ACT.43

 刑務作業が無い日の一日は長い。

 受刑者の免業日の過ごし方には、かなり性格が出る。初めは誘われるがまま適当に時間を潰す者も、数カ月が経つ頃には大抵が落ち着く”何か”を見つけるものだ。

 休みがかぶった囚人と駄弁って過ごすもよし、運動場で体を動かすもよし。例えば、以前のエラーであれば、所内を散歩して、周囲にアンテナを張り巡らせていた。


 本日はサタンとエラーの免業日であった。サタンは読書や花の世話など、慎ましやかに過ごすことが多いが、冬の間は花壇に行ってもすることがない。考えれば何か出来る事が見つかるかも知れないが、運動場に行くということは、つまり屋外に出ることを示す。室内で過ごすと即決する程度には寒さに弱いサタンは、専ら自室に篭って本を読んでいた。


 エラーが部屋のドアをノックした時も、彼女はベッドの縁に座り、ページを捲っているところだった。迷い子を招き入れ、サタンは優しく笑う。前回は座ってもらえなかったベッドへと導いてみると、女は言われるがまま腰を下ろした。

 床に座ってぐずられると、長引いたときが辛い。風邪を引きたくなかったサタンは、内心でほっとしつつ隣に腰掛け、エラーにこの部屋を訪れた訳を尋ねた。


「……頭おかしくなりそう」

「おかしく? もうおかしいんじゃないの?」


 サタンはわざとらしく、驚いたような表情を作って声をあげる。そう、既におかしいとしか思えないのだ。何をどうしたら不在の仲間の部屋で、セックスに及ぶ等という奇行に走れるのか。彼女には全く理解できなかった。


「エド、流石に可哀想って思った」

「……うん」


 前回エラーがサタンの部屋に押しかけたとき、彼女は超が付くほどエラーを甘やかした。かと思えば、この冷めた対応である。エラーは密かに落胆していた。


「怒ってる……?」


 相手の機嫌を窺うなど、普段の彼女ならば絶対にしない。有り得ないと断言してもいいだろう。しかし、今は縋るような目でサタンを見つめていた。

 どうやらエラー自身もこの状況に混乱しているらしい。サタンはそう解釈すると、僅かに首を傾げた。エラーの甘えた態度にも、顔色一つ変えずに応対してみせたのである。


「どうして?」

「だって……」

「あの時、エラーは今にも死にそうな顔をしてた」

「そっか……」


 優しくしたくなるのは当然だよ。そう言ってエラーを見る。エラーはばつが悪そうに、床に視線を落としていた。

 当然、突き離すだけでは終わらない。サタンは距離を詰めるように座り直すと、優しく彼女の背中を撫でた。


「この間言ってたこと、あれは?」

「……この間? あぁ、全部駄目になったってやつ?」

「そう。クレとのことなんでしょ?」


 エラーは口を噤み、背を丸めた。彼女がこれほど弱っているところを見せられるのはサタンだけだ。そして、彼女はその事実を好ましく思っていた。しかし満足はしていない。

 もっともっと彼女の奥深くに入り込まなければ。自害するよう仕向けるというのは並ではない。もはや洗脳に近いと言っていいだろう。唯一にして絶対、そこまで登りつめなければ為し得ないことなのだ。


「ごめんなさい、言いたくないなら」

「待って。言いたくない、わけじゃ、ないと思う」

「無理はよくないよ」

「違う、本当に……ただ……」

「ただ?」


 サタンの問いかけには答えず、エラーはしばらく黙ったあと、「自分でもどうしたいのか分からない」と言った。さらにその言葉の余韻が部屋から消えたあと、「だから何を話したらいいのかも分からない」と続ける。

 笑い出しそうになるのを堪えて、サタンはそうとだけ言った。彼女はおかしくて堪らないのだ。先日、部屋を尋ねて来たときのあの落ち込みようはまだ理解できた。おそらくは、クレと関係になって間も無かったのだろう。


 しかし、それから既に数週間が経った。にも関わらず、散々快楽を貪りながらも、目の前の阿呆は未だに何も分からないのだと宣う。この矛盾した行動の所以を、サタンはよく知っている。所謂、現実逃避というものである。

 つまり、エラーはボスを勤める理由を失ってしまえば、どこにでもいるようなクズに成り下がってしまうのだ。かつての振る舞い、言動、決断、彼女を完璧なボスたらしめていた全てが作り上げられたものだった。サタンにはそれが可笑しくて堪らなかったのだ。


