ACT.46
交錯する怒号と笑い声。不規則な足音に鈍い衝突音。悲鳴だけが抜き取られたような、どこか不自然な騒がしさが所内の廊下に反響する。
クレはその喧騒から逃れるように、少し離れたところで一人、壁に背を預けていた。人だかりの中心で何が起こっているのか、見るまでもなく知っていた彼女は、敢えてそれと関わろうとしなかったのだ。
階段の踊り場、騒ぎの真ん中、そこには件の加害者であるゴトーが居る。そうして自身が働いてきた悪事を、いかにもファントムらしいやり方で清算しているところだ。といっても、それは彼女の意志に反して敢行されている訳だが。
その場所が選ばれた理由として、まず第一に、看守達の持ち場から離れていた。そして全てが終わった後、”転がり落ちたようだ”という、子供でも嘘だと分かるような馬鹿げた言い訳を立たせることができる。
つまりそこは、B棟の処刑場なのだ。”踊り場に来い”という言葉が脅し文句として受刑者の間で常用されている事からも分かる通り、それなりに長く収容されていれば自然と身に付く、ここの常識のようなものである。
エラーがボスになってからは、一度も処刑場として機能したことが無かった空間だが、その床は久々に血塗られていた。
暴行未遂が発覚する前からも、ゴトー達は所内で商売を営む娼婦達の恨みを買っていた。被害を受けた本人、親しい者、他の客。彼女が殴られる理由は腐るほど存在した。ゴトーは決して諦めのいい方ではないが、既に腹を決めていたのだ。
他でもない、エラーにその現場を押さえられたのだから。今回ばかりは言い逃れのしようがない。もしこのリンチの後でまだ生きていられたら、その時はもうほんの少しだけ誠実に生きてみよう等と考えていた。もちろん、ゴトーの良心などとっくの昔に消失している。いや、もしかすると初めから存在していなかったのかもしれない。要するに、彼女は今日ここで自分は死ぬと確信しているのだ。
ゴトーが命を落とすであろうことは、クレにも分かっていた。エラーがボスになってからのB棟しか知らない彼女であるが、その前の惨状はエラーやハイド達から聞かされている。リンチが確定すれば大概死ぬ。生き残っても重篤な後遺症に悩まされることになる、と。
恐怖だろうが何だろうが、所内の囚人達をコントロールして、これまでそういった騒動を起こさずに導いてきたエラーを、クレは少なからず尊敬していた。しかし今回、恐らくは本人も禁じ手としてきた私刑を取り行う運びとなった。クレには彼女が何を考えているか、全く分からなかった。
何も分からないし、分かろうとする気も失せたので、クレは一人佇んでいた。部屋に戻ろうにも、下手に動いて誰かに見つかれば、直接被害を受けた者として、私刑に参加させられてしまうかもしれない。そう思うと誰もいない通路の隅で、ひっそりと息をするのが最善に思えた。殴っていいぞ、と笑って鈍器を手渡されることを想像してみると、嫌悪に身の毛がよだつ。
数年前、自分を犯した連中と、一体何が違うというのだ。クレは深いため息をつくと掃き溜めのような場所でしか生きられない己に嘲笑を送った。このところ、エラーと情事に耽る時間が増え、めっきりと過去を思い出すことが少なくなった彼女だが、当事者になるとなれば話は別である。最大限の拒否と嫌悪を示し、絶対に関わらない。ゴトー達のしたことを許すつもりはないが、自身の人生を捻じ曲げた下衆共と同類になりたくない、という感情に勝るものなどありはしないのだ。
人だかりの中心にはエラーがいる。始まる前の様子から考えて、おそらくはつまらなさそうな顔をしたまま、ゴトーが呼吸しなくなるのを見届けるのだろう。彼女がこの狂った空気を楽しんでいないことが、クレにとって唯一の慰めである。
鎖骨にそっと触れると、鈍痛が走る。違和感は感じていたが、まさかこれほどとは。痣になっているであろう場所からそっと手を離すと、嘆息と共に声が漏れた。
「ってぇ……」
痛みを痛みとして、正しく認識できた身体に、クレは内心で驚いていた。噛まれた鎖骨も、首も耳も、爪を立てられた背中も、真っ最中は全てが快楽を得る為のスパイスにしかならないというのに。今は魔法が解けたように、じくじくと痩身を蝕んだのだ。
クレはエラーの魔力の源について考えた事がある。結局分からずじまいだが、少なくとも愛などという陳腐なものでないことだけは明確だった。二人の間に恋愛感情はやはり存在しない。利害が一致してしまった彼女達は、ずるずると関係を続けているに過ぎないのだから。
おそらくエラーは、きっとその気になれば自分以外の女が相手でも、同じように抱けるのだろう。クレはそう考えており、事実それは当たっていた。エラーにとって大事なのは、クレであることではなく、嗜虐心を煽る者であることだ。
