ACT.45

 ——辛かったんだよね。


 優しい声が響くのは、女の頭の中。言葉、声色、表情、仕草。声の主は、女に完璧ともいえる慈悲を与えた。


 ——また来てね。


 いつだって女は全面的に受け入れられてきた。暖かく、つい長く触れていたくなるような言葉は、どこまでも心地よかった。所詮は自制心がまともに働かないクズである。一度足を止めてしまえば、あとはずぶずぶと取り返しのつかない深みに嵌るだけだ。それは、もはや自明の理とも言えた。


 エラーは注射器を入れたポリ袋をそのままポケットにしまうと、自室のベッドに腰掛け、目を瞑っていた。頭の中で鳴り止まない、サタンの声に聞き入っていたのだ。

 彼女はエラーの行いをほとんど咎めない。ただ静かに話を聞き、側にいるだけで、非難や否定を求めていないエラーには大層都合のいい相手であった。性行為について、場所や時間など、もっと慎重に行動しろという忠告をする場面はあったものの、エドの部屋を使った事にすら、「さすがに可哀想」と言うに留まった。


「……はぁ」


 だというのに、エラーは釈然としない気持ちでいた。


 どうせならもっと積極的に言葉を投げかけてほしい。受け入れられないところがあるのなら、教えて欲しい。

 本人も無意識の内に、サタンに対する欲求は少しずつ大きくなっていた。クレとは体で繋がっているだけ。エドとはそのせいで不仲になった。ラッキーは元々良くわからない。以前のように仕事をこなさないボスへの、風当たりは徐々に強まる。

 たまに顔を合わせる情報屋の女は、聞いてもいないのに現在のエラーの評判を本人にぶつけた。悪気があってわざとやっているのか、エラーは量りかねていたが、結論が出る前に、どうでもいいと一蹴している。曖昧な返答をしては煙に撒き、その度に周囲と溝が深まるのを感じていた。

 つまり、今となっては、エラーの絶対的な味方はサタンのみ、ということになる。


 一人で生きていくことを困難だと思っていなかった彼女だが、いつの間にかサタンの底無しの懐の深さに絆されていた。全ては見せかけに過ぎない訳だが、そうまでして自身に優しくするメリットが思い浮かばない。エラーはサタンの優しさを、元来の性格に起因するものだと信じて疑わなかった。

 そして、自分の思うままに行動しているにも関わらず、頭の片隅には常に「サタンはどう思うだろうか」という考えがついてまわるようになっていた。


 エラーはこれから、の準備に向かう。しかし、今からしようとしている事が、ボスとしてやらなければいけない事なのか、単純に自分の趣味なのか、はたまたサタンに対して「自分はきちんと仕事をしている」とアピールをする為の行動なのか、彼女には分からなかった。

 おそらくはその全てが混じり合った結果の結論なのだろう。導き出した答えの過程があやふやなまま、エラーは自身の決断を肯定した。まるで、子供が嫌いな食べ物を丸呑みしているような格好であるが、彼女は咀嚼を諦めてしまったのだ。いくら考えても、他にいい案は思い付かない。それでいて、どうにかしなければならないという衝動に突き動かされていた。


 部屋を出て、ラッキーが自室に戻っていることを知ると、エラーは少しほっとする。今はあの飄々とした変人とは、顔を合わせたくなかったらしい。談話スペースのテーブルの横を通り過ぎ、弐の部屋のドアを叩くと、不機嫌そうな声が彼女を出迎えた。


「ほら、シーツ外して持ってけよ」


 部屋に入るなり、エドはベッドを顎で指す。どことなく室内の空気が淀んでいるのを感じながら、エラーは閉まったばかりのドアの前に立ち、わざとらしく首を傾げた。


「うーん。私がエドに話しかけた用件は聞いてくれないの?」

「あ? んなもん後だ、後。とりあえずこいつを綺麗にしろよ」


 エドはエラーへと歩み寄る。あと一歩でも近寄れば、彼女はエラーの胸ぐらを掴むだろう。完全に被害者のつもりでいる女はどこまでも強気だった。口答えする余地は無いと言わんばかりに横柄に振る舞う。