 それを知っても尚、サタンの興味は薄れなかった。むしろよりかき立てられたと言っていいだろう。つまりは、考えたくない事を後回しにして性行為に耽るようなどこにでもいるクズが、何かから逃れる為に、ロボットと評されるほどの仕事っぷりを披露するボスへと変貌を遂げたのだ。これは並大抵ではない。

 そもそも普通のクズなら、例え己が死ぬとしてもそんな大役は務め上げられない筈だ。そうすると、彼女は普通より少しマシなクズか、もしくは待ち受けるものが死すら生温い地獄だったかのどちらかである。サタンは前者である可能性を考えた直後、”有り得ない”と一蹴して、エラーを見た。彼女をそこまで追い込んだものが何なのか、興味は尽きない。


「散々ヤっといてなんだけど……このままじゃマズいって思ってる」

「うん。エスカレートしてるの、気付いてる?」

「……そうかな」

「まさか自覚がないとは言わないでしょ。せめて部屋を覗いたら見えるようなところは止した方がいいよ。ラッキーも馬鹿じゃない、もちろんエラー達の関係に気付いてる」


 エラーは静かにサタンの言葉に耳を傾ける。耳から進入した音は、意味を持って彼女の脳に染み込んだ。


「エラーの考えてることはなんとなく分かる気がするの。確かに、シてる間は気が紛れていいかもしれない。だけど、だからって四六時中するっていうのはおかしいよ。先伸ばしにすればするほど、問題は大きく複雑になるもの」

「全部サタンの言う通りだよ」

「あなたは麻薬反対派のボスだけど、今のエラーがしていることって、セックスと麻薬がすり替わっただけだと思わない?」


 ここでサタンははっとした。あれほど麻薬の流入を嫌っていた彼女にこの言い回しは些かキツ過ぎたかもしれない、と。顔には出さず、密かに後悔していたのだ。

 しかし、エラーは「麻薬ねぇ」と呟き、鼻で笑った。


「確かにね。もうドラッグとか、どうでもいいけど」

「……てっきり、嫌な思い出があるんだと思ってた」

「まさか。無いよ。これでもムショに入るまでは無縁な生活を送ってたし。ただ、何かを許すよりも、許さない方が忙しくなるでしょ。だから、私はドラッグ反対派のボスをやってるだけ」


 エラーは自身のつま先をぼうっと見つめながら、ぼそぼそと語る。その内容にサタンは戦慄した。全身に鳥肌が立ち、思わず身震いする。

 この女は、一体どこまで最高なんだろう。サタンはそんな思いに打ちひしがれていた。


 あれほど拘って見せたドラッグすら気を紛らわせる為の材料だなんて、一体誰が想像できる。ここでは軽々しく過去に言及する者はいないが、皆心の中ではエラーが薬物にトラウマを持っていると思っている。確認をしたことはないが、間違いない。

 だというのに、それをこの女は、実につまらなさそうに話すのだ。昂ぶり過ぎたせいか、座っているにも関わらず、立ちくらみのように意識が遠のいていく。サタンはぐらつく頭を軽く押さえながら平静を装った。


「エスカレートしてるよね。自覚はあったよ。これまでも、そうだったし。私、逮捕されたとき、何してたと思う?」

「さぁ。のんきに寝てたとか?」

「ちょっと惜しいかも。女と寝てた」

「あら」

「殺人未遂で現行犯」


 エラーの瞳はどこか虚ろで、過去を思い起こしているようにも、この先に絶望しているようにも見える。一方でサタンは言葉を失っていた。どう転んだらセックスをしている二人が、殺人未遂事件の被害者と犯人になるのだと。

 浴場で見たクレの傷、エドの部屋で見たベッドシーツ、それらを思い起こしながら、サタンはエラーの瞳を見つめていた。


「その時はね、彼女の耳を切ってた」

「耳……?」


 もう嫌な予感しかしない。

 内心でげんなりしつつ、サタンは相づちを打つ。


「うん。あ、全部じゃなくてね。上の部分」

「上の部分だけでも大事だと思うけど」

「あとは、わりと普段通りに。首締めたり。引っ掻いたり。口塞いだり。噛んだり」

「もういいわ」

「でも、出血量と、頭に近いところを怪我したせいかな。あの日の彼女はワケわかんなくなったみたいで、いつも以上に私にしがみついてきた。伸ばされる手を鬱陶しく思った。私の邪魔になるからって、遠慮するような子だったのに。そんな些細な気遣いすらできなくなるほど必死な彼女に。めちゃくちゃ興奮した。ほんとうに、頭、おかしくなるかと思った」


