ACT.44

 B-4区画、談話スペースには二人の女が居た。一人は正面に座る小柄な女の顔をニヤニヤと眺めており、もう一方は格子の向こうの廊下を見つめている。視線の先では女二人が壁に背を付いて談笑しており、彼女がどちらを見ているのかは分からない。しかしそれを観察する女、ラッキーに言わせれば、どちらが彼女の視線を奪っているのかは明白であった。


「ねぇ、エドちゃんってさ」

「うるせぇ」

「まだ何も言ってないじゃん!?」

「言わなくても分かんだよ、どーせくだんねーことだろ」

「クレちゃんが好きって?」

「ぶっ」


 廊下に視線を送っていた女、エドはおもむろに口元に運んでいたコップの水を吹き出すと、袖で拭いながら、そんなんじゃねぇと反論する。ただでさえ分かりやすい視線に、このリアクションである。ラッキーはけらけらと声を上げて笑った。 


「見過ぎだよ、無意識だったの?」

「っせーな……言うなよ、今度こそ」


 ラッキーを睨みつけてから、エドは己の失態に気付く。これでは彼女の言い分を肯定しているようなものではないか、と。コップを握りしめて俯くと、自然とため息が口をついて出た。

 エドの言う”今度こそ”の意味を少し遅れて理解したラッキーは、呆れたような表情を作る。


「……エドちゃんとクレちゃんのことだよね? 私は最初から、”当時者以外には言わない”って言ってたよ」


 ラッキーはそう告げるとまた笑った。対するエドは、未だに言葉の意味を理解できていないらしい。威嚇するように「あ?」と言うと、正面の女を睨み付けた。察しの悪いエドに、ラッキーははっきりと馬鹿にでも分かるように告げる。


「だーかーらー、クレちゃんって当時者じゃん、思いっきり」

「てめ! ずりぃぞ!」


 ようやく言葉のからくりに気付いたエドは、立ち上がるとテーブルに手をつき、ラッキーの胸ぐらを掴んだ。突然の起立に驚いた椅子は、音を立てて弾かれる。辛うじて倒れずに済んだそれは、壁に寄り添うようにして成り行きを見守っていた。


「そのときに気付かないエドちゃんが悪いんじゃん」


 呆れたような視線と、怒りに満ちたそれが交錯する。囚人服を握る力は緩まない。苦しさを感じながらも、ラッキーは楽しげに笑ってみせた。

 ここで起こることの全ては自己責任。新入りにそれを再認識させられた事をみっともないと思ったのか、乱暴に手を離すと、椅子を引き寄せて座り直す。その横顔は少々ばつが悪そうに見えなくもない。


「くっそ……てめぇら、あたしに恨みでもあんのかよ……」

って?」


 突然何を言い出すのだ。もしや、自分の知らないところで何か面白い事が起こったのか。ラッキーはそわそわして詳細を話すよう促す。しかし、それはラッキーも知っている、あのことだった。


「エラーだよ。あたしの部屋、ヤリ部屋に使っただろ」

「あーそれね……しかも、クレちゃんとのね」

「知ってるよ」

「ま、いいじゃん。エドちゃんだってクレちゃんとしたんでしょ。互角? 的な」

「別にそんなん競ってねーし」


 ラッキーに愚痴った自分が馬鹿だったと言わんばかりに、エドは気だるげに手を払った。エラーは合意の上で行為に及んだのだ。これを互角と言える彼女の神経の図太さに、エドは感心すらした。


「あのさー、こういう会話って、気持ちを隠せば隠すほど、ややこしくなるからさー。はっきり聞いていい?」

「あ?」

「エラーちゃん、ムカつくんでしょ」

「……うっせぇ」


 ムカつくに決まってんだろバカか。エドは言葉を飲み込んでテーブルに突っ伏した。金属でできたそれは酷く冷えており、鼻先が触れると彼女は瞬きのように目を見開く。

 ラッキー相手にクレへの気持ちを認めてしまった。黒一色の視界の中、それがどれほど愚かなことか、エドはやっと気付き始める。


 クレが自分を歓迎する可能性は限りなくゼロに近い。エドはそう客観視している。というよりも、そもそも彼女は両想いになることなど望んでいなかった。愚かにも本気になってしまった自分が居て、抱いた感情は身体の中で腐っていくだけだと割り切っていたのだ。

