れてしまった自分が、彼女と親密であるエラーに噛み付く。その構図を格好悪いと思ったのである。
さらに彼女は、エラーという女の性格をある程度は理解している。半端な抵抗をしても彼女を退けることは出来ないと分かっていた。例え急場を凌いだとしても、同等の罰を与えようとする筈で、それが遂行されるまでは手を緩めないだろう、という見立てがあったのだ。いや、それだけならばまだマシな展開と言えるかもしれない。抵抗したペナルティとして罰が膨れ上がり、結局命を脅かされるようなことにもなりかねないのだ。
注射器を見せられた瞬間、彼女の脳裏に死がちらついた。その後、拍子抜けするような提案をされ、事態を受け入れる前にエラーは消えた。これが功を奏した。ワンクッション置くと、直情型のエドでもそれなりに物を考えることができるらしい。
振り上げようとした拳を握り締め、彼女は罰を受け入れる道を選んだのである。
どうにもならないことを改めて認識すると、今にも笑うか泣くかしそうな危うい気持ちで、慎重に息を吐き出した。とにかく、エラーはやると言ったらやるのだ。
注射器は絶対に見つかってはいけないものだった。麻薬の所持、及び使用。それは現在のファントムB棟において、トップスリーに入る程の重大なルール違反である。
エドは覚悟を決めると、立ち上がった。
今晩、自分は自室のベッドの下で息を潜め、惚れた女のセックスに耳を澄まさなければいけないらしい。事態を受け入れようと、本日起こることを反芻する彼女であったが、有り得ないシチュエーションに顔がにやけていた。
「あーあ。マジでやんのかよ」
わざとらしくそう呟くと、誤摩化すようにまた笑う。そもそもベッドの下になんて入れるのかよ、とぼやきながら腕を伸ばしたところ、残念なことにそれなりの高さがあることが確認できた。引き出した腕にはぞっとするほどの塵や埃が付着していた訳だが、それらが気にならないほどに、エドはベッド下の空間に絶望していた。
家具の隙間で一晩を過ごす自分を客観視すると、羞恥で耳まで赤く染める。あまりにも間抜けだ。やり場の無い怒りを物にぶつけてみても、虚しさが募るだけだった。
下らねぇ、馬鹿にしやがって、くたばれ。時折エラーへの呪詛を口にしながら、エドはベッド下の清掃をした。慣れない手付きながら、普段の当番の倍は丁寧に作業したと言えるだろう。自分が一晩過ごす場所なのだ。気合いの入りようは違って当然だった。
消灯から一時間でエラー達が来る手筈になっている。それまでに入眠できれば、傷はまだ浅いだろう。馬鹿げた罰をどうにか受容するつもりのエドにとって、それが唯一にして絶対の抜け道だった。
ぜってー寝る。彼女はそう決心して、今日も今日とて夜が来るという事実を受け入れた。
***
「どっか泊まってるってホントかよ」
「らしいよ? 部屋使わせてって言ったら快諾してくれたもん」
「おま……いや、なんでもない」
消灯からしばらくすると、二人の女は静かに”弐”の部屋に忍び入った。確認する術を持たぬエドの与り知るところではないが、事前に打ち合わせた通りの時間である。
彼女はというと、全く眠れずにベッドの下で焦燥していた。実際に寝転がってみるまで気が回らなかったあることが、まるで念頭になかったことを責め立てるようにエドに襲いかかっていたのだ。複雑な話ではない、むしろこれ以上ないくらいに簡単である。
布団は当然ベッドの上、ただでさえ低い温度に床から立ちこめる冷気。昼間であれば、彼女は自身の吐く息が白く可視化している事にぎょっとしただろう。要するにとてつもなく寒かったのだ。
殴り掛かりたくなる衝動を押さえ込み、夢の世界に旅立てばいいという、エドの目論みはそもそもが間違っていたのである。これから二人が部屋を去るまでの数時間、くしゃみという名の生理現象と戦わなければいけないことを理解すると、エドは苛立ちをぶつけるように歯を食いしばった。