 彼女の認識自体、間違ったものではない。しかしエラーは全てを引っくり返す切り札を携えている。その受け答えは淡々としたものだった。


「いいの?」

「はぁ? いいに決まって」

「また汚れるのに?」


 言葉の意味を考えているのか、分かっていて考えたくないのか、エドは「は?」と短く声を発してから、黙り込んだ。そこへ抑揚のない声が追い打ちをかける。


「私の用件、話していいよね?」


 返答を聞く前に、エラーはベッドに腰掛けた。まるで自室であるかのような振る舞いである。すぐ隣をぽんぽんと叩いて、惚けているエドに座るよう促す。

 エドから見れば、エラーは恋敵だ。素直に従うことは憚られたが、妙な胸騒ぎに言い包められて、結局彼女は叩かれたところに腰を下ろした。


「で、なんだよ」

「これ。見覚えあるよね」


 エラーはポケットから袋を取り出すと、優しくエドの膝の上に乗せる。心底うざったそうにそこに視線を向けると、ゆっくりと時間をかけて瞳孔が開かれていった。信じられないものを目の当たりにし、徐々に状況を受け入れていく瞳の動きに、エラーは場違いに見惚れている。


 そんな好奇の視線に、今のエドが気付く筈もない。喉が声の発し方を忘れ、驚いた表情には声だけが付与されていなかった。アンバランスで滑稽である。エラーは懐かしい玩具を見るような顔で、優しくエドに話しかける。


「ねぇ」


 問い掛けに答えはない。エラーもそれを望んではいなかった。どうせ声は出せない。分かっていて、もったいぶるように、エドの肩を抱き寄せる。


「私さー、これ見つけたとき、エドを半殺しにしようとしてたんだ。いや、殺すかもって思った」


 脅しのように聞こえるが、これは紛れもない事実である。エラーはサタンにの存在を知らされた時、何の罪もないサタンに当たりそうになるほどに怒り心頭だった。この思い付きがなければ、当時のことを思い出して同じように我を忘れることができただろう。


「でもさ。もういいよ」


 ある種、その”素晴らしいアイディア”がエドを救ったと言える。


「もういいの」


 否、エラーの悪魔のような思い付きにより、エドは最低だと思っていた床の底が抜けるような思いをすることになるのだ。

 エラーは目の前にあった耳に口を寄せる。触れるのではないかというほど近付けると優しく囁いた。くすぐったさの正体が息なのか唇なのか、見えていないエドには判別がつかない。とにかく、曖昧で生暖かい何かがエドの耳を蹂躙した。


「一晩ベッドの下で寝てくれたらチャラにするよ」


 意味が理解出来ず、エドはそんなことして何になると言いかけたが、それはエラーの忠告によって遮られる。


「シーツ替えるのは待った方がいいよ。また汚れるもん」

「……おま……まさか」

「そ。途中でクレに気付かれたらどうなるか。考えて寝てね」


 エラーはそう言うと耳から口を離して、忘れ物を手に取るように、再び口を寄せて甘噛みした。耳を食まれても、顔を覗き込まれても、エドは反応を見せない。そうされたことにすら気付いていないという風に、壁を見つめていた。

 彼女の視線を辿って何もない事を確認すると、エラーは立ち上がった。つい先日も訪れて、好き勝手に使った部屋である。改めてベッドシーツを見ると、この状態のまま使用できる者がいるようには思えない、そんな有様だった。


 放心状態のエドは、ふらりと立ち上がった。袋に入った注射器がかさりと音を立てて足元に落ちる。膝に注射器を置かれた事も忘れていたようで、彼女にとって”心当たりのない何か”の物音に一瞬反応を示して見せたが、結局どうでもいいとでも言うように、すぐに靴を脱いで布団に包まった。

 奇しくも、「ここで寝起きできるって、冗談でしょ?」と思ったエラーに応えるように、実践して見せた形になる。流石にちょっと可哀想だったというサタンの言葉を思い出し、なるほどという感想を抱かずにはいられない光景であった。


「今のうちにベッドの下、掃除でもしておいた方がいいんじゃない?」


 エラーは忠告とも嫌味とも取れる言葉を発して部屋を後にした。エドを飲み込んだ布団はぴくりとも動かないまま、夜を迎えた。


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