断ち切るべき関係だとは分かっているものの、クレは上手く区切りを付けることが出来なかった。嫌なことを考えずに済むのは最中だけ。思考を痛みと快楽に強引に塗り潰される楽さを、齎される感覚に身を委ねる浮遊感にも似た解放感を、彼女は知ってしまったのだ。
どうにかすべきだという自覚はあった。今後の人生のことなどどうだっていい彼女であるが、駆け足で死を目指すように生き急ぐつもりはない。
しかし、話し合おうにも、二人きりでしか出来ない話である上、そうなってしまえば話よりも優先してしまうのが行為そのもの。悪循環であること、この上なかった。
クレの心は、抜け出さないといよいよマズいかもしれないという危機感と、その気になればいつでも離脱できるという根拠のない楽観さがない交ぜになり、さらに制御しきれない性欲で”あと一回だけ”と、その二つをさらにぐちゃぐちゃにかき混ぜたような状態であった。
「猿みたいにヤってばっかだから体も痛ぇし、話も進まねぇんだよ……」
「クレさん、こんなところに居たんですか」
「……お前も馬鹿馬鹿しくなって抜け出したのか?」
喧騒に背を向け歩み寄ってくるのは、同じく凶行の被害者、ということになっているムサシであった。アンニュイな表情を浮かべるクレとは違い、ムサシは殺気立った目をしている。何かしたかとクレの心臓は跳ね上がったが、すぐにその殺意の矛先が自分ではないことに気付く。
そう、ムサシはゴトーのところへは行けない。真相を知るエラーがそのように働きかけている他、さらにエラーには内密に、別口でハイド達が手を回していた。あいつだけは近付けるなという、日頃から無気力で有名なハイドの、これ以上ない真剣な願いである。指示を受けた二名は、私刑の輪の外に居るようにと、中心どころかムサシがその人ごみに混ざることすら許さなかった。
「……まだ、憎いか」
「当たり前じゃないですか」
「そうか。そうだよな。悪い」
「いいえ」
ムサシはきょろきょろと辺りを見渡してどこかへ行こうとしたが、それをクレが止めた。彼女の手首を掴み、待ってくれと声を掛ける。不思議そうな顔をして振り返るムサシに、クレはずっと告げようと思っていた言葉を吐き出すことができた。
「ごめん、オレ、あのとき……」
「あの時? 何の話ですか?」
視線がぶつかる。
青白い白目に浮いた真っ黒な瞳は、ただクレをじっと見た。二人の身長差は二十センチ以上になる。当然、ムサシが見上げるような格好にはなっているが、むしろ堂々としているのは彼女の方であった。
クレはというと、小柄な女に気圧されているようにも、怯えているようにも見える。そうして、きまりが悪そうに一瞬目を伏せると、もう一度その他意のない真直ぐな視線と対峙した。
「ゴトー達に反撃しろって、お前が言ってくれた時……オレ、何もできなかった」
「あぁ……いえ、突然のことでしたし、いつも喧嘩が強いといっても、あんな状況じゃいつも通りなんて振る舞えませんよ。私の方こそ、クレさんに勝手な理想を押し付けてすみませんでした」
この二人が互いに謝り合う状態になると、決まってクレが気まずい思いをすることになるのだ。居心地の悪さを感じながら、クレは以前、ゴトー達に暴行されたササイについて、不容易な発言をしてしまったことを思い出していた。
「それじゃ」
「おい、どこに行くんだよ。まさかお前」
「いやですね。ボス達の面子を潰すようなことはしませんよ。ただ、もっと離れたいんです。何も聞こえなくなるところまで」
そう言うムサシの横顔が、クレにはどこか艶めいて映った。まるでこれから逢瀬であるかのような表情である。所内で同性愛の話題は取り立てて珍しいものではない。むしろ、一度も女と話題になったことのない囚人の方が少ないくらいだ。
しかし、クレの知る限り、ムサシは一度もそう言った意味で、囚人達の口の端に上った事がない。もしかするともしかするのかと、やけに他人に無関心そうな彼女の背中を見つめながら考えた。ムサシに想い人ができたせいか、クレが土壇場で彼女を失望させたせいかは分からないが、確実に以前とは違う何かを感じたのだ。
ゆっくりと自身の脇腹に触れる。痛いと、声に出す事すら憚られたその疼痛に、僅かに呼吸を乱して耐えてみる。自分がこうして動けなくなっている間にも、変わっている人間がいるというのに。
自身のエラーとの関係が始まったことについて、クレはどうしても前向きに捉えることが出来なかった。
変わってるんじゃない。壊れているんだ、オレ達は。そんな言葉を飲み込むと、クレは頭部を壁に押し付けるようにして、凭れかかりながら蛍光灯を睨もうとした。しかし、予想外の痛みが後頭部に走る。おそらくは行為の最中にどうにかしてできた瘤だろう。
あまりにも徹底した負傷っぷりに、クレは頭を押さえると、堰を切ったように笑い続けた。ムサシとムサシの想い人を羨ましく思った気もしたが、痛みという波に浚われ、すぐに消えた。
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