そして、行為が始まってすらいないというのに、彼女は精神的に大打撃を受けていた。耳に届いたクレの声はどこか期待を孕み、逸る心を押し殺しているように聞こえたのだ。
一度も聞いたことのない声色。これから起こることに浮ついているようなそれに、エドは早速吐きそうになっていた。舌打ちを噛み殺して息が詰まる。
なんなら舌を噛み切って死んじまった方がいいかもしんねぇと、地獄に突き落とされたような気分でそう思った。
「……するのか?」
「その為に来たんじゃないの?」
「……そうだな。この間みたいに、あんま布団汚すなよ?」
シーツが前回のままであることに、クレはまだ気付いていない。大きく欠けた月は雲に覆われており、室内はお世辞にも明るいとは言い難かった。
布を確認させて反応を見たい、いや、エドに見せたいと思うエラーであったが、下らないやりとりの最中に寝落ちされては元も子もない。性格の悪い女は戯れもそこそこに、眼前の美女へと手を伸ばした。
「汚したくないならクレが血とか流さないように頑張れば?」
「出血なんてどうやって止めんだよ」
「えー? 気合いとか?」
エラーが笑いながらそう言い終えると、衣擦れの音と共にベッドが軋んだ。音の発生源の真下で、エドは眉間に皺を寄せて目を瞑る。元々何も見えないというのに、それでも何かを遮断したい気持ちが彼女にそうさせたのだ。
「はっ。馬鹿じゃねーの」
漏れ聞こえる声も、唾液が絡まる音も、エドを逃がしはしない。寝返りを打つ事もできず、ただその場に居るだけの女は、満足に耳を塞ぐこともできないのだ。そのくせ、唾を飲む音にすら配慮しなければならないという、皮肉が効いた状況にいっそ笑い出しそうになる。
落ち着かない気持ちに呼応するように、足首から先が揺れている。無音でふらふらと動くそれは人の肌の色をしてはいるが、寒さにより既に感覚がなくなっていた。靴音に配慮した彼女は、予め靴を脱いで棚に放り込んでいたのだ。とにかく寒い、脱がなきゃ良かった。自身の判断が何から何まで間違っていたことを再認識すると、エドは己の眉間により深く皺を刻んだ。
刻まれた無数の血痕はやはりエラーの仕業であり、しかも経血等ではなく、何かしらの傷によるものらしい。エドは二人の会話からそう推察すると、忌まわしげにベッドを睨んだ。
”出血”、クレが発した単語が妙に引っかかった。つまり、エラーは通常の性交渉にはない特殊な行為をしている、ということになる。エドはそれを判別しようと、真上の物音にいよいよ耳を澄ませた。
「ねぇ、やっぱりここでするの、興奮する?」
「はぁ……? 別に、普通。っつーか、どっちかというと嫌だ」
「だから興奮するか聞いてるんじゃん」
「いい性格してるよ、ホント」
二人は小さな声で囁き合う。しかし、同じ空間、同じ家具の真下に位置するエドの耳は、それを取りこぼすことなく拾っていく。内容はともかくとして、その様子は恋人同士のようである。少なくともエドはそう思った。
当然の事ながら、エドはクレに受け入れられた経験がない。強引に辱めることで始まった関係である。好意的な感情など、起こるはずがなかった。
今晩、エドが最も警戒していたのは、直接的な性行為を見せつけられるという部分であり、二人のやり取りなど全く眼中になかった。だと言うのに、いざ行為が始まってみると、そればかりが目につく。睦み合う二人に苛立つ、自分にもまた苛立った。
惚けるエドの気を引くように、ベッドが激しく軋んだ。唐突な衝撃に心臓が高鳴ったが、少し遅れてクレが押し倒された音だと気付く。
クレの声がか細くなり、途切れ途切れになる。どう耳を澄ませても、快楽に身を委ねているようには聞こえない。似たような加虐趣味の客の面倒を数人見てきたエドは、すぐにピンときた。
首締めか、ハマると結構イイらしいな。一歩間違えると死ぬけど。
エドは心の中で乾いた笑い声をあげる。エラーにそっちの趣味があることは察していたが、これほどとは。脱帽するような、妙な感心を禁じ得ない。調子のおかしい息継ぎを聞くと、エドはエラーが相当手慣れていることを確信した。