 エドの関心が、己の気持ちがこうも他人に察せられやすいのは何故なのか、という方向に向かうのは必然と言えた。参考になるかは分からないが、目の前の変人に訊いてみるのもいいかもしれない。そうしてやっと顔を上げる決心を固めたエドであったが、意外な人物の声が先に響くことになる。


「エド。ちょっといい?」

「……あ? エラーてめぇ」


 聞き慣れた声にエドが顔を上げる。それは彼女が現在、この世に存在する全ての中で、最も忌々しく思っている女の声だった。


「ちょっと来て」

「いいや、あたしの話が先だ。てめぇら、あたしの部屋で」


 噛み付くように睨むと、エドは怒りをぶちまける。しかし、エラーに悪びれる様子はない。「いつもと違った場所でしてみたかったんだよ、そんな怒んないでよ」などと言い、さらにエドを煽る。ラッキーはそんな二人の顔を交互に見ていた。


「あぁ!? てめぇが普段寝てるベッドで他の連中がヤったことを怒るな!? 怒らねぇヤツ連れてこいよ!」


 エドの言い分は尤もであったが、ここはファントムである。妙な感覚の持ち主は掃いて捨てるほど居た。そして、よりにもよってその代表格とも言える女が、その空間には居たのだ。


「ラッキーちょっと来て、ここに立ってくれる?」

「はいはーい」

「てめぇは怒れよ!」


 ラッキーがニコニコしながら立ち上がると、エドの怒号が飛ぶ。彼女はテーブルをばんと叩き、怒りを顕にした。


「えー? だって、ねぇ……? 綺麗に使ってくれればいいかな。できれば終わったあとで、シーツも替えて欲しいけど」

「あ!? コイツらがそんなことする訳ねーだろ! あたしの布団やシーツなんて血まみれだったんだぞ!」


 飄々としていたラッキーだったが、エドの受けた被害が一段上のものであったと知ると、エラーを訝しむように見た。


「えぇ……あー……それは、ちょっと、引くなぁー……っていうか、血……?」

「……ラッキーに引かれるって、結構傷付くんだね」


 エラーは肩を落とす。その様子を見ても、ラッキーは前言を撤回する気にはならなかった。

 所謂SMのようなものの存在はもちろん知っているが、布団が血まみれになるようなそれに覚えがないのだ。エドの部屋で行われたのは性交渉ではなく、別の何かだったのではないかと勘ぐってしまう程であった。


「はいはい、わかったわかった。替えを用意すればいいんでしょ。っていうか持ってっちゃうから、外したのちょうだい」


 分が悪いと判断したエラーは素直に負けを認め、手を差し出した。古いものをクリーニングに出して、一等綺麗なシーツに替えればそれで満足するだろう。催促するように手を動かすが、エドは手のひらを睨み付け「あ?」と言うのみである。


「あ? じゃないって。まさかそのまま使ってないでしょ」


 冗談まじりにそう言ったエラーだが、洒落にしても有り得ないと思い、少し笑う。しかし、エドは無言で視線を逸らし、一向に言葉を発しようとしない。その様子に、徐々にエラーのその表情が強張った。口を半開きにして絶句しているエラーの隣で、ラッキーが呟く。


「え、ごめん。エラーちゃんよりエドちゃんに引く」

「さすがに私も、あれでそのまま寝てるのは……」


 軽蔑、いや、エドに向けられたのは同情にも近い視線であった。そのような目で見られて黙っている彼女ではない。


「てめぇが汚したんだろ! あたしは替えねぇぞ! てめぇらが汚したのになんであたしがそんな労力割かなきゃなんねーんだよ!」

「はぁー……分かったよ。取りに行くから部屋で待っててくれる?」


 これは引きそうにない。エラーはエドの状態を見て、そう判断した。エドは「とっととしろ」と言い残すと、乱暴にドアを閉める。

 エドがその場から去ってしまったことを残念がるラッキーは、まるで見世物小屋の見物客である。お開きと分かると、彼女もまた、自室へと戻って行った。


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