 エラーはサタンの制止を無視して、箍が外れたように語り出す。無視をしているというよりは、まるで聞こえていないという格好だった。そこまで語ると、はっと気がついたように言葉を切って、ごめんと謝罪した。

 謝ることなど何もない。口には出さないものの、サタンはそう思った。彼女はいくつかの点が綺麗に線で繋がったことに、小さな感動を覚えていたのだ。


 エラーという女が何から逃げていたのか。クズにあたかも更正したかのように振る舞わせる程の何か。それは己の性癖だったのだ。

 こればかりは特定の時期、時間だけ気を付ければいい、というものではない。思考というのは常に存在していて、何かに対する考えや言葉が、頭の中という無とも小宇宙とも言える暗闇の中を揺蕩い続けている。それから逃れる術と言えば、寝るか、全く別のものでその暗闇を照らすかのどちらかになる。つまり、サタンの目の前のダメ女は、実にシンプルな解決法を縋り付いていただけなのだ。


「えん罪だって彼女も訴えてくれたけどね。その前に付き合ってた子がフラれた腹いせでチクったみたい」


 エラーは首に手を当て、話しにくそうに続ける。その横顔は、この期に及んで被害者のような気配を孕んでいた。サタンはその図々しさに感嘆する。


「診断書なんて取られたら駄目だよね。私、反論できないもん。合意があったなんて言っても誰も信じてくないの。そりゃそうだよね、異常だもん」


 かつて、ラッキーがエラーに罪状を訊ねたときも、彼女はえん罪だと言った。ラッキーは本気にしなかった訳だが、エラーに言わせればやはりえん罪に違いないのである。

 この一件は、現行犯逮捕された事件の被害者がえん罪を訴えるという、極めて珍しい判例として記録が残っている。知る人ぞ知る事件に対し、司法が下した結論は、被害者は洗脳状態にあった、というものだった。

 それを手伝ったのは他でもない、被害者とされた女の寝返りである。ある日突然、証言を180度変えたのだ。そうしてエラーは二名の殺人未遂で実刑を受けることとなった。


「でも、駄目なんだ、私。普通にしても、物足りなくて。お預け食らった感じしかしないっていうか。それなら最初からしない方が楽だし、誰の事も好きにならない方がいい。私は人を殺したいと思ったことはない。でも」

「なに?」

「あの時警察が来なかったら、多分、私はあの子を殺してた」


 沈黙が流れる。どちらが幸せだったのかなんて陳腐な事は考えない。ただ、もし邪魔が入らなければ、二人にとって最高のセックスになっていたんだろうと、サタンは察した。


 エラーがクレを殺すのが先か、自分がエラーを殺すのが先か。サタンはこの先の未来を占って、口元だけで笑う。

 彼女はエラーを止めようか否かをしばらく迷っていたが、つい先日、エドが自室のベッドを目の当たりにした時の落ち込みようを見て、方針を固めていた。

 エラーにストップをかけるのは賢くない。何故ならば、利口な彼女は正論をそれなりに受け止める事ができる。行動を咎められ燃え上がるタイプであればもちろんそうしたが、彼女は違う。一度欲望のままに行動した人間の自制心を信じる訳ではないが、足枷になる可能性がある言動は避けたかったのだ。

 チェックメイトには、必ず彼女にをさせる必要があった。要するに、彼女はエラーの暴走を望んでいた。


 この二人の中で最も狂っているのは、エラーのしてきたことでも、サタンの望む未来でもなく、サタンが自身のその欲求に、愛という名を付けている事だろう。

 エラーと深い仲になりたい、性的なそれなどという猥雑なものではなく、もっと根っこの部分で繋がれるような何か。自身ですら正体の分からない、足りないピース。それを脳内で追いかけながら、彼女はエラーに寄り添い続けた。

 整った横顔は、所内で持て囃される通り中性的だったが、それでいてどこまでも女だった。ぎゅっと握られる手を、同じくらいの強さで握り返す。

 サタンの肩に頭を預けると、エラーは壊れやすい何かを大切に扱うように、そっと告げた。


緒方おがたじゅん

「え……?」

「私の名前」

「……そう」


 サタンの中で、何かがぱちりと嵌る音がした。

 エラーはファントムに入って、初めて本名を名乗った。忘れている気すらしていたそれは、存外すんなりと声に成ったらしい。音になった自身の名に、エラーは少しだけ驚いたように目を見開いていた。


 告げた理由は本人にもよく分からない。ただ、自身が死に瀕するような極限の状況でも、彼女だけは味方になってくれる。エラーの直感がそう言ったのだ。そしてそれは間違っていない。悲しいほどに、間違っていなかった。


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