これでエドが抱いていた謎が一つ解けたことになる。それは独房から戻ってくるまでの少しの間に、クレが変わってしまった理由についてである。
どうやら彼女はエラーに調教されていたらしい。きっかけは分からないが、どうにかして二人は始まって、性に無関心だった女が自堕落に変貌を遂げた。こういうことかと、エドは一人納得していた。
そうして二人は会話をしなくなった。クレだけは時折、口で抵抗するものの、それらはすぐに短い悲鳴か喘ぎ声に変わる。エドはその様子を耳と振動だけで追うこととなったが、エラーという女の手前勝手で自己中な本性を知る材料としては充分過ぎる程だった。
耳に馴染みのある水音を聞き流しながら、エドはベッドを蹴り上げたくなる衝動と戦っていた。寒さは感じない。感じるのは怒りと焦燥、そして惨めったらしさだけである。
一頻り行為が終わると、エラーはクレの体から指を引き抜き、その指を雲間の月明かりに照らした。体液でぬらぬらと光る指を見て口元だけで笑う。その意味不明な所作は、クレが手首を掴んで強制終了させるまで続いた。
エラーがクレの股の間に指を埋めている間、エドは何度か止めに入ろうとした。クレがひと際大きい声で行為の中断を求めた時、どこかを引っ掻く音がベッドの下まで聞こえて、いや、響いた時も。きっとあることが頭を過ぎらなければ、エドはエラーとの取り決めを反故に出来た。しかし、彼女は気付いてしまったのだ。自分もかつては同じようなことをしてきた、と。
今更どの面下げて邪魔できんだよ。自問自答してみても、ベッドの下から這い出るに値する答えは見つからなかった。結局エドは二人が来る前から居る、同じ場所で静かに息をすることしかできなかったのである。
「ねぇクレ。汚れちゃった」
「……うん」
ぴちゃぴちゃという水音と、漏れ聞こえるクレの息。エドは二人が何をしているか察する。舌を圧迫されるようなクレの妙な声を聞いて確信した。
あの野郎、クレに指舐めさせてやがる。てめぇも素直に従ってんじゃねぇよ、嫌じゃねぇのかよ。
エドはその晩一番の”声を出したい欲求”を抑え、その代償として、数秒息を止めた。
「うえ、血の味……エドに怒られるんじゃねーのか?」
「さぁ。そんなのまだ気にしなくていいよ」
「どういう……」
「まさかこれで終わりじゃないでしょ?」
「おい……勘弁してくれよ」
そりゃこっちの台詞だぜ、バーカ。
エドは目を閉じて、眉間に皺を寄せる。本日何度目になるか分からないその表情に、顔面の筋肉が僅かに悲鳴を上げた。それでもエドは表情を変えようとはしない。そうしてぐるぐると思考に耽る。
あーあ。分かんなくなっちまった。あたしとエラーのしたことの違いってなんだよ。あたしもエラーも……お前をマワした連中だって、同じようにお前を傷付けただろ。なんでエラーだけが許されるんだよ。なんで、もう一回って言われて、何も言わずにてめぇからキスなんてすんだよ。
鈍い頭痛がエドを襲う。寒さによるものか、精神的なものか、はたまた険しい表情を浮かべ続けたことに起因するものかは分からないが、とにかく彼女はまだ解放されないのだ。
行為を再開すると、クレはより熱烈にエラーの責めを求めた。艶っぽい声で、売女のような言葉を口にする。それを生業としているエドですら言わないような言葉達が部屋に響き、一つ一つが深くエドの心を蝕む。そうしてエドは、初めてクレの口から【私】という一人称が飛び出すのを耳にした。
これが決定打だった。長い夢を見ているような気分になり、エドは気晴らしを求めるように自身の下着に指を滑り込ませてみる。あたしはいい加減、現実逃避のバリエーションを増やした方がいいな、と内心で吐き捨てながら。
うんざりする程とろとろになったそこを確認したエドは、これは長い夢ではなく、覚めない悪夢なんだと思うことにした。
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